三月の雨
21
高校の卒業式には、必ず来てね、と何故か保護者でもないのに呼ばれ、圭は道すがら小さな花束を二つ買った。一つは歩美ちゃんに、もう一つは哀ちゃんに。
男どもには必要ないだろう。
阿笠博士が用事があって来れない、ということで参加する事になったのだが、まさか式までは参加しなくても良いだろう。自分の時ですらすっぽかしたというのに、出ていられない。
学校についた頃には、ちょうど式が終わったようで、みな教室の方に移動している最中だった。
多分この後、教室で卒業証書を受け取って、解散になるのだろう。
保護者も教室の方に移動しているようなので、少し離れて圭もその後をついていった。
帝丹ってこんな感じなのか、と哀達の教室を探す。ざわざわと騒がしい雰囲気。
廊下の隅で、人の波が落ち着くのを待つ。胸ポケットで震えた携帯に触れる。
メールを確認すると、哀ちゃんからだった。
場所を伝える。教室から顔を出した彼女に、軽く手を挙げた。
「圭くん」
「おめでと、哀ちゃん、歩美ちゃんも」
はい、と二人に花束を渡す。小さなものだから、そう邪魔にもならないだろう。
花束を受け取った哀の白い頬が緩んで、笑みを形作る。
「かわいい。ありがとう」
「どう致しまして」
「圭お兄ちゃん、久しぶり」
「久しぶり、歩美ちゃん。可愛くなったね」
圭の言葉に、歩美が照れた様に笑った。初めてあった時は、まだ小学生であんなに小さかったのに、いつの間にか高校を卒業する年になる。
もうどのくらい自分はここにいるのだろうと、圭は久しぶりにもとの世界の事を考えた。
「哀ちゃんはこの後何か用事があるの?」
「ないわ。帰るだけよ」
「じゃあ送っていくよ。歩美ちゃんは?」
「私はお母さんとお父さんが迎えにきてるから」
「そう。じゃあ、また今度ね」
「うん。灰原さんもね」
「ええ、また」
卒業式だというのに、ずいぶんあっさりだ。まあ、二人とも地元の大学に行くみたいだし、これで最後というわけでもないからか。
圭の腕にするりと哀が手を絡める。
なんだか機嫌が良さそうだ。
「哀ちゃん、荷物」
卒業式だから、少し荷物が多い。鞄を受け取って肩にかけた。
「この道を歩いて帰るのも、もう最後だねぇ」
スリッパから靴に履き替えながら、哀を振り返る。
「どう? 高校最後の感想は」
「……ようやく、かしら」
「哀ちゃんの制服姿も、見納めだね」
「圭くんが着て欲しければ、いつでも着るけど?」
「ちょっと。俺が変態みたいな発言はよして下さいよ、お嬢さん」
手を繋いで、校舎を出る。空はよく晴れていて、桜の花びらがひらひらと舞っていた。
「桜、きれいだねぇ」
「そうね」
まだそこかしこに生徒の姿がみえる。みな、別れを惜しんでいるのだろう。
ゆったりと家までの道のりを歩く。
圭は都合2回高校に通った。元の世界と、こちらの世界。
こちらの世界では、ずいぶんと長い間ぼんやりと過ごしていた事もあって、卒業式の日の事はあまり覚えていない。
紅子に、「今はここがあなたの生きている世界なのよ」とたしなめられて、ようやく視界が晴れたような感じがした。
いったいどこまで、彼女は自分の事を知っているのか、底が知れない。
でもおかげで、確かに今はここに生きているという事を自覚した。
A.Tもそれからはあまり使わなくなった。それでも、体の中で時を刻むあの感覚だけは変わらずに残っている。
ずっとずっと、空を見て、空を翔て、風とともに生きてきた。
その感覚を今でもとても愛しいと思う。でも、もうなくしてしまったのだ。
「圭くん、何考えてるの?」
「昔の事。ここに来る前の事。空を、駆け回っていた頃の事」
「……昔、私を連れてビルから飛び降りたやつ?」
「そんな事もあったね」
きゅ、と握る手に力がこもる。立ち止まった哀に、圭は顔だけで振り返った。
「昔の事、覚えてる?」
「さあ、どうかな」
「約束をしたわ」
「哀ちゃんと?」
「私と」
下から見上げる瞳に、圭はようやく体ごと振り返って、哀と向き合った。
「どの約束?」
「18になったら、お嫁さんにしてくれるって」
「……ああ、あれ」
いつの事だったか。まだ哀もコナンも小学生で、圭が2度目の高校生活を送っていた頃の、他愛ない約束。
見上げる瞳はいつもより強い意思を持って圭を射抜く。潤んだ瞳に光がきらきらと反射していた。
「圭くん、私、もう18よ。18になったんだよ」
「あれ、本気だったの」
「……私、これでも結構分かりやすくアピールしてたつもりだったんだけど」
「いや、てっきり哀ちゃんはく……コナン君のこと好きなのかと思ってたんだよ」
「なっ……どうしてそうなるのよ! 私、ずっと圭くんのお嫁さんになりたいって、言ってたじゃない」
どこをどうやったらあの推理馬鹿の名前が出てくるのよ、といささか怒った口調で聞いてくる哀に、圭は気圧された。
そんなに、全面否定しなくても。
「あー、とりあえず、ごめん?」
「まったくよ、変な勘違いしないで!」
ぷりぷりと怒る哀の頭を落ち着いて、と撫でる。風が強く吹くたびに桜の花びらが視界を埋める様に散っていった。
柔らかな栗色の髪に絡む薄いピンク色のそれを拾い上げる。
顔は不服そうにしているが、すこしは怒りを治めてくれたようだ。
「とりあえず、未成年でしょ、哀ちゃん」
「16になったら、女の子は結婚出来るのよ」
「いや、まあ法律上はそうですけれども……」
保護者の同意というものがですねぇ。というか、哀ちゃんの戸籍はいったいどうなっているのか、甚だ疑問である。
「俺も、詳しい事は分からないけど、学生のうちに結婚すると、税金とか健康保険とか色々面倒なんじゃないの?」
なんか昔、そんな話を聞いた気がする。大事の前の小事だといわれてしまえばそれまでだけれども。
「せめて大学は卒業してからにしませんか、お嬢さん」
「いーや。嫌! そうやって先延ばしにする気なんだわ」
「そんな事ちょっとしか思ってないよ!」
「思ってるんじゃない!」
「あはは」
怒りなのか悲しみなのか、はたまた感情の昂りなのか。哀の瞳からぽろりとこぼれた涙を圭はシャツの袖でぬぐった。
つないだ手からはあたたかな体温。
「……帰ろっか」
哀の手を引いて、ゆっくりと歩き出す。惜しみなく降る花びらが、まるで雨のようだった。