嫌気がさした水曜日

10th day-Tuesday

今日もバイトを頑張った。病み上がりだって言うのに俺頑張った。えらい。
すっかり日の暮れた道を家に向かって脇目も振らずに突き進む。お腹もすいたし、早く帰ってゆっくりしたい。あー、でも明日の英語あたるんだった。予習しなきゃ。
そんなことをつらつら考えて、ちょっと凹んだ。いやいや、こんなことでへこたれてちゃいかん。俺の目標は適当に勉強してそれなりの大学行って、ちゃんと職に就くことなんだ。こつこつこつこつ。ときどきちょっと休みたくもなるけど、そういう時こそ踏ん張り時だ、ってじーちゃんが言ってた。じっちゃんの名にかけて、俺は頑張るよー。




ぐっと腕を引かれて後ろに転びそうになった。なんとか2、3歩後ろに下がっただけで踏みとどまったけどあぶないあぶない。いったい誰だよ、と後ろを振り返ると、なんだか息も絶え絶えなオガタさんが居た。思わず抗議の声も引っ込むってもんだ。
「お、まえ、人が呼び止めてるんだから、無視するんじゃ、ない」
「え!? 気づいてなかった、っていうか、オガタさんだいじょーぶ?」
膝に両手をついて息を整えるオガタさんの肩に思わず手をかける。気づかなかったとはいえ、スーツ姿のいい大人を走らせてしまったことに妙な罪悪感を覚えてしまった。ていうか、運動不足だよオガタさん。
「そんな、息きらせて追いかけてくるほど俺に用なんてあったの?」
「う、るさい。だい、たい、連絡先も教えなかったお前が悪いんだろう」
あ、そーいえば電話番号も教えてなかったわ。でも俺携帯持ってないからあんま意味ないとは思うけどね。きっとオガタさんは俺が携帯持ってるとフツーに思ってるんだろう。オガタさんてそーいう文明のリキ? とか大好きそーだんもん。パソコンとか携帯とかさ。
「お前、これから暇か」
ようやく息の整ってきたオガタさんがいつもの調子で口を開いた。本人には悪いけど、その白いスーツはホストっぽいよ。いや、実際にこんな顔の良いホストなんて少数だと思うけどさ。でも白って。
まだ数度しかお目にかかってないその白いスーツに意識を持って行かれながら、オガタさんの言葉にうなずいた。帰ってもご飯食ってお風呂入って勉強して寝るだけだ。あ、結構忙しいかも。
そう思いなおしたときには誘拐よろしくオガタさんに腕をひかれていた。以前も思ったけど、ゴーインだよオガタさん。ゴーイングマイウェイ。寒。
そのまま腕をひかれて、さっき通り過ぎたばっかりのオガタさんのマンションの前まで連れてこられる。ここまで来たら、もうやることって一つじゃね?
「オガタさん、打つのはいいけど、俺明日の予習しないと」
「……ああ? ああ、そうか」
俺の学生服を見て学生だということを思い出したのか、オガタさんが渋い顔をした。っていうか、忘れるほうがどうかしてると思う。どう見たって高校生、未成年だろう。だいたい暇だからってこんな時間に高校生ひっぱてくのはどーかと思うな。こんな時間っても8時前だけどさ。でも普通さ、親が心配するじゃん? いや、俺は大丈夫だけどね?
そんなことをつらつらと考えている間にもちゃくちゃくと連れられて気がつけばエレベータのボタンがオレンジ色に光っていた。そう言えばオガタさんて結構上の階に住んでるけど、お金持ちなのかな。囲碁のプロってどーやって生計立ててんだろ。なんかいかにも儲かんなそうだけど。
音もなく止まったエレベーターのドアが開いて、オガタさんが一人でさっさと降りてしまう。さっきまで人の腕乱暴につかんで引っ張ってたくせに、ついて来いってか? オガタさんて何気に俺様だよね。似合ってるけどさ。
とりあえず無駄な抵抗をしても仕方ないし、するつもりもないので素直にその背中について行った。
部屋に上がるのは2度目だ。まさかこんなに早くまたここに来るとは思わなかったけど。オガタさんはさっさと中に上がってしまったけど、まだ2度目な俺はちょっと上がるのをためらった。いや、お行儀的にね? 玄関先で躊躇してたら、やっぱり俺様な感じで「サッサと上がれ」とオガタさんに言われた。うん、あんたに遠慮した俺がバカだった。
後ろをついてくるサイは戸惑いつつもこれから碁が打てることがうれしいのか、どこかそわそわしている。現金なやつ。
「オガタさん、俺先に勉強すませちゃっていい?」
あとお風呂と出来ればごはん。そいういうとオガタさんは眉をひそめた。ずうずうしかったですかそうですか。でも人の話きかずにいきなり引っ張ってきたのオガタさんだから、俺は文句を言われる筋合いはないと思うな!
ちょっとあきれた声で、座ってろ、と言われて台所に引っ込んだオガタさんを見送りながら、居間のテーブルの前に腰をおろした。たぶん、ソファに座るのが正しいんだろうけど、ソファに座ると机低いんだよね。
鞄から英語の教科書とノートをひっぱりだして机の上に広げる。さっさと終わらせちゃおう。どうせちんたらやってたらオガタさんにせかされそうだし。ホントは数学とかもやらなきゃなんだけど、今日は無理そうだなあ。サボってるわけじゃないからね、じーちゃん。オガタさんが悪いんだよ。
携帯用の薄い辞書をめくりながら明日の授業範囲を訳していく。こうなんて言うか、ほぼ毎日これをやってるとふと我に返った時になぜかむなしくなるんだよな、と少しずつ埋まっていくノートに目を滑らせた。なんで英語ってほぼ毎日授業があるんだか。たまには休みが欲しいです、先生。
30分くらい一人でそうしてると、目の前にマグカップが置かれた。コーヒーの匂い。
顔をあげると、下からだから中身は見えないけれど皿を片手にオガタさんが立っていた。
「とりあえず食え」
目の前に置かれたのはオムライスで、卵の黄色がきれいだった。30分足らずでこれが出てくるって、オガタさん手際よくないか。っていうかこの人こんだけ恵まれた顔持ってて彼女の一人でもいないんだろうか。もちろん口には出さずにそんなことを考えながら、広げていた教科書類を簡単にかたす。まだ湯気を立てているそれに受け取ったケチャップをかけて両手を合わせた。
「いただきまーす」
久々に自分以外の料理を食べれる。今日はいい日だ。
「んー、幸せ」
暖かく胃を満たしていくものを噛み締める。やっぱり食べ物は温かい方がいいね。それだけで幸せーって感じがするから。
「……うまいか」
「うん、さいこー。オガタさんは食わねーの?」
「外で食べてきた」
「ふーん? のわりに材料そろってんね」
「馬鹿、逆だ。ないからそれしか出来なかったんだ」
「じゅーぶんだよ。それにやっぱ自分の作ったご飯は味気ないしね」
それに卵料理って実は難しいって聞いたことあるし。やっぱりオガタさんは料理うまいなー。うまうま。毎回ご飯出てくんなら頻繁にここ来てもいいかも? なんて現金なことを考えた。

