三月の雨

11

今の心境を一言で表すとしたら、ほらみろ。
ぜったい一人くらいは死ぬと思ったんだ、と異様に苦しみながら倒れた牧を見遣った。
「……wao」
本当にもう、ため息しか出ない。頼むから皆、俺をこういう血なまぐさいことに巻き込まないで欲しいと、切に願う。
隣に座っていた快斗は、圭の淡白な態度に違和感を覚えた。
単純に人が目の前で死んだと言うのに、驚くどころか顔色一つかえないことはもちろんだが、何かが違う、と直感的に思った。
その理由が何なのかまでは分からなかったが。
とにかく、自分も今はあまり目立ちたくないので、浮かせた腰を再びシートに戻す。
快斗は一度彼女の右手に触れている。容疑者となる可能性は極めて高いと思えた。
まあ、名探偵がいるので、ちゃんと解決してくれるとは思うのだが。
不安要素があるとすれば、「迷」探偵の方だ。頼むから、変なこと言ってくれるなよ、とそっと視線を向けた。

予定通り名探偵によって事件は早々に解決し、一件落着、となるはずだった。
が、もちろんこのメンバーでそう簡単に終わるはずもなく。
パイロット達が青酸中毒で操縦不能に陥るのにそう時間はかからなかった。
「君、俺の代わりに操縦桿を握ってくれるかな?」
そう、新庄もとい快斗に気障な顔で言われた圭は口の端が引きつった。
確かに、こういう役を女性にさせるわけにはいかないし、ゲーマーである自分は多少飛行機の器機には詳しい。
本物はないが、操縦だって飽きるほどやった。
シューティングは得意なジャンルだが、もちろんそれが現実で通用するなんて馬鹿な考えはもっていない。
「……覚えてろよ?」
極上の笑みを浮かべて小声で言った圭に快斗も口の端が引きつる。
操縦者を失ったことで機首が下がり飛行機が降下を始める。
ため息を一つついて圭はシートに座り操縦桿を握った。
機首を戻しながらコントロールパネルに目を走らせる。スイッチの位置を確認して、どれが何か分かることに安堵した。
「うまいじゃないか」
「……まぁ、多少の知識と経験はありますから」
それより、埠頭に行くんだろ? と隣に座るコナンに視線をやって先を促す。
燃料がかなりヤバい。
「あ、ああ……じゃあとりあえず高度を上げて右に旋回してくれ」
「了解」
やっぱ本物は重みが違うね、と呑気なことを考えながら、圭は操縦桿をゆっくりとひいた。

隣に座った男が、怪盗キッドと知り合いなのか、新庄と知り合いなのか、コナンは疑問に思った。
今、そんなことを考えている場合ではないのだが、何となく二人の間に親しげな空気がある。
「機器の説明をしとくぞ」
「あ、平気。一応全部分かるよ」
「……だから、お前は一体なんなんだよ」
「何、といわれても返答に困るんだけど」
「出来ないこととか、ないわけ」
「少なくとも宝石の鑑定は出来ない」
圭の言葉に新庄が激しく脱力した。いまいち会話の趣旨は分からないが、どうやら柚木崎の方が一枚上手のようだ。
じっとその様子を観察していると、二人の視線がこちらへ向く。
同時に見つめられて、コナンは一瞬たじろいだ。
「そろそろ埠頭が見えるんじゃない?」
「あ、ああ」
「ま、暗くて見えたもんじゃないだろうけどね」
呑気な声に、冷や水を全身に浴びせられたような感覚を覚えた。
窓の外から視線を戻して柚木崎を見ると、同じくキッドも彼を凝視している。
「お前……先にそれを言え!」
「仕方ないだろ? さっきの状況でそれを言ったら、悪いけど解決策が見つかる前に燃料切れになると思ったんでね」
あと、なんかパニック寸前だったし? と柚木崎が口元に笑みを浮かべた。
たしかに、さきほどまでこの場には蘭達はともかく、子供達がいた。
そして、彼らが絶望的な状況に軽くパニックに陥っていたのは確かだ。
不安は伝染する。
他の乗客に今の状況が知れでもしたら、着陸どころではない、のだが。
「どうやって着陸するんだよ……」
「まあ、行ってみたら意外と明るいかも、とか思ったんだけど、やっぱ暗いねえ」
旋回して高度を下げながら、埠頭の様子を探るが、やはり明かりが少なくこのまま降りるのは無理だ。
どうする、とコナンは爪を噛んだ。
「……柚木崎、俺先に降りるわ。後まかせた」
「はいはい。機体にぶつかんなよ?」
短いやり取りの後に、油圧のスイッチを押してキッドがコックピットから出て行ってしまった。
状況が分からずにそれを見送った後、我にかえってシートベルトをはずす。
キッドの後を追って客室にはいると、既に新庄ではなくいつもの姿のキッドがそこにいた。
非常口があいていて、風が強い。
「何を……」
「じゃあな、坊主」
ふっとドアから姿を消したキッドに、コナンはあわてて駆けよる。飛ばされないようイスにしがみつきながら外を見ると、いつもの白い姿が空を舞っていた。
無事であることに安堵しつつ、逃げたのか、となにか腑に落ちないものがある。
こんなときに、と多少苛つきながらもコックピットに取って返した。

