晴れ時々雷雨。その弐拾捌

 180を超える長身、氷帝の校章の入ったスポーツバッグ。気だるげに背を丸めて歩く後ろ姿。
 スーパーの中を買い物カゴを片手にぶらつく少年に、安室は声をかけた。
「やぁ、水沢君、奇遇ですね、こんなところで」
「あ、安室さんだー。お買い物?」
 ゆったりと振り返ったその表情は、言葉とは裏腹に、こちらが声をかけることを知っていたかのようだ。分かっている、そう見えてしまうだけで多分これで何も考えていない。考えすぎだ、と良くない方に流れていく思考を振り払う。
 内面の葛藤はさておき、表面上は笑顔をキープしつつ卵や小麦粉の入った買い物かごを掲げてみせた。
 ポアロの客足が落ち着いたので、明日の分のケーキの材料を買い足しに来たのだ。諸事情により最近ケーキがダメになってしまうことが多いので仕入れが追い付いていない。
「ええ、ポアロの買い出しに。君は?」
「俺はねー、学校帰りにホットケーキの粉買いに来たんだよー」
 学校帰り、という言葉がひっかかる。彼の帰り道にあるスーパーはここではない。さては君、迷子ですね?
 ゆきちゃんに焼いてもらうんだー、とホットケーキミックスをカゴに入れて呑気そうに隣に並ぶ。
 ゆき、というのはおそらく隣人の亜久津優紀のことだろう。正確にはゆうき、だが今まで盗聴器等から得た情報的に彼女のことだ。
 白いシャツに白いカーディガン、ズボンは氷帝学園のもの。本来ならブレザーがあるのだろうが、羽織っているのを見たことがない。
 すっぽりとお尻までおおうカーディガンのせいで、ポケットにスマホが入っているのか確認できなかった。
 中身のろくに入っていなそうなスポーツバッグは、安室とは反対側、左肩にかかっている。事故で負傷したのは利き腕である左。先日ポアロで負傷したのも左手。怪我をしているであろう掌は、今はカーディガンのポケットの中に隠れていて分からない。
 日常生活に支障がない程度には回復しているらしいが、正直今までの行動から、彼が左利きと思えるものはない。
 左手を使う様子がない、というカルテの記述と一致する。ポアロで怪我をした時も特に痛みを感じていないようだった。グラスを落とした時は、腕、おそらく怪我をしたあたりを痛がっていた。もしかして、そこから下の感覚がない、あるいは鈍いのだろうか。
 会計も特に不自由なく右手で済ませた尚樹をポアロに誘う。オヤツはホクホクのホットケーキを焼いてもらうと渋られたが、ケーキの試作をしているので試食してくれないかと言えばすぐについてきた。
「いや、助かるよ。最近ケーキストッカーの調子が悪くてさ、ケーキが溶けてしまうからその対策をね」
「ふうん? 修理しないの?」
「いや、機械自体は壊れてないみたいで。ただまぁ、何らかの条件で、一時的に温度が上がってしまうんだろうね」
「へぇ? 難しいね」
「はは、そうだね。まぁそんなわけで、溶けても大丈夫なケーキを作ろうかと思ってね」
「安室さんは、本職忘れてない? 大丈夫? 話聞こか?」
「……一体なんのことかな?」
 なんか刺さるのでそのツッコミはやめてほしい。あと否定するのも馬鹿らしいくらいにこちらが警察と決めつけるのもやめてほしい。否定すればするだけ警察っぽくなってしまうではないか。
 それはさておき、ここ最近、頻繁にケーキストッカーの中に保管しているケーキが溶けてしまうので、その対策に新しいケーキを考えたのは本当だ。
 コナン達少年探偵団が原因を突き止めると息巻いていたが、実は何となく察しはついている。ただ、子供たちの探偵ごっこを邪魔するのも野暮かと思って気づいていないふりをしているだけだ。
 あゆみからケーキの見た目が他店舗と似ているという指摘もあったことだし、解決ついでにケーキ自体を変えてしまうことにした。
 たまたまだったが、今回はある意味タイミングがいい。
「水沢君は家この辺なの?」
 もちろん、水沢尚樹がどこに住んでいるかはよく知っている。だが安室透は知らない設定なので迷子の確認も含めて話を振った。
「んー、どうだろう。たぶん近いんじゃないかなぁ」
