晴れ時々雷雨。その弐拾陸
カバンの底から出てきた、潰れたタバコの箱。ここしばらく手をつけていなかったので、きっともう湿っているだろう。今は、自分でも驚くほどこれに手をつけたいとは思えなかった。
台所のゴミ箱は、家の中で唯一蓋の付いているものだ。そこにタバコを放り込む。顔を上げると、いつからそこにいたのか、台所の入り口でたたずむ優紀と目があった。
亜久津がタバコを吸っていることは、優紀も知っている。今まで亜久津に隠す気も無かったし、なんなら堂々と目の前で吸ったことも一度や二度ではない。
だからこそ、まだ中身の入っているそれを捨てるのはあまり見られたく無かった。
「タバコ、やめたんだ?」
「べつに……やめたわけじゃねぇ」
「でも吸わないんでしょ?」
そう、やめたわけではない。今は吸わないだけ。
気まずさに視線を逸らす亜久津に優紀が優しく微笑んだのが分かる。絶対に今ほほえましそうな視線を送られている、とからかわれるでもない声色に亜久津はげんなりした。
頼むから見て見ぬふりをしてくれ、と。
いつまでも未成年のような顔をしてこういうことをするから息子が荒むのだということにそろそろ気づいてほしい。
無意識に舌打ちがもれた。
「……吸えるかよ」
少なくとも、尚樹の前では。
尚樹の両親の離婚の決定打は、亜久津が尚樹に火傷の跡を見つけたからだ。何の火傷の跡かは、見てすぐに分かった。あの家でタバコを吸うのは一人だけだ。
ぞわりと背を伝う感覚と、息苦しさを今でも鮮明に思い出せる。覚えた怒りは今でも亜久津の中にくすぶって消えない。
別に、指摘したことを後悔はしていないし、罪悪感もない。ただ、忘れたままでいて欲しいだけだ。
「あれ、じん君どうしたの?」
「ああ?」
夕飯のために勝手知ったる亜久津家に足を踏み入れた尚樹は、口元にガーゼをあてた幼馴染みに首を傾げた。
昨日は水族館に行ってコナンの事件に巻き込まれたため、さんざんな思いをして、観覧車から降りて以降の記憶がほぼない。
なんか病院でいろいろ質問された気はするが、すでに就寝時間を回っていたので眠気が限界だったのだ。隣に座っていた幼馴染が良きに取り計らってくれたのだろう、気が付いたら自宅にいたという顛末。
今朝は意外にもすっきりと目が覚めて、いつもどおり亜久津の家で朝食をとった。その時は怪我なんてしていなかったので、少なくとも昨日の事件が原因ではない。
「怪我?」
尚樹が自分の口元を指差すと、亜久津は今思い出したかのようにガーゼを雑にはがした。擦り傷と青くなった内出血の痕。殴られた痕に見えなくもないが、亜久津の答えは意外なものだった。
「試合中にボールが当たった」
「うぇ、顔にクリーンヒットしたってこと?」
「言い方ぁ」
「やー、じん君反射神経いいから珍しいなって思って」
喧嘩でも亜久津が怪我をしているところを見たことがない。そもそもテニスボールが顔に飛んでくること自体尚樹は経験がない。下手だから忖度されているだけな気もするが。
「ちっと距離がなかったんだよ」
「ふぅん?」
その言い方だと、故意に顔を狙われたように聞こえるが。テニスでそれはOKなのか、ルールに詳しくない尚樹には判断がつかない。まあ、故意か事故か、という判断は難しいか。
「痛い?」
「いや、かすり傷だ」
見た目はまあまあ派手だが、本人があまり気にしている様子でもないので、大丈夫なのだろう。それよりも、亜久津の顔を狙う猛者の方が尚樹は気になる。誰だその勇者は。
「山吹の人?」
「いや、」
「都大会で他校の一年生にやられたのよね、仁」
台所から顔を覗かせたゆきにジロリと亜久津が視線だけで抗議した。否定しないところを見るに、真実なのだろう。というか気になるのはそこではなく。
「都大会って……えぇ、知らないんですけど」
