三月の雨

06

まあ、こういうのは俺が何もしなくてもなんとかなる。
理由は割と簡単で、工藤とか黒羽とか、そのへんのいわゆる主人公達が解決してくれるからだ。
だからいつも無責任かつ確信を持って言える言葉がある。
「大丈夫だよ」
スーパースネイクをあきらめきれなかった子供達が医務室を出て行くのを、あわてて追いかけようとした哀を圭は押しとどめた。
ようやく状況が分かってきた。
正直あんなに長く続いているコナンの話にすべて目を通しているわけではないので、今回のことは知らなかった。
だがある程度の推理は出来る。
まず、この腕についているのは十中八九爆弾。おそらく、はずすと爆発するタイプだ。
もしかしたら時間も関係あるのかもしれない。
そして、哀ちゃんの常らしからぬ行動から察するに、スーパースネイクに乗るのはNG。
わざわざ体調不良をよそおって毛利さんを呼び戻した所を見ると、場所に制限がある。
おそらく一定の範囲を超えて移動すると爆発する仕組みだろう。
つまり、園内から出れないわけか、と窓からスーパースネイクを眺めた。
目暮警部が園内にいると言うことは、すでに警察に連絡がいっているはずだ。
後はどうやって爆弾を解除するかだが、それはおそらく名探偵さんの仕事だろう。
わずかに焦りをにじませた哀を宥めるように圭はその頭を撫でた。
見かけ通りの柔らかい髪の毛だった。
「具合悪いんでしょ? 哀ちゃんはもうしばらく休んでなよ。3人は俺が迎えにいくから」
毛利さん達が戻ってきたときに哀ちゃんが医務室にいないのはまずい。
歩美ちゃん達は急がなくても大丈夫だろう。すこしまえから、スーパースネイクが動いていない。
たぶん、目暮警部のおかげだろう。
このメンバーだって分かってれば、A.Tはいてきたんだけどな、と相棒を部屋に置きっぱなしにしてきたことを後悔した。


つまり、タイムリミットは10時な訳だ、とレストランの窓から暗くなった園内を眺めた。
今はまだ明かりがともっているが、閉園時間は10時のはずだ。人がまばらになっている。
阿笠博士や目暮警部までいるのに、先ほどまでいた若い警官とおもわしき人たちはいなくなっている。
完全に人払いされてるな、とあからさますぎる対応に頬杖をついてストローを噛んだ。
向かいに座る毛利さんはこの状況に何かを感じ取っているのか、少し前から落ち着きが無い。
まぁ、これじゃあなにかあったって言ってるようなもんだよね、と時計に目をやった。
あ、あの時計47.53秒はやい、と正確に刻まれる体内時計と照らし合わせる。
「毛利さん、デザート食べない?」
自分の目の前にあったケーキの皿を彼女の方に押した。
そんな気分じゃない、とばかりに彼女が眉をひそめる。それに苦笑が漏れた。
「そんなに不安にならなくても、大丈夫だよ。それに、きっと後で後悔するよ?」
だから、食べなよ、とケーキを彼女の目の前まで移動した。
シャツの袖を引かれて隣へ視線をずらす。
隣に座る栗色の瞳と目が合った。
「ん?」
「……」
じっと哀ちゃんがケーキに視線を向ける。
その仕草に圭は首を傾げた。
「……もしかして、食べたいの」
こくり、と頷いた哀ちゃんに思わず笑みが漏れる。
やっぱり女の子って甘いものが好きなんだなぁ、と意外な一面を見た気がした。
「はい、どうぞ、哀ちゃん」
毛利さんが目の前に会ったケーキの皿を哀ちゃんの前に差し出した。
いつもの無表情で哀ちゃんがフォークを手に取る。
10時まで、あと12.34秒。
「おいしい?」
一つ頷いて、哀ちゃんがフォークにさしたケーキをさしだした。
まあこれは食べろってことだよね。
ありがたくいただくと、ほろ苦いチョコレートの味が口の中に広がった。
大人向けのケーキだったらしい。
いつもほとんど無表情をたもっている哀ちゃんが珍しく微笑んでいたので、結構気に入りの味だったのかもしれない、と体の中で10時丁度を刻んだ。