雅仁を風呂に追いやって流しを片し終えた緒方は、居間に戻ってテーブルの上に広げられた教科書に目をやった。高校に行かなかった自分にはあまりなじみ深いものではない。中学の頃はこんなに細かい文字ではなかったような気がする。その程度の記憶だ。
というか、あのいかにも適当そうな少年が真面目に予習なんてものをやることに驚きだ。それともあれが普通なのか。
どこにでもいそうな高校生なのにやたら碁が強かったり、食事の仕方が綺麗だったり、変なところで妙に素直だったり。変な奴だ、と緒方は無意識に口の端をあげた。
時計を見ると、もうすぐ9時。今更だが高校生を連絡なしに引き止めていていい時間ではないだろう。ただ、会話の端々からなんとなく複雑な家庭環境なのだろうことが読み取れる。今までの会話から、雅仁が一人暮らしで家に連絡を入れる必要がないことくらいは分かっていた。
「……まあ、他人の家庭環境に興味はないな」
自分にとって重要なのは碁が打てるか否かだ。プロである自分を簡単に負かしたあげく、その自分にネット碁をさせろというのだ。目の前に自分という碁打ちが居るのに関わらず、だ。面白いわけがない。
ただ、碁を打つ相手としては文句無しだ。今日も手合いで碁を打ったというのに、指先は無意識に碁石を探す。頭の中で碁盤の上に石を置く。碁石の冷たさや碁盤の目の凹凸、石を置く音。そのすべてを細かに思い出せる。そう以前付き合っていた女性に言ったら、重症だといわれた。オガタにとっては褒め言葉だが、あまり気持ちのいい反応ではなかったのでそれ以来他人には言っていない。碁打ちならきっと皆自分と似たようなものだろうが、他の人間から見れば少々異常にうつるらしい。
「……つまらないな」
嫌なことを思い出したとため息をついて、ソファに横になった。体が深く沈み込む感覚が心地よい。目をとじるとまぶた越しに電気の光が透けて見える。神経を刺激される色だ。息を吐くたびに体が重く沈むような錯覚を覚えた。