12

「なぁ、あんたキッドと知り合いなのか?」
コナンの問いかけに、救命士に脈を測られながら、圭は視線だけを動かした。
一瞬の沈黙が二人の間に流れた後、圭がゆっくりと口を開いた。
「……コナン君、年上に向かってあんた、っていうのはちょっと……、いや、俺は平気だけど」
ぐ、と救命士の笑いをこらえた声が聞こえて、圭は首を傾げた。
目だけで、なんかおかしなこと言った? と救命士に訴える。
何でも無い、と首を振って、その救命士は問診票を埋めるふりをした。口元が笑っている。
「……圭お兄ちゃん、話そらそうとしてるでしょ」
「いや、割と本気で君の将来を憂いてるんだけど……えーと、なんんだっけ、キッド?」
黒枠の所を記入して下さい、と差し出された紙を救命士からうけとる。紙面に軽く目を通した。
「コナン君、俺ね、耳がいいんだよ」
「は? いきなり何……」
「声紋、って聞いたことあるだろ? 人の声って言うのは、周波数を合わせるだけでは、完璧ではないんだよね」
少なくとも俺の耳には。
そう言って微笑んだ圭に、コナンは僅かに体を引いた。
一瞬にして理解したのだ。彼の言いたいことを。
気がついたときには逃げるようにその場を後にしていた。

コナンの後ろ姿を見送って、圭は救命士に用紙を返した。どうせ、使われることのない問診票だ。
「黒羽、コナン君が話の途中でどっか行っちゃったんだけど」
「柚木崎が脅かすからだろ。それより、どこもなんともないか?」
「平気。俺、脅かしてないよ」
「嘘付け」
「や、俺耳がいいから、キッドすぐ見分けられるんだよ、って話のどこが脅しなのか俺には分かりません」
頭のいい黒羽先生教えて下さい、と心底不思議そうに快斗の顔を見上げた柚木崎に、問診票を再び押し付けた。
「お前、これちゃんと読んだのかよ」
「読んだけどさー、これ、ごまかせ、ってもっとなんか具体的にかけなかったの?」
く、と圭は笑い声をこらえるよに顔を歪めた。

13

雨の中でのA.Tはホイールが滑る
ウォールライドの難易度が上がって、疾走するスピードは上がる。ブレーキはもちろんあってないようなもの。
最高に楽しい反面、最悪な事態になることも多々ある。
かくゆう圭も、過去に何度か雨の日のA.Tで怪我をしたことがある。
もちろん、未成年の頃の話だ。最近は、もうあまり無茶を出来る年でもない。
なにより、A.Tの負担が気にかかる。
摩耗は割けられるが、あまり水は好ましくない。一応精密器機なのだ。
この世界で、A.Tの部品を手に入れるすべはない。
この程度なら歩いて帰るか、と止みそうにない雨にため息をついた。
「圭君?」
「あれ、哀ちゃん。今帰り?」
「うん……傘、ないの?」
「そ。でも、もう濡れちゃってるし、この程度なら濡れて帰ろうかなってね」
「家によっていけば良いわ」
「阿笠博士に悪いよ」
「平気よ。今学会に行ってるの」
はい、と差し出された傘を受けとって、両手を上げた哀を、圭は躊躇無く抱き上げた。
「それじゃあお姫様を家までお連れしましょう」