07

白い衣装って、血が目立つんだよなぁ、と路地にうずくまる姿を見下ろした。
「おーい、黒羽、大丈夫か」
「黒羽じゃないですよって……何度言ったら分かるんですか」
「そんなこと言ってる場合じゃないと思うけど……まだ近くに敵さんもいるみたいだし」
あと、警察とか。どうも警官が多いと思っていたら、今日は怪盗キッドの予告日だったらしい。
「あなたも、早くここを離れた方が良い」
「仕方が無いなぁ」
まあ、たぶん自分が手を貸さなくても大丈夫なんだろう。
でもここで見捨てたら明日から顔会わせづらいよね、と何とも自分本位な理由で、圭は彼を助けることにした。
着ていたコートを脱いで黒羽に押し付ける。
「その格好じゃ、目立つだろ」
おかりします、と意外にも素直に黒羽はそれを受け取った。
周りではキッドを捜しているのか少し騒がしい。ここもすぐに見つかるだろう。
女の子ならともかく、男一人抱えてうまく飛べるかなぁ、と一抹の不安を抱えつつも黒羽の腕をとって引き上げた。
小さくうめき声が上がる。
「何を……」
「いいから、おぶさって」
黒羽が俺よりも小さくて良かった、とかがんで背を向ける。
「ほら、はやく」
催促すると、渋々と言う感じで背中に体重がかかった。
ちょっと重いけど、加速すれば何とかなるだろう。
軽く地面を蹴って体重をかけ加速する。重みがあるせいか、いつもより加速するのが速い。
とりあえず、低い所を飛ぶと人目につくので上に登ることにする。
落ちませんように! と意を決して壁にホイールを走らせた。

めまぐるしく変わる視点と、遠ざかる地面に快斗は一瞬痛みを忘れた。
あっという間にビルの上まで登った柚木崎は躊躇せずに踏み出してビルからビルへと移動していく。
自分のようにハングライダーを使っているわけではない。
インラインスケートってここまで出来るのもなのか? とビルの壁を器用に滑っていく柚木崎の肩越しに、真横になった夜景を眺めた。
現場から遠ざかって高いビルがなくなると、暗い路地を一体時速何キロ出ているのか、と普通のインラインスケートでは考えられないスピードで駆けていく。
「って、ちょっとどこ行くつもりですか」
「だって、病院には行けないだろ?」
あっけらかんと言った柚木崎に返す言葉も無い。無いが、なにもここに連れてこなくても、と「工藤」とかかれた表札を通り過ぎて隣家のチャイムを鳴らした柚木崎にため息をついた。


チャイムの音に、哀は玄関まで駆けた。
ドアを開けると、そこに立っていたのは予想もしない人物だった。
「圭くん」
「こんばんは、哀ちゃん」
「あなた……血が付いてるじゃない!」
「大丈夫、俺の血じゃないよ」
圭の言葉にほっと息をついた。と言うことは、怪我をしているのは担がれている方の人間か、と視線を移す。
「悪いんだけど、彼、手当てしてやってくれないかな。ちょっと病院には行けないんだ」
「こっちへ」
躊躇せずに哀は圭を招き入れて、奥へと案内する。
どうするかと一瞬悩んで、結局風呂場へ連れて行った。圭が怪我をしていたのなら、迷わず居間に通す所だが、怪我をしている人間の顔はよく見えない。
ここは博士の家だし、居間を血で汚すのはためらわれた。
「阿笠博士を呼んでくるわ」
「うん、ありがとう」