「うわ……その返事怖いな」
 さすがナチュラルボーン迷子。言うことが普通じゃない。もう絶対自宅の位置把握してないだろこれ、と思わす足を止めてしまった。急に足を止めた安室を尚樹が振り返る。ほぼ無表情だが分かる、これは文字にすると「きょとん」という表情。
「ちなみに水沢君……今、迷子?」
「ええ? そんなまさか。今からポアロ行くんですよね? 迷子じゃないです」
 迷子じゃない人間は、たぶん自宅の近くなんて言い方はしない、断じて。
 外はまだ明るいが、人の影はだいぶ長くなってきている。店についたら亜久津仁に連絡させた方がいいだろう。
 ポアロのドアを押すとカランコロンとカウベルがレトロな音を立てる。ちょうどお客さんもいないようで、梓がカウンターの掃除をしていた。
「あ、安室さんおかえりなさい。お客さんですか?」
「ただいま戻りました。水沢君です、先日の……。スーパーでたまたま会って、ケーキの試食をしてもらおうかと」
「試食ですか? あ、いらっしゃいませ、お席にどうぞ」
「お邪魔しまーす」
 安室の正面に陣取った彼に、とりあえずでお冷をだす。飲み物は何がいいか尋ねたら、少し悩んで紅茶、と返ってきた。
「砂糖は?」
「なしで」
 せっかくなのでポットに紅茶を用意する。焼き上がりまでに少し時間がかかるだろう。
 紅茶の入ったポットとティーカップを出してあげると無邪気に喜んでいた。中学生が行くような店ではあまりポットで出てくるようなこともないのだろう。
 訂正、跡部圭吾がいればその限りではない。花見の時、遠目に優雅なティータイムを確認している。
 ポットを持つ右手。蓋に添えられた左手はカーディガンに隠れていて分かりづらいが、手の甲に肌色の大きな絆創膏がのぞいていた。病院のほうからは、比較的問題のない場所にきれいに刺さっていたと聞いている。
「せっかくだからじん君も呼んだらいいよ。甘いもの嫌いじゃないよね?」
「あー、たぶん。じん君の好物はモンブランですけど、ケーキも嫌いじゃない、かな」
 安室的にはそこはどっちでも構わないのだが、迷子の回収はしてもらわないと困る。特に彼は自覚のない迷子なので。
 尚樹がメッセージアプリで亜久津に連絡を送った画面を、無防備に開いたままカウンターに置いて紅茶に口を付ける。
 ちょっと個人情報についてお兄さんとお話ししようか……と喉元まで上がってきたのは、決して自分がおせっかいな訳ではないと思う。
 メッセージにはすぐに既読がついた。動くなよ、というキレ散らかした猫のイラスト。意外と可愛いスタンプの送り主はじん君こと強面の幼馴染み。
 ほんと、見た目とのギャップよ……。
 ケーキを焼くべく袖をまくった。手早くしないと焼き上がりまでそこそこ時間がかかる。
 オーブンを温めているあいだに粉をふるってメレンゲを泡立て、種を作って型に流しいれオーブンへ。冷蔵庫を開いて既に泡立ててあるデコレーション用の生クリームと、フルーツの在庫を確認した。
 一息ついて水沢尚樹を確認すると、学校の課題なのかプリントを広げている。英語とロシア語、ドイツ語。普通の中学生ではまず見ないラインナップ。それをさほど悩む様子もなく解いていく。数学のプリントも解き終わったところで、世界史のプリントを前にスマホをいじりだした。
 カウンターの上に戻したスマホの画面をさかさまに眺める。
「……こらこらこらこら、答えをAIに聞いちゃダメでしょ」
「いや、聞かないと知りませんから。一生終わりませんから」
「教科書があるでしょう、教科書が」
「いやいや、教科書に聞くかAIに聞くかの違いでしょう。それなら絶対デジタルのほうが効率的ですって」
「……そうかもしれないけど、なんか違う……!」
「意外にアナログだねぇ、安室さん」
「やめて、なんか心に刺さるから」
 今時の子供って……と思ったところで思考を中断した。この考え方が年を感じさせるのだ。
 でもAIに聞くのは絶対違う。絶対身にならない。理系の問題は特に問題なさそうなんだけどな……と終わったプリントの解答を無意識に採点する。
「……水沢君、国語壊滅的すぎない?」
