晴れ時々雷雨。その弐拾漆

 駅を出てすぐに強い日差しが目を焼いた。視界が白く明滅する。
 雑踏の中で立ち止まった尚樹に、亜久津が振り返ったのが気配で感じ取れた。揺らぐ平行、ひいては寄せる音の波。気のせいか、目まぐるしく目の前を何かがよぎっては消えていく。
 出来損ないの走馬灯のようだった。
「おい、大丈夫か」
 過ぎゆくそれは、掴み取る前に幼馴染みの声にかき消されるほどに儚く、日常が目の前に戻ってくる。何かを思い出しそうだった、と尚樹は感じた。
「……平気。太陽がめちゃくちゃ目にきた」
「……帽子かぶっとけ」
 ポス、と頭に乗せられたキャップの鍔をつかんで深く被る。遮られた視界の向こうに、少し強張った亜久津の顔。なんでこんな些細な嘘はすぐに露呈してしまうのか。
 ゆらりとアスファルトから立ち昇る陽炎、その向こうに異形の影。人の行き交う場所では、影ばかりが目についた。
 夕立が来そうだ、とその影を見送る。ぼんやりしていると、亜久津に手を引かれて失われた平行が戻ってくる。自分の腕の先にある亜久津の手が、幼い子供のそれとだぶって見えた。
「おい、気分悪いんじゃねぇか?」
「……え、どうだろ、悪くないと思うけど」
 別に吐き気も頭痛もない。本当に、目が眩んだだけなのだと思う。亜久津は尚樹の返答に難しい顔をしていた。
「……熱中症かもな。少し涼んでいくか」
 別に平気だけど、という言葉は飲み込んだ。亜久津は意外と過保護なので。
 なんでか知らないけど、俺の「平気」は全然信用されないんだよなぁ、と尚樹は揺らめく人影と視線が合わないようにアスファルトに視線を落とす。自分は大変頑丈な健康優良児だと自負しているわけだが。
 手を引かれて喫茶店のドアをくぐる。カウベルの音を聞きながら、まぁここですよね、と内心でため息。「いらっしゃいませ」という声が耳元を滑っていく。
 五条や七海から学校や病院は呪霊が集まりやすいとは聞いている。人が集まる場所や、長く過ごす場所は負の感情が溜まりやすい、らしい。それは尚樹にも何となく分かる。
 では何故こんな変哲もない場所に先程から呪霊の影を見るのか。
 答え、ここが米花町で、そこにポアロがあるから。
 正確にはポアロじゃなくて、毛利探偵事務所の、ひいてはそこに居候している名探偵のせいだろうが、ポアロにも業の深そうな警察がいるので今はポアロのせいで間違いない。
 あの人、油断すると黒い影なんだよなぁ、と亜久津のキャップを深く被ったままカウンター席に座った。
 ちらりと一番奥のテーブル席を盗み見る。奥のソファ席側に大きなバッグが一つ。人の姿は見えない。
 するりと円を広げると霞のような呪霊たちがかき消えていく。トイレに人の気配。ついでに2階3階と円の範囲を広げていくと2階に2人、3階に2人。依頼人でも来ているのだろうか。
 メニューに手を伸ばしたところでカランカラン、とカウベルがせわしなく音を立て、立て続けに二人、男女が連れ立って中に入ってきた。キャップのつばに半分遮られた視界でそれをとらえる。仲がよさそうだが、顔立ちやしぐさから姉弟と分かった。
「あれ、もしかして一番乗り? すいません、予約してた米花大学の演劇サークルですけど」
「ああ、お連れの方は今お手洗いですよ。奥の席にどうぞ」
 二人が案内された席は、先ほどから荷物だけ置いてあるテーブル席だ。なんとはなしに耳に届く話の内容から、どうも誕生日会らしい。
 メニューを開いて二人の間に広げたところでお冷とおしぼりが出てくる。今日の店員は2人。片方はもちろん警官の彼。女性のほうは梓さん、というらしい。
「一応飲んどけ」
 すっとカウンターの上を亜久津の手のひらが滑る。その下に銀色のPTP。たまにしか出てこない錠剤だ。
 いつもの薬がこちらのテンションを微妙に上げてこようとするのに対して、多分これは落ち着ける方。精神に干渉してくる感覚がいささか鬱陶しい一品。味は絶妙。
「……前のやつのほうがいいんだけど」
「好き嫌いすんな」
「遺憾の意」
 好き嫌いではない、多分。新しい薬はどうも干渉してくる時間が長くて、面倒なのだ。初めのころにもらったやつはせいぜい4時間程度だったのに、今は1日くらい。耳元でどうでもいい話を延々とされているような煩わしさ。