じーちゃんが風呂好きだったせいかは分からないけれど、うちの風呂は結構広い。古いけど。昔よくじーちゃんと一緒に風呂に入って、湯船につかってから100数える、をリアルにしつけられた俺はまあ必然的に長風呂なわけだ。
「……お疲れっすね」
っていうかさあ、無理矢理引っ張ってきといて寝ちゃうっていうのはどういう了見だ、とソファに横になっているオガタさんを見下ろした。まあ、疲れてんだろうけどさ。眼鏡つけっぱで邪魔じゃないのかな。
(待ち疲れちゃったんじゃないですか?)
「うっさい……そりゃまあ、ちょっと長湯しちゃったけど」
遠回しに雅仁が悪いんですよ、と言ってくるサイに知らんぷりをする。うん、俺悪くない。
「なんかかけた方がいいのかなー。でも、勝手に寝室に入るのもまずいよね」
なんせ、図々しく風呂までいただいちゃったけどまだここに来たの2回目な訳だし? とりあえず、眼鏡くらいははずしておこう。
静かに手を伸ばして眼鏡に手をかける。起こさないようにゆっくりはずそうとしたけど、途中少し引っかかった。
「お、眼鏡をはずすとますます美人さん」
サイとは方向性が違うけど、オガタさんも結構な美人さんだ。まあきっと本人はこの顔何とも思っちゃいないんだろうな。思ってたらもっと別の職業に就きそうなもんだし。
時計を見ると9時半。うーん、このまま帰ったら俺何しにきたんだか分からない上に、食い逃げって感じ?
「どう思う?」
(……起こさないとあとが恐いと思いますよ?)
「……お前、自分が碁打ちたいだけだろ」
(そんなことほんのちょっとしかありませんよ!)
「本音がだだ漏れだぞ……」
きっぱりと言い切ったサイに、雅仁は半眼になった。何というかサイを見ていると、人って年取ると欲望に忠実になるんだな、と思ってしまう。もしかしたら元々なのかもしれないが。
以前サイに生きていた時のことを聞いたら、不思議とよく覚えていない、と言った。忘れているつもりは全くないが、思い出そうとすると全く思い出せないのだそうだ。代わりに死んだ後のことはどれも鮮明に覚えているらしい。生きているときの記憶は唯一、すがわらのなんとかという奴と碁を打ったことのみ思い出せると言っていた。ああ、でもそれで入水自殺しちゃうくらいだから、やっぱり生前は繊細だったのだろうか。
触れないのをいいことにサイはオガタさんにイタズラをしている。正確にはイタズラをしている気になっている、か。オガタさんにもきっと分かんないだろーけど、サイには質量がある、と思う。のしかかられると重いし、触れられると少し冷たい。空気の重さで、サイの存在を感じる。祖父はあまり表立っては言わなかったけれど、視える人だった。母と妹は見えないけれど、感じる人だった。そんな中で自分は父に似て霊感なんて皆無で、うちに何がいようが気にならなかったし、今でもそうだ。
サイに初めて会った時も思ったけれど、なんで「サイだけ」視えたんだろう。
手に持っていたオガタさんの眼鏡を何気なくかけてみると、結構度が強いようで、くらりとめまいがした。もともと視力はいい方だから逆にぼやける視界に、他の人には世界はこんな風に見えてんのかな、とちょっとだけ思った。
「サイ、あんまイタズラすんなよー。俺とりあえず英語の予習終わらせるから、それまで寝かせとこ」
(ええ~)
早く打ちたい、と抗議の声を上げるサイを無視して、やりかけの教科書を開いた。こういうのを開くとついつい条件反射であくびが出るけど、俺まで寝ちゃうとミイラ取りがミイラになる、って使い方合ってるよね。
とりあえず目標は10時だな、と時計を眺めてアルファベットの羅列に目を戻した。


腹に重みを感じて意識が浮上した。この重みを知っている。ただ、いつもより軽いな、と感じた。そう言ったら相手は喜ぶだろうか、怒るだろうか。そこまで考えて「オガタさん、起きて」とかけられる声が、自分の記憶するどの女性の声でもない男のものであることに気づいて、一瞬で目が覚めた。反射的に上半身を起こすと額に衝撃。思わず手のひらを当ててその痛みにうめいた。頭上から自分と同じようにうめき声が聞こえて、目を開けると口に手を当てている雅仁と目が合う。
「あ……あご打った」
脳にひびいた、と抗議の声を上げる雅仁に、オガタはとりあえず退け、とその薄い胸板を片手で押した。男に馬乗りになられてもかけらも嬉しくない。