「なぬ、間違っていますか」
「うん……」
「しょうがない、AIに聞いてみます」
「それは絶対違うからね!?」
「いやいや、最近のAIは結構すごいですから。人間みたいな回答しますから」
 そういうことではないし、それで答えがあってたら自分をまず疑うべき。仮に正解しても何の解決にもならないわけだが、分かっているのだろうか。
「水沢君……テスト中はスマホは使えないでしょう」
「それはそう」
「ならちゃんと自分で考えて答えを書かないと」
「俺に普通の人間の繊細さと複雑さを求めないでほしい……」
「幼児みたいなこと言ってないで少しは考えようね……」
 まあ確かに情緒というか、情操教育は失敗している感じがひしひしとするが。脳裏に渋面の亜久津が浮かぶ。
「うわー……じん君国語得意そう」
「分かります? じん君理系だけど国語の成績めっちゃいいですよ」
「だろうね」
 だから君の国語の成績壊滅的なんじゃないの、という言葉はさすがに心に秘めておいた。幼馴染みという翻訳機に頼っているのが容易に想像できる。
 安室の忠告などどこ吹く風で、尚樹がAIの叩き出した答えを回答欄に書き込んでゆく。AIはたまに嘘をつく、ということを知らないのか、その手に迷いはない。これはいつか痛い目を見るだろう。
「……水沢君、猫飼ってるの?」
 待ち受けにチラリと見えた黒猫。監視カメラにもチラホラうつっていた。嘘か本当か、人の言葉を理解すると話題の黒猫だ。正直、安室はタイミング的に言葉を理解しているように見えるだけで、動画編集によるところが大きいと思っているが。
 時々監視カメラを覗き込んでくる黄色い瞳。よく画角を変えられて部下達が頭を抱えていた。
「夜一さんって言うんですよ。黒猫だからイマイチ写真写りが悪くて……かわいい格好して寝てても黒い塊になっちゃう……」
 思惑通り、写真を開いて見せた彼は、驚くことにそのままスマホをよこしてきた。無防備すぎて逆に怖い。
 素早く写真をチェックすると、大半はその写真写りの悪いという黒猫。
 時折幼馴染、友人らしき中学生、彼の叔父である榊太郎。先程撮っていたように食べ物類も比較的多い。
 そしてちょいちょい何を写したいのか分からない風景写真。途中風見他部下たちの写真があったことには気づかないことにした。こう言うところが、無駄に怪しいのだ。やめなさい、と説教したい。
 少し迷ったが、スマホをいじるフリをしながらデータを引き抜いた。
 風見達が写ったスマホを無防備に渡してくるあたり、やっぱり白なんだろうな、と乾いた笑みがもれる。それでもついつい疑ってしまうのはもう職業病。
「本当だ、これなんかクッションと同化しちゃってるね」
「でしょー? もう黒いクッションとかカーペットは絶対買わないようにしようと思って」
「はは、それがいいね」
 アプリの少ない殺風景なホーム画面は、中学生にしては珍しい。ゲームの類も見受けられない。メールアプリについた未読の通知アイコンはまあまあの数字だが、水沢尚樹にメールを送る人間は限られている。その数字がどういう意味なのか、安室は知っている。まだ父親のメールは認識できていないようだ。
「そういえば、水沢君ってSNSとかはやらないの?」
「インスタとかそういうやつ?」
「そう。結構最近の中学生はやってるんじゃない?」
「んー、インスタは別に……あ、Youtubeはちょっとだけやってる。うちの夜一さんの可愛い姿を投稿してます」
「へぇ、そうなんだ?」
「はい、うちの夜一さんは賢いので」
 前後のつながりぃ! と内心で激しくツッコミを入れる。動画をチェックしている安室だから理解できるが、支離滅裂である。
「基本猫動画?」
「はい。あとは友人が撮ってくれたやつとか、ちょっとだけゲームもしてます」
 友人が撮ってくれた、無駄に画質と音質のいい動画ね。
 さすが氷帝と言うべきか、明らかにプロの仕業だ。動画の中の会話から、だいたい犯人は跡部圭吾。登場メンバーの中ではダントツの金持ちだ。
 水沢の常人離れした身体能力が毎回合成を疑われるレベル。安室も一度解析に出してみたが、特別映像を改ざんした形跡はないとのことだった。
