過去を垣間みた火曜日
9th day-Tuesday
「俺の家ぇ? や、それは別にいーけどさ……分かったよ。場所分かるよな? わざわざ迎えに行くのやだよ、俺」
ツー、と音を立てて通話が切れた。今時珍しい黒電話で、電話がかかってくるとものすごくうるさい。でも個人的にダイヤルまわすのが楽しいから気に入ってたりもする。壊れる気配もないからきっとずっとこのままなのだろう。
まあそんなことはどうでも良くて、結局惰性で今日も学校を休んだせいでまだ昼だというのに俺超暇。暇だなーって思ってたらタイミング良くワヤから電話がきた。で、結局俺の家で遊ぶことになったわけだけど、うちは近所でも有名な幽霊屋敷だと言いそびれちゃったわけで。ま、いいか。俺は今まで見たことないし。
インターホンの音が響く。純日本家屋の雅仁の家はどこにいてもだいたいこの音が届く。
「はいはい、と」
別に鍵もかけていなかった玄関を引く。ワヤの後ろに知った顔と知らない顔があった。
「あー……ま、とりあえず上がってよ」
「おう」
遠慮なく上がりこむワヤとは対照的に、イスミさんとあともう一人はおじゃまします、と遠慮がちに靴を脱いだ。
(ヒカル!?)
(サイ、知り合い?)
(以前話した、雅仁の前に一緒にいた子ですよ!)
少し興奮した佐為の声に、ああ、そう言えばそんな話も聞いたかも知んない、と雅仁はその幼さの残る顔をちらりと見た。あっちは別に驚いてる様子はないから、きっとサイのことは見えてないんだろう。
「てきとーに座って。座布団その辺の使っていいから」
とりあえず3人を居間に通して、まあ飲み物くらいは出すか、と台所に引っ込む。男ばっかだし、そんなに気を使うこともないだろ、と麦茶と人数分のコップだけ持って居間に戻った。
「ほい。麦茶しかねーよ」
「いきなり押し掛けて家の人に迷惑じゃなかった?」
申し訳なさそうに聞いてくるイスミさんにへらっと笑って「へーき、俺一人だし」と返事をする。むしろこの家は「出る」から気をつけてっていつ言おう、と雅仁は微妙な笑みを浮かべた。
「ワヤ、一人だけくつろいでないで、そっちの子紹介してよ」
「ん? ああ、わり。こいつ進藤ヒカル。で、進藤、こいつが河野雅仁」
和谷の全然紹介になってない紹介に、お互いに頭を下げる。ヒカルは、なんかお見合いみたいだとどうでもいいことを考えた。
「河野、学校は? サボり?」
「風邪で休んだんだよ。まあ、午前中で熱も引いちゃったけどさ」
「……なあ、この家って子供でもいんの?」
ぽつりと呟いたヒカルに全員の視線が集まった。和谷がさっき誰もいないって言わなかったかと河野に尋ねる。河野は少し驚いたように自分を見ていて、それにちょっと身構えた。
「ヒカルって、あ、ヒカルって呼んでいい?」
初対面でいきなり名前を呼ばれてびっくりしたけど、別にそれは構わないのであわててうなずいた。
なんか、見た目通り人懐っこい奴だな。あ、でも付き合いの長いっぽい和谷のことは名字で呼んでるし、伊角さんのことも名字で呼んでるのに、どうしていきなり俺だけ名前で呼ばれたんだろう。
「霊感強いほう?」
「や、別に普通……じゃないかな」
たぶん。今まで佐為以外そういうの見たことないし。あいまいに答えると、少し唸ってから河野が口を開いた。
「実は、うちって出るらしいんだよね」
「は? 出るって、何が?」
和谷の間の抜けた声に幽霊、と河野が何でもないことのように返した。先ほど廊下の方でした子供の足音を思い出して背筋が寒くなる。冗談だろ? とヒカルは後ろを振り返った。
「や、でも俺は見たことないよ? 母親と妹は、まあ、嫌がってこの家にあんまり近づかないけど」
「……昼間でも出るもんなの?」
「さあ? 俺はそういうの全然感じないから知らね」
そんな投げやりな、とヒカルは口をぱくぱくさせた。そんなヒカルに河野が「大丈夫、害はないから。……多分」とあまり慰めにならない言葉をかけた。和谷と伊角さんに先ほどの子供の足音が聞こえなかったのかと言っても首を横に振るだけ。もう一度廊下を振り返ったけれど何の変哲もない廊下があるだけだ。気のせい気のせい、先ほど聞こえた足音はきっと家鳴りだ、なんかそれなりに年季の入った家っぽいし、とヒカルは自分に言い聞かせた。
「河野、碁盤ってねーの?」
「えー、どうかなあ……俺は見たことないけど」
じいちゃんに聞いてくる、と立ち上がった河野はふすまを開けてとなりの部屋に入っていく。誰もいないって言ったのに、さっきから矛盾ばかりだ。ちらりと見えたふすまの向こうには、仏壇らしきものが見えた。
「……俺もうこの家やだ」
結果からいえば、碁盤はあった。しかも複数。こんなにあるのに今まで気付かなかったのかよ? とあきれる和谷に、河野は首をかしげるばかりで、全然知らなかったととぼけたことをいった。碁盤の中にはかなり古いものもなる。でもどれもちゃんと手入れがされていて、ほこりなどは積もっていなかった。比較的新しそうなのを選んで居間に運び込む。
「あんなに堂々と碁盤置いてあって気付かないなんてありえないだろ」
碁盤の置いてあった物置きは整然としていて、物置というほどものが多いわけではない。碁盤と碁石、あとは本と和タンス、それくらいだ。気付かないほうがどうかしている。
向かい合った河野が4子置きながら、だって俺あの部屋入ったことねーもん、と当たり前のように言いきった。
「……マジで?」