08

歌が聞こえる。聞いたことも無い歌なのに、どこか懐かしいと思いまぶたを押し上げる。
見慣れない天井に瞬きを数回繰り返した。
そして、ああ、柚木崎に助けられたんだった、と痛む体に記憶を呼び起こされる。
顔を覆うものは何も無い。仕方の無いことだが、素顔をさらしてしまったようだ。
相手が柚木崎だったのは不幸中の幸いと言う所か。
「目が覚めた? 黒羽」
「……どのくらい寝てた?」
「ほんの一時間くらいだよ」
読んでいた本を閉じて柚木崎が立ち上がった。先ほどと服が変わっている。
血に濡れたからか、とその理由にすぐ思い当たった。
「わりぃ、服、汚しちまった」
「変なこと気にするね……どってことないよ」
気にするな、と優しく頭を撫でた手に、快斗は瞬きを忘れた。
まさか、同じ年の、しかも男に、こんな風に頭を撫でられるとは思わなかった。
博士を呼んでくるよ、と背中を向けた柚木崎のシャツを慌ててつかむ。
振り返った柚木崎が、手を伸ばして先ほどと同じように頭を撫でた。軽く押されて頭が枕に沈む。
「大丈夫」
短く言って、柚木崎は部屋を出て行った。
快斗の不安をすべて理解しているかのようなその言葉に、肩の力が抜けて、体が深く沈むのを感じた。
あまりまわらない頭で、ここに至るまでの経緯を思い出す。
本当に、柚木崎は一体何者なのか。分からない奴、と目を閉じると、まぶたを透かした光が何かを思い出させた。
「……歌」
あれは夢だったのか、それとも柚木崎が歌っていたのか。でも女性の声だったような気がする。
駄目だ、頭が回らない。近づいてくる足音に、ゆっくりと目を開いた。

圭は何も言わなかったが、彼が連れてきた怪我人はまず間違いなく怪盗キッドだった。
傷は銃弾によるもので、幸いなことにほとんどがかすり傷。一番ひどいのは右足の傷だが、これもそう深いものではなかった。
だいぶ動き回ったようで、傷の割に出血が多い。
「まあ、しばらく安静にしていなさい」
熱を測って、哀はそれだけ告げた。
圭が何も言わないのなら、触れなくて良いことなのだろう、と哀は判断した。
怪盗キッドには何度か助けてもらったこともあるし、もちろん圭にも助けてもらったことがある。
だから、この程度の些細なことに目をつむるのは当然と思えた。
「ありがとう、哀ちゃん。助かったよ」
「どういたしまして」
「黒羽、しばらくうちに泊まる? どうせその格好じゃ帰れないだろ?」
「あら、別にここにいても良いわよ。博士にも了承はとってるわ」
「……だって、どうする?」
首を傾げた圭に、いや、さすがにそれは無いだろ、と快斗は渇いた笑みを返した。

09

ヘッドフォンで何を聞いているのか、少なくとも音楽の類いでは無いだろう。
つながっているのはステレオやラジカセの類いではない。
瞳は静かにいつも彼が使っているインラインスケートを見つめていた。
じっくりと見たことはなかったが、思いのほか複雑な構造をしている。やっぱり、普通のインラインスケートではないのだろう。
それにしても、高校生の部屋じゃないよなぁ、とその殺風景な部屋を快斗は眺めた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった快斗だが、柚木崎の姿を見てすぐにここが彼の家だと思い出した。
昨日、阿笠博士のところで治療を受けた後、この怪我では帰れないだろうと、柚木崎の家に泊まることになったのだ。
意外にも、快斗の正体については阿笠博士もあの少女も一言も触れてこなかった。
「あ、おはよー、黒羽」
「ああ……柚木崎、お前学校は?」
「なんか調子悪いから休んだ」
「うそつけ、ぴんぴんしてんじゃねーか」
「あはは」
笑ってごまかしたな、とそのいつもと変わらない顔を眺める。顔色一つかえないで、よくそんなことを言えたものだ。
「……何やってんだ?」
「ああ、これ? うーん、なんて言えばいいかな……簡単に言えばメンテナンス」
「そのヘッドフォン、必要なのかよ」
「もちろん。A.Tは……あ、A.Tって言うのはこの靴のことね。こいつはちょっと特殊でさ、ちゃんとしたメンテナンスは俺みたいな一部の人間にしか出来ないんだよね」
「……それは、お前の耳がいいのと何か関係があるのか」
「さすが、鋭いね。それも条件の一つ」
ヘッドフォンを耳からはずして、柚木崎がひとつ伸びをした。
部品が元に戻されて、ホイールの中の構造が見えなくなり、いつものシンプルな形に戻る。
中の構造が見えないのは、なんだか勿体ないと思えるほど、快斗の目にはそれが美しいものに見えた。
「……うん、OK。さすがに、男一人抱えてつかうと負担がでかかったかなー」
でも、これで元通り、といった柚木崎の言葉に何か引っかかるものがある。
その理由にすぐに思い当たって、まさかとは思いつつも快斗は口を開いた。
「……まさか調子悪いってのは、その靴のことか?」
「うん、ちょっと無理させちゃったからね」
開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだと快斗は渇いた笑みをもらした。