あまりにも今朝普通に部活、とだけ言って出かけて行ったので気にも留めていなかった。そんなイベントがあるなら尚樹だってついていったのに。
「そりゃお前、テニス部じゃなきゃそんなもんだろ」
「教えてくれれば応援行ったのに」
「いらん」
大変つれないお返事。確かに応援に来られて喜ぶタイプには見えないが。
それはそれとして、せっかくなので一度くらいは試合その他を生で見てみたいのだ。忍足達がゆるい空気だったので油断していた。まさかテニスの大会があったとは。跡部の言ってた試合ってこれかぁと今更ながらに思い当たる。
そういえば、なんだかんだまだ主人公に会ってない。時期的に、もう日本にいるはず。基本的にテニスの試合がメインなので、あまりストーリーを覚えていないわけだが。
「ていうか、昨日遊んでて良かったの? 練習とか」
なんなら尚樹は寝ていたので覚えていないが、帰宅も深夜だったはずだ。とてもベストコンディションとは言い難い。
「前日に練習したくらいで変わんねーだろ。休養日だ」
「ふうん?」
そういうものか。はたしてあれが休養日になるのかと言われれば否だが、なにぶん若いので。きっと体力もたくさん。
尚樹自身、昨日はひさびさに念能力の中でも苦手な強化系を駆使してずいぶん消耗した割に、朝はすっきりした目覚めだった。
テニプリの世界と思って油断していたが、思ったよりコナン世界が命の危機を感じさせるので、もう少し念の訓練に時間を割いた方がいいかもしれないと思う今日この頃。
物騒すぎでは? あんまりこっちに侵食して来ないでほしい。
「それで、勝ったの?」
「……負けた」
「珍しいこともあるもんだねぇ」
忍足や跡部と試合をしたらどうなるのかは分からないが、あまり負けるイメージがない。メタな推理をするなら、相手はテニプリに出てくるキャラクターなのだろう。そうでなければ亜久津が負けるはずがない。記憶が正しければ、この時期に亜久津が負けるとしたら相手は主人公の越前リョーマくらいしか思いつかない。そういえばなんか、リョーマとの試合の後すぐにテニス部やめていたようなやめていなかったような。妙に亜久津になついている後輩がいたような記憶も連鎖的によみがえってきた。
いつもと変わらない亜久津の態度、部屋の隅には定位置にラケットの入ったバッグ。
まあ、どちらでもいいか。
テニス自体は今まで通り変わらず相手をしてくれそうだと判断して、尚樹は自己完結した。
試合を見れないかもしれないのは残念だが、氷帝の試合は問題なく見られる。忍足にお願いすれば、次の試合には連れて行ってもらえるだろう。
机を拭いて湯呑を3つ、急須に茶っぱを入れてスタンバイ。ケトルに水を入れてスイッチを入れた。
「ゆきちゃん、お箸でいい?」
「今日グラタンだから、フォークも出して」
「はーい。グラタン嬉しい〜」
心なし足取りも軽く準備を進める背中にそっとため息をつく。試合の事は、出来れば尚樹に知られたくなかった。
亜久津の顔にテニスボールを当てた一年と亜久津の間に面識はないが、尚樹はあるはずだ。アメリカにいたときの知り合いで、かつテニス関係。あまりいい予感はしない。
どうせ一人では会場に着くことも難しいはずだ。亜久津が連れていかなければ会うこともないだろうと、すぐに変わった話題に安堵した。
猫舌のくせに無邪気にグラタンに喜んでいる尚樹に、やけどすんなよ、と忠告してポケットの中で震えたスマホの通知を確認する。跡部からだ。
少し前に尚樹には内密に跡部と連絡を取ったのだが、その返事が来ていた。尚樹がスカウトされた高校について。
意外にもその存在は特に秘匿されたものではないらしく、確かに存在もしているらしい。しかも東京と京都で2校。資格的なものもある、というくだりで流石に驚いた。よくテレビなどで見る眉唾な存在とは訳が違う。一応ちゃんとしたところらしい、と締め括った割に尚樹を心配する内容。詐欺ではないとわかっていても心理的には受け入れ難い、というところだろう。荒唐無稽な話なのでそれも仕方ない。いっそ詐欺であってくれた方が話は簡単だった。