 諦めて錠剤をシートから押し出し右手の上に転がす。表面にはかすかに刻印が見て取れる。アルファベットと数字の羅列。観念してそのまま口に放り込んで、出されたお冷で流し込む。冷たい水が食道を伝って胃に落ちる、その感覚。かすかにレモンの香り。
 するりと左手からコップが滑り落ちた。まだ半分以上残っている水と共に落ちていく様が酷く鮮明で、痛覚は一瞬遅れてやってきた。
「いっ……」
 右手で左腕をとっさに押さえる。激痛と呼ぶに相応しいそれは、覚えがある。振り下ろしたクナイ、切断された腕。上腕から下の感覚がない。一瞬だけ、濃い血の香りが鼻を突いた気がした。
「っおい!」
 慌てた様子の亜久津の声がどこか遠くに聞こえる。視線を左腕に落とすと、ぐるりと巻きついた蜥蜴のような呪霊。妙にぎょろりとした目玉に蛍光灯の光が反射している。実体がないにもかかわらず、店内の影を映す瞳がリアルだった。
 うわ、これ肩に乗ってたら肩こり感じるやつ。
 過去最大の激痛を与えてくるそれを文字通り握りつぶす。右手を発状態にすれば、それは呆気なく霧散して痛みが消え、無くなった左手の感覚も戻ってきた。無意識につめていた息をゆっくりと吐きだす。
 尚樹はこれでもできるだけ怪我をしないように戦闘中も気を使っている。パフォーマンスが落ちるし、あまり痛みに強くない自覚があるからだ。ヒソカみたいに笑っていられないし、痛覚を遮断するのも優先的に訓練した。それだっていつも使えるわけではないが。だからこうも不意打ちで痛覚を刺激されると、めちゃくちゃ痛いわけで。
 また号泣する羽目になるところだった、と呼吸を整える。二度と腕を切断しないと心に決めていたのに、まさか現代日本で同じ痛みを感じることになろうとは思うまい。せいぜい銃で撃たれるかナイフで刺されるかだと高をくくっていたのでこれは本当に無防備だった。
 首筋を汗が伝う感覚がする。
「びっ……くりした。あ、お姉さんごめんなさい、コップ割っちゃったかも」
「あっ、いえいえ大丈夫ですよ」
 女性店員は両手をぱたぱたと振って、カウンターに転がったグラスを回収する。
 カウンターに傷をつけてしまったのではないかと確認しようとして、自分より酷い顔色をしているであろう幼馴染みに尚樹はようやく気づいた。
 あ、これ良くないやつですね、と。
「グラスが割れてなくて良かったです。どうぞ、タオル使ってください。制服濡れてしまいましたね」
 空気を読んでいるのか読んでいないのか、心配そうに眉尻を下げてタオルを手渡してきた安室は、手際よくカウンターと床にこぼれた水を拭いて新しいお冷をサーブする。そつがない。
 対照的に尚樹がもたもたしていると、難しい顔をした亜久津がタオルを奪って濡れたカーディガンとズボンを拭いてくれた。
「……腕の痛みは」
「あー……いや、不意打ちだったから大げさに反応しましたけど、めっちゃ一瞬だったしもう痛くない……デスヨ」
 めっちゃ気まずい。
 これは呪霊のせいであって、薬のせいでも傷のせいでもないんですぅと心の中で盛大に訴える。口にしないのは、その嘘くさい内容と、言葉を重ねれば重ねるほどウソっぽくなるから。
「調子悪くなったらすぐ言え」
「はぁい」
 意外にもすんなりひいてくれた亜久津にほっとして、メニューを眺める。
 まあまあ迷惑をかけてしまったのでさすがに何も注文しないのは気が引ける。亜久津はコーヒーだけだったが尚樹はまだ食べたことのないスフレを注文した。ついでにテーブルのほうに座っていた男女二人にも軽く謝っておく。通路分くらいしか距離がないので、水が飛んでいてもおかしくない。
「平気平気、そっちこそ大丈夫か? 派手に濡れたみたいだけど」
「はあ、まあそのうち乾くと思うんで」
 チャラそうな男性がからっと笑って返す。それに軽く返事をして、わずかな視線の動きで向かい側に座る女性の顔を確認した。
 カラン、とまたカウベルがなって男性が入ってくる。店内を軽く見まわした視線は、尚樹の後ろ。軽く手を挙げた男性に気づいてその隣に腰を下ろした。
 奥のソファ席に座った女性の隣はいまだあいているが、4人席なので役者はそろったはず。店に入った時からトイレにこもる人の気配。この空気を知っている。素人のそれだから、肌を刺すような感覚はさすがにないが同じものだ。