 ピピピ、とオーブンが焼き上がりを知らせる。
「ああ、焼けたかな。ちょっと待っててね」
 スマホを返してオーブンの中からケーキの生地を取り出す。
 彼のご希望通り、ふっくら焼けている。型から外して粗熱をとる。本当は時間を置いた方がいいのだろうがそうもいっていられない。
「じん君来るまで少しだけ冷ましとこうか」
「焼きたてってそれだけでちょっと魅力的ですよね」
「はは、分かるけどね。クリーム溶けちゃうから」
 とりあえず、と先ほど脳内採点した国語のプリントに手を伸ばす。尚樹がすいっとシャープペンを渡してきたので思わず苦笑が漏れた。
「言っとくけど、答えは教えないからね?」
「そんなぁ」
 間違っている問題に丸をつけていく。漢文とかは普通に解けてるのに、現代文が解けていないあたり、闇が深い。
「じゃあせめて解説するとかどうですか、AmrGptさん」
「人のことAIみたいに言わない」
 結局、当てずっぽうで答えを埋めていく尚樹に我慢しきれず、懇切丁寧に解説する羽目になった。

 尚樹がそうして安室の即席家庭教師で課題を片付けていると、カラン、と音がした。ドアのほうに目を向けるとコナンの姿。ここに来ると彼に合わずに帰れない運命なのだろうか。
「水沢のおにーちゃん! この前は怪我大丈夫だった?」
「こんにちは、コナン君。この前の傷はこの通り、大したことないよ」
 広げてみせた左手には掌にも手の甲にも大きな正方形の絆創膏が貼ってある。裏も表も2針ほど縫っただけだ。
「いや、傷自体は結構大事だったと思うけど……ま、まあ良かった、ね?」
「うん、すぐ治るよ。そういえば安室さん、この前はここ盛大に血まみれにしてごめんね?」
「いや字面がすごいな……あとあれは君のせいじゃないから気にしなくていいよ」
「さすがイケメン、言うことが男前……」
 血液は意外と遠くまで飛ぶので、本当に掃除が大変だったろうに。ナルトの世界で一度自室を血まみれにしたことのある尚樹は深々と頷いた。後から後から、細かな血痕が見つかるのだ。
 過去の記憶に想いを馳せていると、カランコロン、と音がして亜久津が入ってくる。
「あ、じん君~」
 手を振ると、亜久津ははぁーと深いため息をついて無言で尚樹の隣に腰を下ろした。
「すみません、おせっかいかなと思ったんですけどスーパーにいたので」
「いえ、助かりました……」
 はぁーとまた深く息をついて両手で顔を覆う。いったいどういうやり取りなのか、残念ながら尚樹には分からなかった。
「さて、そろったところで仕上げに入ろうかな。コナン君も新しいケーキ食べる?」
「新しいケーキ?」
「うん。ほら、ケーキストッカーの調子が悪かったでしょう? だからその対策をね」
 コナンが尚樹を挟んで亜久津の逆隣りに腰を下ろす。
 冷ましていた生地に安室が生クリームとイチゴ、最後にミントを飾って出してくれる。大変鮮やかな手並み。きちっとしたショートケーキのようなタイプではなく、パンケーキのような見た目だ。フォークを入れると中からとろりとしたソースが溢れてくる。
「半熟ケーキっていう名前にしようと思って。これなら生地とトッピングを別々に保管できるから、溶ける心配ないでしょう?」
「……え、つまり安室さんは、ケーキストッカーの温度が上がる解決策じゃなくて、溶けても大丈夫なケーキを考えてたってこと?」
「そうだよ? 僕はポアロの店員だからね」
 にっこりと笑った安室に、隣の亜久津がぼそりと「いや警察だろ」と呆れたように声を上げたが、もちろん華麗にスルーされた。コナンにまでは聞こえなかっただろう、たぶん。
「水沢君、飲み物新しく入れてあげようか」
「いいんですか?」
「もう飲み切っちゃったでしょう、それ」
 尚樹の前に置かれたままのティーポットを指さす。みんな何がいい? という安室の問いにコナンと亜久津がコーヒーと答えたので、尚樹もそれに乗っかった。尚樹的には甘くない飲み物なら何でもいい。
 広げていたプリントをしまって、目の前のケーキに手を合わせた。