10

「え? 打ち上げ?」
「うん、圭お兄ちゃんも一緒に行こ!」
「……って、歩美ちゃんそんな簡単に……」
駄目なの? と首を傾げる少女にどう説明したものか、と圭は苦笑を浮かべた。
ここで言う打ち上げとは、例えば皆で食事をしにいくとか言う一般的なものではない。
なんと飛行機に乗り、北海道まで行って別荘でわいわいするという、庶民には考えもつかないものだ。
だから、人一人増えるだけでチケットをとったり部屋を用意したりといろいろ大変なわけだが、小学生に言っても分からないだろう。
ついでに、社会人だった過去ならともかく今はしがない高校生。そう簡単に旅費なんてでない。
だいたい、一般人の自分が芸能人の打ち上げに参加して良いとも思えないわけだが。
それにこのメンバー、かなり遠慮したい。
絶対死人が出るぞ、と相当失礼なことを考えた。
「あら、遠慮しないで? 皆さん参加なさるんだし」
するりと細い指が圭の腕に触れた。
牧樹里、という女優らしいのだが、芸能系にとんと興味の無い圭の知る所ではない。
なんとなく、会った時から色目使われてる気がするんだよな、と下から見上げる長いまつげに縁取られた瞳を見返した。
「でも……」
「いいじゃない、一緒に行きましょうよ」
ぐっと体を押されて樹里から離れる。少しほっとして腰のあたりにかかる重みを見下ろした。
「哀ちゃん?」
「皆の方が楽しいわ」
半分ぶら下がるように腰のあたりに抱きついた哀ちゃんの頭を無意識に撫でる。
なんでかと言えば、撫でやすい位置だからとしかいいようがない。
ああ、もう自分は巻き込まれる運命なんだな、とため息が出た。


一人遅れて飛行機に乗り込んできたのは、新庄とか言う若い俳優、の姿をした別人だ。
見た目には分からないし、よく似せているけど声が微妙に違う。
もっと近づけば、「音」がよく聞こえるからはっきりするだろう。
牧と言葉を交わした新庄は、ちょうど開いていた圭のとなりに腰を下ろした。
軽くその肩に手を触れる。
それを不審に思ったのか、はたまた偶然か、圭の方を振り返った新庄と目が合った。
こらえていたものがその拍子に込みあげてくる。
「……っく、……よく似合ってるぜ?……くく」
「笑うなよ……てか、ああ、もう」
なんで分かるんだよ、と拗ねたように頬杖をして仏頂面をする黒羽に、圭はひくひくと震える腹筋をかかえた。
快斗は知る余地もないだろうが、圭は他人より音に敏感だ。
人の体内音と言うのは、声や顔と違って、変えられるものではない。
「ま、耳がいいからね」
「わけわかんねーよ」
肩をぽんぽんと数度たたいて、どんまい、と慰めにならない言葉をかけてやった。
仕返しとばかりに快斗は圭のペットボトルを取り上げて口を付ける。
「守備はどーよ」
「最悪だよ。お前にはばれるし、宝石は偽物だし」
「へぇ、偽物だってわかんの」
「ブルーサファイアってのは、口に含むと冷たいんだ。お前は気づかなかったのかよ」
「宝石には詳しくない」
圭は小さく肩をすくめてみせた。