 殺意。
 テーブルにつく3人の間にもどこか決まずい空気。ほかの二人が姉弟だからかな、と自己完結。どうにも事件の起こりそうな空気だが、まだ名探偵がここにいないので時間的猶予はありそうだ。
 今頼んだばかりのスフレをキャンセルしたい気持ちにかられながら尚樹は自分にそう言い聞かせた。
 食事と違って提供にそれほど時間がかかるものでもない。先に出てきたコーヒーに亜久津が口を付ける、その白い湯気をなんとはなしに目で追った。
「そういえば、リョーマ君と仲良くなったの?」
「……あぁ?」
「さっきなんか二人で話してたから」
 駅のコンビニで尚樹が会計に並んでいる間、2人が外で何か話していたのは見えていた。それほど険悪な雰囲気でも無かったので意外と仲がいいのかと思ったのだが、予想に反して亜久津は嫌そうな顔をした。
「大した話はしてねぇよ……おまえがネットで個人情報ばらまいてるから気を付けろっていう忠告だ」
「なぬ。突然の飛び火。別に個人情報ばらまいた覚えはないですが」
「些細なことからもれるんだよ、ネットっていうのは」
「それはそう」
「ほんとに分かってんのか?」
 まったく、とため息をつく亜久津には悪いが、尚樹のネットリテラシーはそれなりに高いという自負がある。もちろん、根拠のない自信だが本人は大真面目である。
 それに、あまり隠されると暴きたくなるのが人間の心理である。ほどほどに害のない情報をばらまいておくのは人のそういった欲求を満たすにはちょうどいい。
 まあ、ストーカーの類は別に怖くないので尚樹としてはそれほど問題ない。
「水沢君、個人情報がばがばだもんねぇ」
 突如として降ってきた声に尚樹は視線を向けた。安室がケーキセットを尚樹の前に差し出す。スフレはふるふると震えていて、添えられたクリームにアイスティーのグラスが光に透けて琥珀色の影を落としていた。大変写真映えしそうだ。
「安室さんまで……あ、ストロークダサイ」
「はい、どうぞ」
 すぐに出てきたストローを受け取って袋から取り出す。グラスに差し込んで軽く回すとからからと涼しげな音を立てた。
「じん君に怪我させたの、リョーマ君なんだってね?」
「お前……忘れろ、そういことは」
「そう? じん君がそういうならそうするけど」
 尚樹が思っているより不名誉だったらしい。あまりつつくとかわいそうなので、尚樹はそれで忘れることにした。当人間で遺恨がないのならそれでいい。
 ストローから流れ込んでくる冷たい液体が喉を滑り落ちる。から、と氷が音を立てるのと出入り口のカウベルがなるのは同時ぐらいだった。
 短い平和だった、と尚樹は視線を向けることもせずにストローに歯を立てる。しかも予定外にもう一人探偵が増えてるし、と頬杖を突く。西と東の名探偵がそろったら、事件が起きないはずがないのである。
 先ほど感じだ2階の2人はこのふたりかぁ。
「あれ? 水沢のおにーちゃん」
 しかも目ざとい。わざわざキャップを深めにかぶっていたというのに、何の時間稼ぎにもならなかった。
 出来ればそっとしておいてほしかったなぁ、と顔を上げる。
 そのあざとい感じ、知っている。こっちにちょっかいをかけてくるときの子供の仮面だ。
 仕方がないので小さく手だけを振り返しておいた。たぶんじん君はあんまりこういうのは好きじゃないと思うので今は遠慮してほしいっていう無言の抵抗。
 あともう帽子をかぶっている意味がなくなったので脱いでおく。ついでに前髪を止めていたクリップを亜久津に奪われた。解せぬ。
「なんや工藤、知り合いかいな」
 尚樹と亜久津の顔の間を視線で行き来した服部は、声を潜めるでもなくそう言った。
 工藤って言っちゃってるし。笑ってしまう前にスフレをほおばる。バレバレすぎないだろうか、いろいろと。安室さん、ここに個人情報がばがばな人たちがいますぅ。
 眉間にしわを寄せている亜久津におすそわけ、とばかりにフォークに刺したスフレを差し出すと余計にしわが増えた。だめだったか。
 そのままじっとしていたらしぶしぶ食べてくれたので、まあ嫌ではないのだろう。
「また迷子になったの?」
 んん、鋼のメンタル。空気読みって言葉知ってるかな? いま絶対話しかけるところじゃなかったよねぇ?