「テセウスの船って知っていますか?」
 突然の安室の言葉に尚樹はフォークを持つ手を止めて首を傾げた。隣の幼馴染みに視線を送ると、気にせずケーキを口にしている。これは、尚樹に話しかけていると判断しているせいだろう。
 小学生ながら、逆隣でアイスコーヒーを飲んでいたコナンは、僕知ってる! といつもの作った声をあげた。
 なるほど、これは安室さんとコナン君のインテリ会話、と秒で理解して尚樹もアイスコーヒーに口をつける。
 語学に医学、歴史、その他もろもろ。コナン世界の人間はとても知識が広くて深い。9割は尚樹の知らない知識で間違いない。尚樹が上回っている知識があるとすれば、毒の味くらいなものだろう。
 そうやって、我関せずの姿勢でいたら、隣と前から見つめられて首をかしげた。
「テセウスの船って知ってますか?」
 何故2回言ったのか。再び視線を外してコーヒーに口をつけると、隣から控えめにカーディガンを引っ張られた。
「尚樹お兄ちゃん、聞かれてるよ」
 ん? とまたも首をかしげる。
「これ、俺に聞いてる?」
「……3人に聞いてますよ?」
 笑顔が怖いってぇ。
 3人、ということは幼馴染みも対象らしい。隣を見ると、実に嫌そうな顔をしている。
 分かる、聞くまでもなく知ってるわけないよね。安室さんとコナン君は、自分たちが全く一般人でないことを自覚した方がいいと思う。あと、正体を隠す気があるのなら、コナン君は知らないと答えるべき。間違いない。
「逆に聞きますけど、一介の日本人が知ってると思います?」
「主語デカくない!?」
「おおむね同意」
「亜久津のお兄ちゃんも!?」
 デカくない。コナン君はいい加減自分の知識がニッチだと自覚するべき。
 安室さんは苦い笑みを浮かべている。たぶん、コナン君よりは常識を持ち合わせている……と思いたい。それでもだいぶ遠いが。
「それで、その何とかの船? がどうかしました?」
「テセウスの船ね」
 簡単に言うと、と前置きをして安室が話し始めたのは、テセウスという人物が乗っていた船の話だった。
 その船は長い時間保存される過程で、朽ちた木材が徐々に新たな木材に置き換えられていき、最終的にはすべての木材が新しい物に置き換わってしまった。
「はたしてそれは、もとのものと同じと言えるのか、という有名な思考実験です。まあ、正確には船そのものではなく櫂だそうですが」
「はぁ」
 本当にそれ有名ですか? という疑問はわきに置いておく。たぶんこの世界では10人中9人が知っているような有名な話なのだろう。
 気にするべきは、なぜこの話を今ここでしたのかということ。それはつまり、コナン君のことを言っているのだろうか。
「水沢君は、同じだと思います?」
 自分に聞くんだ、と逸れていた思考を戻す。
「それをテセウスの船としたいなら、同じでいいんじゃ?」
「もうひとつも元の部品が残っていないのに?」
 口元には笑みを浮かべているのに、視線は酷く静かだった。
「でも桃太郎は桃太郎じゃない?」
 しん、と停滞した空気が流れた。そんなに変なことを言っただろうかと首を傾げる。
「……多分言いたいことの1割も伝わってねーぞ」
「なぬ。日本語って難しいね。あとの9割お願いします」
「……お前……」
 ふぅー、と亜久津が深いため息をつく。
「あー、あれだ、話の内容がだいたい同じなら媒体が違っても同じって言いたいんだろ」
「あ、そうそうそういうこと。別に紙芝居でも絵本でも、それこそ電子書籍でも本質はおなじじゃない? ついでにいえば文字だって一字一句同じじゃないだろうし。こういうのなんて言うんだろ? 共通認識?」
 なんなら、話の内容だって諸説ある。それでもみんなだいたいの内容でそれだと分かるのだから別に変らないじゃないだろうか。
「なんというか、そういうのって違うって思うより、同じものだって思ったほうがいいんじゃない? その方が誰も傷つかないでしょ。あえて波風立てなくてもって個人的には思うけど。同じものだって思うことで救われる人はいるだろうけど、違うものだって否定して救われる人は少ないんじゃない?