哀を送ってすぐ帰るつもりだったのだが、飲み物くらい飲んでいけといわれて結局お邪魔してしまった。
この家の家事を一手にになっているのが哀ちゃんだと言うのだから、少し驚いた。
いや、彼女の実年齢を考えれば驚くことではないのかもしれないが、あの小さな体では何かと大変だろうに。
熱いコーヒーを受け取って、圭は何も入れずにそれを口にした。
仕事をしていた時の名残で、いつのまにかこの苦い味に慣れてしまった。
慣れすぎて、覚醒効果も無いに等しい。
隣に座る哀も、ブラックのままコーヒーを飲んでいた。イメージ通りだ。
「圭くん、週末だし、今日は泊まっていけば?」
「さすがにそう言うわけには……」
別に帰れないほどの雨ではないし、家主が不在のときに上がり込むと言うのも気が引ける。
そんな圭の考えをまるっと無視して、哀は上目遣いに圭を見つめた。
「子供一人なの……」
「……分かったよ」
たしかに、小学生一人で留守番と言うのは、よろしくない。ほんとに小学生なら。
哀ちゃんっていくつだったっけ、とその子供らしい仕草に首を傾げた。
まあ、子供じゃなくても、女の子で一人って言うのは心細いか、と一人では広すぎる館を眺めた。
「ありがとう。お風呂、今わかしてるから先に入って?」
「哀ちゃん先に入りなよ。風邪引くよ」
「私は濡れてないもの。圭くんこそ、風邪引いちゃうから先に入って」
「……分かったよ、ありがと」
にこりと笑った哀に苦笑で返して、その栗色の髪をなでた。

一人の夜は静かすぎる。
でも、今日は雨の音がやさしく空気を揺らしていた。
たまたま帰り道であった圭を家に呼んだのは、濡れ鼠になっていた彼を放っておけなかったと言うのもある。
相手がコナンでも同じことをしただろうし、きっと、例の怪盗さんでも同じことをしたと思う。
彼を引き止めた理由は、自分でもよく分からない。
ただ、ああいう言い方をすれば、優しい彼はここにとどまってくれるだろうと分かっていた。
哀の中で圭の位置づけはまだ曖昧なままだ。
ときどき彼の手が、自分をまるで女の子ではなく女性のように扱うから、どきりとするのだ。
こんな、どこからどう見ても小学生姿の自分を。
思考を打ち切って冷蔵庫に手をかける。博士がいないので、冷蔵庫の中は寂しいものだ。
こんな事なら、買い物をしておけば良かった。
夕飯は何にしようか、と冷蔵庫の中身を眺める。
久しぶりに哀は夕食の献立で真剣に頭を悩ませた。

14

手伝うよ、と隣に並んだ圭は、高校生にしては慣れた手つきで包丁を手にした。
野菜を刻む規則正しい音に、哀はたまらず顔を上げた。
「……ん?」
「圭くん……料理上手なのね」
「あー……、母親が下手だからね」
危なくて台所には立たせられないよ、と苦笑を浮かべた圭は、それでも別に嫌そうではなかった。
「……仲がいいのね」
「うーん、どうかな。まあ、母親と言うよりは、手のかかる姉って感じだよ」
童顔なんだよねぇ、と笑った圭の顔は、どちらかと言うと大人っぽい。
彼に仲の良い家族がいる事がうらやましくて、かすかにねたましいとも感じた。
その考えに頭を振る。
別に、彼が特別なわけではない。ただ彼はどこにでもいる、平凡で幸福な家庭に育った高校生に過ぎない。
工藤新一と自分が特別なのだ、と今も鮮明に思い出せる姉の顔を思考の隅に追いやった。
はい、味見、と皿によそって圭に差し出す。
皿だけもっていくと思った圭の手は哀の手をつかんで、顔を寄せるためにその長身がかがめられた。軽く伏せられたまぶたにどきりとする。
「おいしいよ。哀ちゃんは料理が上手だね」
「……半分は圭くんが作ったでしょ」
「味付けは哀ちゃんだよ」
すっと顔が離れていって、代わりに長い指が哀の髪をなでる。
遅れて羞恥心が襲ってきた哀はうつむいて熱くなる耳を隠した。