 下手にやり取りをしてここから退散出来なくなるのは避けたいのだが、そうは問屋が下さない。
「……黙秘」
「迷子になったんだね……」
 こらこらなんでそんなに残念なものを見るような顔をするのか。そういうことを言うなら、尚樹だってちょっとは意地悪をしても許されるだろう。
「……コナン君、苗字工藤だったっけ? なんかもっと奇抜な名前じゃなかった?」
 わざとらしく首をかしげてみせる。コナンお得意のあれれー? ってやつだ。途端、絵に描いたように服部もコナンもあからさまに顔を引きつらせた。これでバレていないところが何というか。
 安室がカウンターから出てテーブル席のほうにお冷とおしぼりを2つ用意する。今にもコナンがじん君の隣に座りそうだったので、とても良い仕事をしてくれた。せっかく頼んだのだからケーキぐらいはちゃんと味わいたい。ここが血なまぐさいことになる前に食べきってしまおう。
「コナン君は、江戸川、だよね」
 にっこりと笑顔を浮かべて一言一言かみ砕くように安室が訂正する。笑顔なのに圧を感じるのは気のせいか。
「そ、そう! 服部のおにーちゃんはすぐ名前を間違えるんだよ!」
「せ、せや! 知り合いに顔が似とんねん」
 あたふたしながらも安室に促されて2人がテーブル席に移動する。知り合いに顔が似てる、ね。本人なのだから、それはそうだろう。
「へぇ? それって工藤新一?」
「おい」
「はぁい」
 幼馴染みからストップがかかったので視線を戻す。その時に窓際の席に音もなく滑り込んできた客の顔を記憶した。あえてこのタイミングを見計らって入ってきたようだったが、何が目的なのか。安室も途中で気づいたようですぐに注文を取りに行く。さすがにその辺は名探偵たちより敏いようだ。
 まあ、名探偵たちはまだ高校生なので、プロ相手には負けるだろう。
 警官かなぁ。ちょっと違う気もするけど、その類だろう。いよいよ雲行きが怪しくなってきたので残りのスフレを片付けにかかる。
 こんなに人数が増えて、トイレの中の彼はどうやって犯行に及ぶのか。ほんの少しだけ好奇心が頭をもたげたが関わらないのが一番だ。好奇心は猫を殺す、ということわざもあるわけですし。
 
 じゃあ俺たちはこれで、と会計のために席を立ったところでそれは起きた。
 尚樹の耳は行き交う会話の合間に、わずかな異音とブレーカーの落ちる音をとらえていた。ふっと落ちた照明に動く人の気配。たぶん、相手もよく見えていないのだろう。別に他人が刺されても特に問題はないのだが、今は位置が悪い。
 亜久津まで刺されてはたまらないので、尚樹は暗闇を滑るナイフの先に手をかざした。もちろん痛覚は切ってある。分かっていればほぼ確実に痛みを感じなくてすむので、今回は楽勝である。
 深く手の甲から掌側までを貫通していく金属の感触。痛覚は抑えられても人間触覚だけは最後まで残る。
 え、とかすかに誰かの声が聞こえた。
 ずる、と乱暴に差し込まれたナイフが引き抜かれる感触。音もなく床に落ちていくそれをとっさに靴の側面でトイレ側に蹴り飛ばした。カランカラン、と硬質な音をたてて床を滑る音。
 すぐに明るくなった店内は、しかし尚樹の予想とは少し違っていた。
「あ、やば」
 深く考えずに手でガードしたが、出血には気を使っていなかった。とんだ惨状である。先ほどこぼした水の比ではない。壁に床に、細かにとびちる鮮血の痕。近くに座っていたコナンと服部にまで飛んでいたのは計算外だった。もちろん、尚樹がかばったつもりの亜久津にもばっちり飛んでいる。
「うわ、ごめんじん君まで血飛んじゃった」