 部品が変わったら別物ってなったら、それこそ人間だって常に細胞は入れ替わってるわけだし、日々中身もアップグレードされてるわけでしょ? 安室さんはきっと、もう生まれたときの安室さんじゃないよ」
 カラン、と溶けた氷がグラスの中で音を立てる。尚樹はこの体の本来の持ち主ではないが、ここでも水沢尚樹という人間だ。それで受け入れられているのであればそれで構わないと思う。
 中身が別人だとわざわざ周りに説明して波風を立てる必要もないし、それで喜ぶ人間はたぶんゼロだろう。人間ってそういうものだと思う。例えばだれかが、尚樹が本来の尚樹ではないといったとしても、それはそれで構わない。みな自分が思いたいようにしか思わないのだから。
「コナン君は?」
「んー、よく分かんないや! でも全く一緒とは言えないかなって思うかも」
 安室の問いに、コナンは無邪気そうな笑みを浮かべて答えた。子供を装う、いつもより高い声。ケーキを一口、その言葉と一緒にゆっくりと咀嚼する。
 同じではない、という回答がコナンの口から出てくるのは少し意外だった。
「でもコナン君は体は子供だけど、中身は元のままでしょ? それは自分じゃないって思う?」
「……え?」
 それは、きっと自我が揺らぐ。自分という存在を疑いだしたら、きっともう正気ではないのだろう。
「パソコンの中身が一緒でケースが変わったら別物みたいだけど、逆はおんなじに見えるのって、そう考えるとおもしろいよね?」
「……水沢のおにーちゃん、何言ってるの?」
 低い声。こっちがきっと、彼の本当の言葉。

 隣に座った尚樹が体をかがめてコナンの顔を覗き込んでくる。伸びた前髪の隙間から除く瞳はひどく無機質だ。
 いつも変わらない口元がニンマリと笑った。
「隠し事はもうちょっと上手にやりなよ、めーたんてい」
 ぞわりと背中をおぞけが走った。確信に満ちた声だった。
 コナンから視線を外した尚樹はすでにいつもの無表情だ。どこかぼんやりとした視線のままケーキを口に運ぶ。ゆっくりとそれを咀嚼して左手で頬杖をつく。
「あとそういうのは、暇な人間が考えればいいんじゃない? 少なくとも安室さんみたいに草鞋たくさん履いてる人は、そんなこと言ってないで寝た方がいいと思うけど」
「……はは、何のことかな?」
「目の下のクマ、隠しきれてないですよ」
 する、と尚樹の指先が彼自身の目元をなぞる。その顔はこれと言って表情を浮かべていなかったけれど、それを指摘された安室の笑みは深くなった。大変怖い。
「ふぅ、お腹いっぱい。中身トロトロでおいしかったです」
「……そう、それなら良かったよ」
 ごちそうさまでした、と尚樹が手を合わせる。気が付けば日が随分と翳っていた。