どうすっかなぁ、とグラタンを運ぼうとする尚樹を制して代わりに受け取る。多分大丈夫なのだろうが、落とすと大惨事なので。
尚樹が日本に戻ってきてから、亜久津が食事の支度をこうして手伝うので、優紀がニヤニヤしているのを感じてムカつくのだが、放っておいていいことなんて1つもない。そこんとこわかってんのか、と視線だけむけておいたが、余計にニヤニヤされただけだった。
こっちはそれどころではないというのに、これではどちらが保護者なのか分からない。
まだ3年に上がったばかりとはいえ、早いところなら進路希望を出しているだろう。先延ばしにしても仕方ないので、近いうちに七海と話し合いの場を設けたいところだ。
ついでに、警察の反応も見ておくか。
脳裏に浮かぶのは褐色の肌、鮮やかな金髪。目鼻立ちからさすがに日本人だと思うが、チャラすぎないか。
それが彼の仮面であることはもちろんわかっている。目が笑っていないし、尚樹を探る目線が鋭すぎる。もうすこしオブラートに包んでくれ、というのが亜久津の心境だ。あそこまであからさまだとさすがに無視できない。
尚樹からお茶を受け取って席に着く。グラタンをちまちまと冷ましながら消費する尚樹を横目に、登録しておいた七海の番号にショートメールを送信。日時は向こうに合わせるとして、場所だけは指定した。某探偵事務所の一階、喫茶ポアロに。
「あ」
主人公、という言葉は飲み込んだ。互いに目があって発した言葉は同じだったが、意味合いは大きく異なる。
駅のホームは学生やスーツ姿の人間でごった返している。お互いによく気づいたものだ。
まだ中学生らしい体躯を見下ろすと、尚樹には見慣れない黒い普通の学ラン。よくよく考えてみれば、氷帝はブレザーで、亜久津は白い学ランなので今まで周りにいなかった。立海も氷帝と色は違うがブレザーだ。
久しぶり、生きてたんだ、と憎まれ口を叩いたリョーマに尚樹は首を傾げた。そういえは、すっかり忘れていたが自殺未遂をしていたか。この体の持ち主はよほど死にそうな顔をしていたらしい。でも人間はあんなかすり傷と睡眠薬程度では死ねないので、どうか安心してほしい。
「あ、南次郎さんには会ったよ」
「知ってる」
先日、尚樹の知らぬ間に都大会が終わっていたので忍足に確認したところ、次の試合は7月の関東大会。その時になれば会えるだろうと思っていたが、まさか普通に駅のホームで出会うとは。世間は大変狭いらしい。
「電車通なんだ?」
「いや、買い物の帰りだけど……あんたこそ家この辺なの?」
「いや? 俺は迷子」
「はぁ?」
「いや、ちゃんと間違いに気づいて途中下車したので、俺は偉いと思う」
そう、ちゃんとまだ生活圏内、多分。ちなみに幼馴染には連絡済みである。
「あいかわらずの方向音痴……よくそんなんで一人暮らししてるよね」
「ごもっとも。でもお隣は幼馴染なのでなんちゃって一人暮らし」
「過保護……」
そんなんだから進歩しないのでは、という言葉をリョーマは飲み込んだ。あまりにも変わりがなくて普通に話していたが、尚樹に会うのは事故以来だ。テニスプレイヤーとしては絶望的、と聞いていたが見た目には分からない。思ったよりも元気そうだ。
左肩にかかっているのはラケットバッグでもなんでもない、普通のスポーツバッグ。氷帝の校章が入っているので学校指定のものだろう。
相変わらず腹が立つくらい背が高いな、と下からそれを見上げる。
「……体の方は大丈夫なわけ?」
「んー? 別にすこぶる快調ですけど」
「……あっそ」
そういえば日本語が壊滅的だった。気を遣って濁すと1ミリも通じないのが水沢尚樹という男。多少の付き合いはあるので、その辺はさすがにリョーマも把握していたのだが、いかんせんセンシティブすぎる内容なので上手く言葉が出なかった。