「ばっ、そんなこと言ってる場合か!」
 流れるような動作でズボンのポケットからスマホを取り出した亜久津が止める間もなく救急車を呼ぶ。大した怪我ではないので、尚樹としては救急車はいらなかったのだが、「ナイフで刺された」という字面だけなら、なるほど救急車、と納得して大人しくしておいた。
 ついでに安室にまあまあの力で椅子に逆戻りさせられて腕の付け根をタオルで強く締められる。さすが警察、止血点を良くわかってらっしゃる。
 それにしても、と床に転がる凶器らしい包丁を眺める。掌を突き抜ける感覚でなんとなくナイフかと思っていたら包丁だったらしい。普通の三徳包丁ではない。刃渡りが長く少し細身だ。こういうのをなんというのだろうとぼんやり思考を巡らす。なんとなく、魚を捌いていそうだ。実際に捌いたのは人間だったわけだが。
「あ、おにーさんもごめんね、めっちゃ血飛んじゃった」
 たぶん、ターゲットはあなただけど、というのは心の中だけにとどめておく。別に彼を助けるために手を出したわけではなく、尚樹は降りかかる火の粉を払っただけに過ぎないのだから。
「いやいやいやいや、それどころじゃないだろ、大丈夫かよ。ソ、ソファのほう横になるか? 確かこういうのって、傷口を心臓より上にあげといたほうがいいんだろ?」
「あ、平気平気。止血すんでるし、別に痛くないから」
「そんな訳なくない!?」
「あ、コナン君もごめんね。眼鏡に血が飛んでるや」
 横から入った鋭い突込みは被害者(未遂)の隣のテーブルの名探偵。その眼鏡のレンズと頬に血しぶきの痕。もちろん一緒のテーブルの服部の頬と服にもばっちり血痕。
 ごめんね、でも新鮮な殺人未遂事件をお届けしたのでチャラにしてほしい、ということでここの後始末は彼と西の名探偵に任せておけば問題ないだろう。
 すでに尚樹の耳にはかすかに救急車の音が届いていた。いろいろ聞かれなくて済むのは正直助かる。自分はただここにいた一般人で、刺されたのは偶然席を立ってターゲットの近くにいたから。暗闇で何も見えていない、そういうことにしておきたい。
 事件の動機も真相も興味はない。どちらかと言えば過保護な幼馴染みのメンタルのほうが心配だ。今日はすでにいくつかやらかしている気がするので、これはトドメといっても過言ではないだろう。
 そういえば、落ちた包丁が変なところにはねて刺さったらまずいと思って蹴り飛ばしたのだった。靴を確認すると僅かではあるが血液が付着している。
「あ、これ証拠品だよね。安室さん、回収する?」
 まごうことなき証拠品。意味があるかは分からないが、警察が回収しないとも思えない。このまま救急車に乗せられて、靴だけあとから回収するなり写真をとるなりしてくれればいいが、ついでに事情聴取されてはたまらない、と尚樹は自分の靴に手を伸ばそうとして安室に強い力で押し戻された。中指の輪郭をなぞるようにを血液が滑り落ち、ばたた、と床にいくつか飛沫を残す。
 安室は先ほどからいつもの胡散臭い笑顔を取り払って難しい顔をしていた。
「あとでね。それより今動かないで。大怪我してるのわかってる?」
「だめかぁ……あ、でもこのまま病院行っちゃうと証拠汚染しちゃわない?」
「そういうのは気にしなくていいから」
「だめかぁ」
 強めの口調で返されて、これは無理そうだ、と肩を落とす。店内には濃い血の匂いが充満して、あきらかに血液になれてない人間は顔色が悪い。人間は強い血の匂いに反射的に吐き気を催すものなのだ。誰も戻してないのが奇跡的、とも言えるし、コナン世界だから、で解決する気もする。