「うん。あの部屋戸の立つけが悪くてさ、あんま開かないんだよね。じいちゃん曰く、開けていい時しか開かないから、普段は無理に開けちゃダメなんだって」
ちなみに、母親と妹は近寄るもの嫌だって言ってたうちの幽霊スポット、と言葉が続く。それにヒカルは一瞬気が遠くなった。そう言うことは早く言ってくれ、と。
「じゃー、よろしくお願いします」
そんなヒカルにはおかまい無しに、ぺこりと頭を下げた河野につられて頭を下げる。幽霊なんていない、と自分を叱咤して一手目を打った。ぱちり、とヒカルの置いた石が音を立てる。それに対して、河野はあまり慣れない仕草で碁盤の上に石を置いた。ときどき盤上で手が行ったり来たりしていて、初めて碁を打ったときのことを思いだした。
あまり長考はしないタチなのか、ときどき指先がふらつく以外は順調に手が進んだ。順調と入っても盤面は割とはちゃめちゃだ。和谷が言うには先週くらいから碁を始めたらしいから、当然と言えば当然だろう。
でも、それでも、初心者というわりに妙にしっかりした手を打つ奴だと思った。確かに下手だけど、右も左も分からない初心者が打っているような「下手」ではない。下手に見せようとしてわざと手を抜いているような印象を受けた。
最初は気づかなかったけれど、2局目に突入する頃にはさすがのヒカルもその違和感の正体に気づいていた。
交互に打っている。
相手は一人なのにおかしな言い方だが、それが一番しっくりくる言い方だと思った。うまい人間と下手な人間が交互に打っている。まさにそんな感じなのだ。
いきなり意図の読めない手を打ったかと思えば、はっとするような手を打つ。別に、素人でもそう言う手を打つことはあるだろう。ただその回数が多いからおかしいのだ。意図的に決まってる。自分の打ち込みにも涼しい表情を崩さない相手を半眼でにらんだ。
「おまえ、わざと手抜いてるだろ?」
ヒカルの不機嫌な声に雅仁が頬杖をついたまま視線だけをあげる。その瞳から彼の感情は読み取れなかった。
「うーん、割と俺的には本気だけど?」
始めてからまだ一週間くらいしか触ってないんだから、下手なのは勘弁してよ、と笑った雅仁に言葉を詰まらせる。下手じゃないから言ってるんだ!、と
「お前、一手ごとに変な手打ってるだろ」
気づいてないと思ってんの? と口を尖らせたヒカルに、いささか驚いたように河野が目を見開いた。図星じゃん、とその表情に憮然とする。
「次、ヒカルの番だよ」
すぐに平常心を取り戻した河野が含みのある笑みを浮かべて先を促した。勝手に話を終わらせた河野にむっとしながらも石を置く。すぐにぱちり、と河野が打ち返してきた。さっきまでと音が違う。あまり長考はせずに石を置くと、やはりすぐに河野が打ち返してきた。さっきまでの大人しい碁ではなくて攻撃的な印象を受けた。
一手また一手と打つたびに押されていくのを感じる。さきほどまでのらりくらりとした印象はない。数手打っただけで、中押しで負ける、と直感的に思った。技術的な問題だけじゃない。この張りつめた糸のような空気を知っている。碁の勝ち負けを決するのは技術だけではない。例えば塔矢のような勝負強さ、塔矢先生のような他を圧倒する気迫。そう言うものが時に技術を凌駕する。
かつて、この空気に圧倒され、そして憧れた。どんなに追いかけても届かないような高みに彼が居た。
佐為だ。
無意識に否定していたその考えを認めた瞬間、佐為のことで頭がいっぱいになって、ヒカルは手を止めた。
盤面に佐為が居る。
ずっと一緒に居たのだ。それを見間違うはずもない。のろのろと顔を上げると、ひどく穏やかな顔で微笑む河野が居た。今日で初対面だけれど、違う人間に見えた。同年代とは思えない笑い方で、まるで佐為のようだった。
「ヒカル、一緒に碁を打てて楽しかったよ」
あなたと一緒に碁を打てて本当に楽しかった、そう聞こえたような気がした。
呆然として言葉を失っていると、ちょっと前のような年相応の顔に戻った河野が何事ものなかったかのようにヒカルの番だよ、と先ほどと同じ言葉を言った。もう先ほどの懐かしい空気はなく、そこから先は一局目と同じで、うまいのか下手なのか分からない打ち方に戻っていた。
きっと、今そこに佐為が居た。なんとなく最後の言葉を伝えにきてくれたのだという気がして、不思議なほどすんなりとその言葉を受け入れられた。
「……俺も、楽しかった」
この声が届くかは分からない。届けばいいと思う。小さくつぶやいたヒカルの言葉が聞き取れなかったのか、河野が何か言った? と首を傾げていた。それに首を横に振る。
「なあ、またここ来てもいい?」
「んー? 俺は別に構わねーよ」
盤上で石をどこに置こうかと手をふらふらさせながら河野が答える。
幽霊屋敷だとかは、もうどうでも良くなっていた。
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ヒカルたちを見送りながら、雅仁が問う。それに、佐為は一つ頷いた。楽しかった、最後に伝えたくても届かなかった言葉。少し遅くなったけれども確かにヒカルに届いたと思う。そして、自分と過ごした日々をヒカルも楽しかったと、そう言ってくれた。きっとあれは自分に向けた言葉だと佐為は確信していた。
「ま、サイが満足ならそれでいーけどさ」
夕飯何にしよっかなー、といつもと変わらぬ様子で家の中へと戻っていく雅仁の後ろ姿に、佐為はひっそりと頭を下げた。