深く踏み込むほどの距離感ではないと思うのであえて訂正はしない。ただ、周りが思っているほど本人は気にしていないということは分かった。さすがに気にしてもいいレベルの事柄だと思うが下手につつくこともないだろう。
「……テニス、してるんだって?」
「ん? 南次郎さんから聞いた? してるっちゃしてるけど、部活とかではないよ?」
「……ちなみに部活は何な訳?」
「園芸部」
「……」
意味わかんないんだけど、という言葉はかろうじて飲み込んだ。多分、本格的にできるほど回復はしていないということなのだろう。
それにしても、なんでそのチョイス、とは思うが。尚樹のほうが年上なので面識はあるが、実はそこまで話したことはない。もともと園芸に興味があったのかどうかも、リョーマには分からなかった。
ホームに響く音。待つほどもなく電車が滑り込んでくる。聞きなれた音楽とアナウンス。空気の抜けるようなドアの開閉音。
「あんた、家に帰れんの?」
「お迎え呼んだー。西口で待ってろだってぇ」
「……」
いや無理だろ、という言葉はかろうじて飲み込んだ。見間違いでなければ、この男はリョーマと反対方向から歩いてきた。今から改札に向かうところだろうが、西口は逆の階段だ。
電車から降りてきた人の流れは規則正しく左右に流れていく。尚樹がこの流れに適当に乗って、適当な場所にたどり着くだろう未来が、なぜか鮮明に浮かんだ。面倒の一言に尽きる。
「……こっち」
目の前の電車は潔く諦めて、リョーマは尚樹を手招いた。
大人しく着いてくる尚樹を尻目に階段を登る。案内板にはデカデカと西口の文字と矢印。何故これで間違うのか理解し難いが、才能が一点に集中しているタイプなのだろうということにしておく。そうでなければ救いようがないし、いつも負けているリョーマの立つ瀬がない。
大変不本意なことに、現役の時は尚樹のほうがリョーマより強かったのだ。さほど派手なプレイスタイルでもないくせに、どんな球でも打ち返してくる。もちろんリョーマだって取りこぼさないようにしていたが、ムキになって打ち返しているとだいたいスタミナ切れで負けるというお決まりの流れだ。おかげでずいぶんとスタミナはついた。
尚樹の方が年上だとか、背が高いとか、そんなのは関係ない。このぽやっとした男に敵わないのが腹立たしいのだ。
階段のふちについた黄色いすべり止めを数えながら登る。ずいぶんとすり減ってところどころ色をなくしたそれ。段差のわずかなスベースにさえも貼られる文字だけの広告の上を視線が滑っていく。
階段を上り切ってしまえば、壁際にずらりと並んだコインロッカーのすぐ向こうに改札が見える。電車の発着を知らせる音楽とアナウンスは絶えず構内に反響して忙しない。
「そういえばさぁ」
180を超える長身が、リョーマに影を落とした。いつの間にか随分近くに立っていたようだ。痩身ではあるが、それなりに威圧感がある。何を食べたらそんなにデカくなるのか。あと、多少とはいえ身をかがめられるとイラっとするからやめてほしい。
「……なに」
「じん君の顔にテニスボールヒットさせたの、リョーマ君?」
思わずはぁ? と声がでた。誰だ、じん君。自慢じゃないが、テニスボールを顔にヒットさせたのは1人や2人ではない。
「誰?」
「亜久津仁、山吹の」
一瞬思考が停止した。
「……はぁ?」
「あれ、違った? こないだの都大会で」
「いや、違わないけど。そこじゃなくて、なんでアンタの口から亜久津の名前が出るわけ?」
「あ、ダメだよ。じん君の方が年上なんだから、呼び捨てにしたら」
「いや、そこじゃねぇー……」
話進まねぇ、とリョーマは天を仰いだ。AIでももう少しマシな会話をするだろう。あと絶対に「じん君」なんてかわいい顔でも性格でもない、絶対にだ。
「何でアンタの口からその名前が出るわけ? どういう関係?」