 ただ一般人と思える3人組はさすがに顔を白くしていた。最後に入ってきた男性は変わらぬ顔色でドアの近くに立っている。店内の人間を見回す視線も、唯一の出入り口であるドアの前を占領するのも警官かその類の所業。この空間警察と探偵ばっかりだな、と少しおかしくなった。犯人もかわいそうなものだ。犯行を邪魔された挙句、秒で捕まる未来しか見えない。
 ちらり、と沈黙するトイレのドアに意識を向ける。尚樹にナイフを突き立てた後、トイレに戻ってドアに張り付いていた気配が動く。カチリと鍵を開ける音、続いてドアノブを回す音。そのどれもが異様に響くようだった。出てくるなら、先ほどまでの騒がしいタイミングで出るべきだった。尚樹が悲鳴の一つも上げなかったせいで、出るタイミングを逸したのか、はたまた違う人間を刺して動揺したのか。尚樹を除く全員の視線がそこに集中するのは必然だっただろう。

 救急車の音はもう誰の耳にも分かるくらい近い。肩に下げたままだったバッグを亜久津が取り上げる。左肩にかけていたので、これにもまあまあ血液が飛んでいた。きれいに落ちてくれればいいが。
 尚樹も椅子から立ち上がって外をみると点滅する赤いライトが断続的にアスファルトを照らしている。
「歩けるか」
「うん、平気」
 見た目ほど出血もしていない。どちらかと言えば亜久津のほうが顔色が悪いだろう。右手を亜久津にひかれて出口に向かうと、男性がドアを開けてくれた。マフラーと帽子でほとんど顔を隠しているが、耳にはインカム。その先にいる人物を尚樹は知らない。
 軽く会釈をして外に出ると、救急隊員がストレッチャーを下ろそうとしているところだったが、遅れて外に出てきた安室がそれを制止しながら短く救急隊員とやり取りをして尚樹と亜久津を救急車に乗せてくれた。意識確認なのか、車の中で寝かされたまま名前や住所、連絡先を尋ねられる。つないだままの亜久津の右手はひどく冷えていて、これではどちらが怪我人か分からない。
「じん君、救急車酔わない? 大丈夫そ?」
「……別に、こんくらいじゃ酔わねぇよ。」
「そ? ならいいけど。あと、手ぇ刺されたくらいで人間死なないからそんなに心配しなくて大丈夫だよ」
「……心配は、するだろ」
「……そか」
「ん」
 横になっているのと車の振動で少し眠くなっているのだが、さすがにここで寝ると亜久津の胃に穴が開きそうだ。進行方向を眺める亜久津の顔を下から眺め、今更ながらにそういえばまだ中学生なんだよなぁ、と再確認。
 ちょっと刺激の強い光景だったかもしれない。
「あ、ゆきちゃんに帰り遅くなるって言わないと」
「もう連絡した。病院決まったら迎えに来るってよ」
「え、ゆきちゃん仕事じゃないの」
「早退」
「うわ……いたたまれなさ半端ない」
「そこ気にすんのかよ。お前が悪いことなんてひとつもないだろ」
 いや、包丁の前に手を差し出した罪。多少不自然でも犯人ごと取り押さえておくべきだったか。
 いささか強い口調、低くなった声。不規則に乱れるオーラの流れが亜久津のささくれた心境を表しているようだった。
 ついつい忘れがちになるが、亜久津はテニプリ側の人間なので殺傷事件はまずかったらしい。もうすこしうまく立ち回れば良かった、と後悔しても後の祭り。
 でもあそこ勘のいいひといっぱいいるからそういう行動は後々面倒なことになりそうで、なんてぐるぐる思考を回している間に病院に運び込まれて流れるように処置室に運ばれ、そのまま一晩入院コースで結局家には帰れずじまいだった。


コナンの季節が合わないのはもう許してください( ´・ω・`) おんなじ季節が何度も来てるからどう足掻いても合わせきらない……。