風邪を引いた月曜日

8th day-Monday

昨日は何ともなかったから油断した。
一日遅れで風邪を引くなんて、自分はもう年なのかもしれない。
ほら、1日遅れの筋肉痛みたいな。


ふらふらしながらもとりあえず顔を洗おうと洗面所に向かう。
冷たい水で顔を洗ったが、意識がはっきりするなんていうことはなかった。
ていうか、今日学校どうしよう。
いっそのこと休んじゃう?  休んじゃう? 
誘惑に負けそうになりながらも、俺の皆勤賞が、と別に目指していた訳でもないものを惜しんでみる。
よし、一応抵抗したことだし、今日は休もう。
学校に連絡する前に一応体温でもはかっておくか、と滅多に使うことのない体温計を押し入れの奥から引っ張りだした。
今時珍しい、水銀の入っているやつだ。
ぶんぶんと激しく降ってメモリを下げる。相変わらずなかなか下がらず、もうこの動作だけで体温が上がったんじゃないかと疑わずにはいられない。
脇にはさんで、時間を確かめる。たしか3分ははからなければいけなかったはずだ。
3分って言うのは、カップラーメンの待ち時間で嫌というほど分かっているが、意外と長い。
そういえばまだ今日はじいちゃんにおはようって言ってない。
3分じっとしてるのもなんだし、と仏間のふすまを引いた。
線香を一本つけ、両手をあわせて朝の挨拶兼近況報告。
頭がもうろうとしているせいもあって、つらつらとどうでもいいことを話す。まあ、もうろうとしていなくてもだらだら話すのだが。
「えーと、今日は風邪引いたっぽいから学校を休むけど、ズルじゃないから。あ、あとなんかなくしたと思ってた鍵は制服の内ポケットから出てきました。いつ入れたんだろ? じいちゃん入れた? 
そういえば氷嚢見つからないです。直した場所覚えてたらこっそり教えて」
むんむんと念を送ったあと、そろそろ3分かな、と体温計をはずす。角度を変えて反射させながら、目盛りを読んだ。
「38度……7分?」
意外と高い。呑気に動き回ってる場合じゃなかったかも知んない。
とりあえず、薬を飲んでちゃっちゃと寝てしまおう。
そう決めて雅仁は押し入れから布団を引っ張りだした。うまく力が入らず、本当に「引っ張りだす」結果になったが。
(2階のベッドに寝ないんですか? )
「んあー、2階で寝るといろいろ面倒だからさ。水道もトイレも1階だし」
それに、仏間の方が落ち着く。畳と線香のにおいってなんか好きなんだよなー。
窓を開けると、あじさいの咲く庭。じいちゃんの好きな花だ。
入ってくる風が気持ちよくて、網戸も閉めずにそのまま横になった。
「朝のにおいがする……」
暗い仏間とは対照的に、朝日に照らされた縁側には近所の野良猫がすぐに我が物顔で乗り込んできて、丸くなっている。図々しいやつだ。
でもかわいいから許す。
(雅仁、不用心ですよ)
困ったように眉間にしわを寄せたサイが、揺するように手を動かす。それにいいのいいのと軽く返事をした。
「いざとなったらサイもいるし……なんか変なの入って来たらそのときはそのときっしょ」
(もう!)
なげやりな雅仁にサイは声を上げたが、全く気にしていないというように雅仁が寝返りを打つ。
自身ではどうすることもできないサイは、おとなしくその傍らに腰を下ろした。
柔らかな風が、室内へと時折流れ込んでくる。もうそれを肌で感じることは出来ないけれど、それに流される線香の煙がを見ていると、まるで肉体があるかのようにその感触を想像出来た。
自分背を向けるようにして眠る雅仁は額にうっすらと汗をかいている。それを拭おうと無意識に手を伸ばした。
「……サイの手は、冷たそーだよな。氷嚢ないし、もうしばらくそうしててよ」
目をつむったままの雅仁にそういわれて、サイは一瞬固まった。
感触などない。
どんなに願っても、2度とこの手にあのひんやりとした碁石の感触を味わうことは出来ない。
そして、誰に触れることも出来ない。本当は、碁がうてないことよりも、意識がありながら肉体がないことが一番つらかった。
もう触れることは出来ないけれど、感じることは出来るのだろうか。
雅仁の少し固そうな髪を撫でるように、手を動かす。
もっと、ヒカルともいろんな話をすれば良かった、と今更ながらに思った。
(……日曜は、ありがとうございます)
サイの言葉に、雅仁が目を開く。熱で潤んだ瞳が、サイを見上げた。
(私のために……碁がうてるようにしてくれて)
「ああ、そのことか……別に、気にしなくていーよ。些細なミステイクで碁会所ではお前うてないし、お礼言うなら俺じゃなくてオガタさんでしょ」
碁会所の方がじーちゃんたくさんいて俺的には嬉しいけどね、と力なく笑う雅仁に、苦笑が漏れる。
あまり詳しくは話してくれないが、祖父との二人暮らしが長いらしい雅仁は年寄りによくなつく。そういえばヒカルもなんだかんだと年配の人間と仲が良かったなと思い起こした。
「そーいえばさ、オガタさんってどうなの? 強いわけ?」
「ああ……もちろん、彼はうまいですよ」
負けたことは一度もないけれど。やはりプロだけあってうまい。緒方とうつのはサイにとってはなかなか楽しい。
もちろん、碁は誰とうっても楽しいのだけど。
塔谷行洋。彼とうつのは楽しいというよりも一種の達成感があった。
「満足?」
言葉少なに聞いて来た雅仁に、サイは笑顔で頷いた。
雅仁と出会って1週間。その間に雅仁は自分が碁を打てる環境を整えてくれた。これ以上望むことなどない。
サイの笑顔に、雅仁も小さく笑みを返して、寝返りを打った。
縁側だけでは飽き足らず家の中まで我が物顔で上がり込んで来た野良猫が、枕元へと腰を下ろす。
サイが追い払うように手を動かすと、その長い袖にじゃれるように猫が時折腕を動かした。
一年中軒先に下げられている風鈴がちりんと小さく音を立てて風の存在を知らせる。
小さな寝息がその風に流されていった。


「あっ!」
学校に連絡を入れ忘れていたことに気づいたのは、日もとっぷり暮れた頃だった。