「え、幼馴染みですけど」
「はぁ!?」
え、あの人河村先輩の幼馴染み。
「世間ってせまい……」
「それは本当にそう」
つまり亜久津仁は河村先輩の幼馴染みで、かつ目の前の水沢尚樹の幼馴染みでもあるらしい。聞いていない。アメリカに来る前の話か、と思考を巡らせる。先ほど言っていた隣人の幼馴染みはもしかしなくても亜久津仁。どういう因果だ。
人の多い構内で図体のでかい男が立ち止まっていると邪魔になってしまうので、とりあえず壁際に寄る。軽く寄りかかるように肩を壁に預けてこちらを見下ろす尚樹の表情は、前髪に遮られて分かりづらい。
「アンタ、その前髪邪魔じゃないの?」
リョーマの言葉に尚樹が片手でかきあげるも、すぐに元の位置に戻ってくる。
「すぐ伸びるんだよねぇ。でも大丈夫、最近千石にこれもらったんだ〜」
すちゃ、とバッグから取り出したのは、派手な色彩、デカめのイカがついたヘアクリップだ。明らかに子供向けのそれに、リョーマは半眼になった。それは家の中でつける代物で、普通の神経ならこんな人通りの多い場所で使うものではない。少なくとも180超える図体の男が頭につけていいものではない。
そんなリョーマの思考をよそに、尚樹が手早く前髪をクリップで止める。隠れていた瞳とその額があらわになって、先ほどよりも印象が幼くなる。
知ってた。お前はそういう羞恥心のかけらもない生き物だって。
「で、何だっけ。亜久津……先輩にボールぶつけたのが俺かって? 本人から聞いたわけ?」
「いや? ゆきちゃんが他校の1年がぶつけたって教えてくれた」
「ゆきちゃん誰」
「じん君のお母さん」
「……ああ」
なんか妙に若くて母親に見えない母親いたな、と河村が大会の時に話していた相手を思い出す。はっきり覚えていないが、言われてみたらそんな名前だった気もする。
それにしても、他校の1年、というキーワードだけでぶつけたのが自分だと思うのもいかがなものか。
「まあ、ぶつけたのはオレだけど」
「だよね、そんな気してた」
なんかその反応も微妙にムカつくな、という気持ちとただの事実確認かよ、という気持ち。昔からそうだが、尚樹と話していると複雑な感情になる。煽ってんのかと。
本人は答え合わせが出来てスッキリしたのか、リョーマを追い越して歩き始める。このまま改札を抜ければ西口だ。
ここで見送っても良かったが、迎えにくるのは件の幼馴染みらしいので、好奇心が顔をだす。一体どんな顔して迎えに来るのかと。
迷うよりも早く、その背を追いかける。ICカードをかざせばピッと電子音がなって、改札のライトが緑色に変化するのを横目に通過した。
「リョーマ君、オレちょっとそこのコンビニで飲み物買ってくるから、じん君きたら引き留めといて」
「はいはい……」
よくその幼馴染みの顔にテニスボールヒットさせた人間にその役目を任せるよね、と呆れながら尚樹の背中を見送った。そのタイミングで背後から声をかけられる。
最近聞いた声だ。顔だけで振り返ると幾分不機嫌そうな表情。むしろこの顔しか見てないといっても過言ではない。
「どーも。見てたと思うけど、あの人今コンビニ」
「……あんまあいつに関わんなよ」
「それってあんたに言われないといけないこと? てか過保護過ぎない?」
会って最初に言う言葉がそれか。こっちは親切にもお宅の迷子ここまで連れてきたんですけど? と下からねめつける。じ、とお互い一歩も引かぬにらみ合いに馬鹿らしくなって視線を外した。
コンビニのレジは外から見ても分かるほどに混んでいて、尚樹が戻ってくるにはもう少し時間がかかりそうだ。
それを遠目に眺めていて、ふと先日みた動画を思い出した。
「平手打ちしたの、あいつの母親でしょ」
ジロリと睨んできた亜久津を意にも介さず、リョーマはしゃがんで靴紐を結び直した。