ささやくように歌うそれは、涙の出るような子守唄だった。
「圭くん、眠れないの?」
「……ああ、ごめんね、起こしちゃったかな」
「一緒に寝る?」
「いやいやいやいや、おかしいよね、その結論」
「そう?」
そこまで否定されると、やりたくなるのが人間のサガだ。小学生と高校生だし、別に問題もないだろう、と哀は圭のベッドに移動した。
「いやいや、哀ちゃん? もしかして寝ぼけてるの?」
「寝ぼけてないわよ。ほら、もうちょっとそっちによって」
哀の言葉に、深くため息をついた圭は、あきらめたように場所を移動した。
自分の枕を置いて、哀は布団に潜り込む。
もう慣れた指がかるく頭をなでる。それに無意識に目を細めた。
「はい、横になって」
袖を引いて上半身を起こしたままだった圭をむりやり寝かせる。
本当は、最初から寝てなんていなかった。
夜は、いろいろな事を思い出す。姉のいない寂しさは、いつも哀の睡眠を妨げた。
人の体温で暖かい布団は、ずいぶんと懐かしい。
背中を向けた圭にすこし不満を感じながらも、ささやくような歌声に耳を傾ける。
知らない歌なのに、ひどく安堵して、いつもはなかなか下がらないまぶたが視界を覆った。
小学生に引っ付かれながら寝不足にでもなれ! とその背中にしがみつくようによりそって、哀はいつもよりはやい眠りについた。

15

「飲みもの、買ってきて」
「飲みかけだろ、それ」
「……美味しくない!」
「やせ我慢してブラックコーヒーなんて買うからだろ」
「……いいから! 早く買ってきなさいよ」
「あのなぁ……たく、これで我慢しろ」
柚木崎がまだほとんど口を付けていないカフェオレを紅子のブラックコーヒーと何気ない仕草で取り替える。多少不満顔ながらも、紅子はそれを受け取った。
こんなのは序の口で紅子のアレしろコレしろというわがままに、面倒そうにしながらも柚木崎は愛想を尽かすでもなく応えてみせる。
それに気づいたのは情けない事に最近の事で、もっと具体的に述べるならば柚木崎と会ったあの夜以降だ。
青子に聞いたら、柚木崎と紅子は以前からそうだと言う。
「……なあ、柚木崎」
「何、黒羽。真剣な顔して」
お前と紅子ってどういう関係? と聞こうとして、やっぱどう見ても恋人同士にしか見えねぇよ! と頭をかかえた。いやそんなまさか。
「くろばー?」
どうしたの、頭なんて抱えて、と顔を覗き込まれて渋々顔を上げる。
柚木崎の色素の薄い髪が目についた。
「……おまえ、髪そめた?」
「あ、やっぱ分かる?」
色を確かめるように短い髪を柚木崎が引っ張る。見た目より痛んでるなー、と初めて間近にその髪を見つめた。
「まー、いいじゃん。このくらい」
てか、本題はこれじゃないでしょ? と柚木崎が悪戯っぽい笑みを浮かべる。やはりごまかされないか、とため息をついて快斗は口を開いた。
「いや、お前と紅子ってどういう関係なのかなって」
「あ〜、なんだそんなこと。ただの幼なじみだよ」
「はぁ!?」
そんなの聞いてない、とさらりと答えた柚木崎に思わず声を上げた。
そんな快斗の反応に、柚木崎が一拍置いて口の端をあげた。嫌な予感がする。
「何、そんなに俺と紅子の関係が気になる?」
「……べつに。ただ、ずいぶんあの紅子のわがままになれてるみたいだったから気になっただけだよ」
快斗の言葉に柚木崎がきょとんと目を瞬く。とても意外な事をいわれた、といわんばかりだ。
快斗からすれば、紅子と柚木崎の関係はすこし異常にも映った。
いくら幼なじみでも愛想を尽かすだろう、というような事を紅子はときどき言うし、する。快斗だって彼女の態度にはうんざりする事もあるのだ。
それに、もともとお嬢様気質な紅子だが、柚木崎に対する態度はそれとは少し違うし、輪をかけてひどいともいえる。
「ん〜、紅子は前からあんなんだしなぁ。それに、黒羽と中森さんも似たようなもんだと思うけど?」
わがままいわれて困っても、嫌じゃないんだろ? と顔を歪めるだけで笑った柚木崎の顔は、とても年上の物に見えた。