偶然自分のアプリのホーム画面に出てきた動画。サムネイルの見知った顔に指先が伸びたのは必然か気まぐれか。
最近の機械は酷く的確に情報を選別する。GPSをオフにしていても勝手に検索結果は近所のものを優先するし、住所が近しい人間の上げた動画をおすすめに表示する。こうやって身バレすんだろーな、と無防備に取り留めのない話をする尚樹の姿を眺めたのはしばらく前の話だ。本人が設定しない限り、タイムシフトはサイト上に残って、繰り返し浮上する。
「あのヒトは隠してるつもりだったんだろうけど、まわりには結構バレてたよ。見えるところ叩くんだから、当然だけど」
綺麗なヒトだった、見た目だけは。口から吐くのは煙と毒ばかり。正義感のさして強くないリョーマでも何度か不快感を覚えたそれ。
尚樹本人がそれをどう思っていたのかは分からないが、俯いた顔、僅かに伏せられた瞼、まるめた背中、そういった些細なことを自分でも驚くほどに覚えている。覚えていたのは苛立ちか、焦燥か、あるいは嫌悪なのか。どちらかと言えば言われたい放題、されたい放題の尚樹に対しての感情が強くて、同情心はなかった気がする。
「あの人、記憶喪失なわけ?」
夢の話をする尚樹は、まったく心あたりがない様子だった。女性に平手打ちされたことはない、というのは明確な齟齬だ。
一度だけ、たたかれた後の尚樹に声をかけたことがある。小さな音だったのに、パン、と乾いた音がやけに耳について見に行ったことがある。建物の陰で頬を抑えて立つ尚樹と、立ち去る小さな後姿。何が起きたのか容易に想像がついた。
「……記憶喪失つーか、欠落してる感じだな。事故前後のことと、家族のこと」
「ふうん。ちょっと意外。母親のこと、忘れたいほど嫌だったんだ」
「さあな……少なくとも好きではねぇだろ」
吐き捨てるような言い方は、亜久津の心情の表れだろう。なんなら尚樹本人より嫌っていそうだ。
尚樹自身はあんまり、そういう感情は持ち合わせていないのかと思っていた。叩かれても気にしていないようだったから。反抗するのも面倒、しおらしくしていれば早く終わる。そういう態度に、リョーマには見えた。
それはきっとあの人にも伝わっていて、だから余計に強く当たられたのだろう。
「あの人、ナチュラルに人を煽るから」
結構ごりっといった、と頬を撫でていた尚樹の落ち込んだ表情。わずかににじんだ血液が妙に赤くて、自分の頬も傷んだ気がした。その後につづいた「次から指輪の有無はちゃんと確認しよ」という言葉に反省点はそこか、とそんな錯覚も吹き飛んだが。
動画の中でも似たようなことを言っていたので、本人的にも一番印象的な平手打ちだったのかもしれない。
「……本人の情緒が小学生だからな」
「俺よりひどいこと言って無いスか」
「喜怒哀楽の怒と哀が極端に薄いっつーか……怒はともかく悲しいとかそういう感情は感じたことねぇな」
「怒はあるんだ?」
「めったにない……怒ってるかも微妙だけど殺意が高いからもしかしたら怒ってんのかってくらいだな」
「……こわ」
普段怒らない人間が怒ると怖い、の典型だろうか。殺意が高い、の内容次第ではあるが。
「ていうか、あのひと羞恥心も欠落してるから、その辺もどうにかしてやったほうがいいんじゃない」
「時間の無駄だろ」
「……俺よりひどいこと言って無いスか」
自分も口が悪い自覚はあるが、それとは違った辛辣さ。過保護なのかそうじゃないのかはっきりしてほしい。
「ま、俺には関係ないけど」
立ち上がって、それじゃあ、と軽く手を挙げる。改札に逆戻りしようとしたところで背中に「面倒かけたな」と声がかかった。
振り返った時にはすでにコンビニのほうに向かっていて表情は見えなかったが、たぶん不本意そうな表情をしているのだろう。
思ったよりまともなんだな、と改札をくぐった。
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