恩をあだで返した日曜日

7th day-Sunday

すごく厚い碁盤の前に座りこんで、そのなめらかな表面に指を走らせた。
そういえば、碁盤の目は真剣で刻むとか聞いたことがある。
いかにも高そうだから、これはそうなのかもしれない。
まさか、全部の碁盤が全部真剣で目を入れているわけではないだろう、多分。
碁石はハマグリのやつが高いとか聞いたような気がするけど、見た目でもさわり心地でもそんなの素人の俺に分かる分けない。
ひやりとした石の感触。
それをそっと碁盤の上に置いた。




今日は特に手合いも入っていない、普通の休日だ。
いささか遅めに起きてきた緒方はリビングの床に座り込む背中を見つけて、ようやく目が覚めた。
そうえいば、昨夜何か厄介なものを拾った気がする、と。
足音で気がついたのか、少年が顔だけで振り返った。
「……おはようございます」
「ああ」
とりあえずコーヒーでも飲んで落ち着こうと、そうそうにキッチンに引っ込んだ。
コーヒーメーカのスイッチを入れ、冷蔵庫に軽く体を預ける。
細かな振動が背中に伝わった。
換気扇をつけ、タバコに火をつけて今日やらねばならないことを考える。
とりあえず、あの少年を何とかしなくては。
そういえば、名前を思い出せない。まぁ、別にいいかと煙をため息とともに吐き出した。
まず、少年を追い出すのに必要な事項。
服を何とかしなくてはいけない。彼の着ていた学生服は、高々一晩で乾くほど可愛いぬれ方ではなかったし、元来制服は乾きにくいものと決まっている。
次に、鍵屋を呼ぶこと。
最低限この2つが出来ていれば何とかなるだろう。
鍵屋を呼ぶのは簡単だ。
ネットでもタウンページでも、近くの鍵屋を見つけて電話をすればいい。
問題は、服だな。
「とりあえず……朝飯でも作るか」
まさか出さないわけにもいかないだろう。相手は育ち盛りの高校生だ。
コーヒーの香りでそのことに思い至った緒方は、仕方なく冷蔵庫の中をのぞいた。


「緒方さんて、リョーリ上手だね」
食卓に並ぶいかにも洋風な食事を前に、少年は言った。
別にたいしたものではなく、トーストとスクランブルエッグ、サラダ程度のものだ。
たしかにそんじょそこらの女性よりは得意なつもりだが、この程度で料理が上手だといわれても素直には喜べない。
いただきます、と両手を合わせて食事に取り掛かった少年は、予想に反してひどく綺麗な食べ方をした。
何が綺麗かと問われると困るのだが、確かに綺麗なのだ。
きっと、箸を使わせたらうまいのだろうと思わせる。
その手元をつい凝視していたら、少年は困ったように曖昧に笑った。

「……そういえば、さっき碁盤の前に座っていたようだが、君は碁を打つのか」
言ってから馬鹿な質問をしたと思った。
初めて会ったのは、棋院。アキラ相手に碁を打っていた。
思いのほか、自分の脳はまだ眠っているのかもしれない。
そう思ったが、すぐに返ってくると思った返事は歯切れの悪いものだった。
「いえ……いや、そうですね。打ちます」
「どっちだ」
はっきりしないのは嫌いだ。曖昧な笑みも、曖昧な答えも、緒方は好きではない。
「打ちます。……いっとくけど、俺は強いよ」
今度は、先ほどとは打って変わって不敵な笑みを浮かべ、少年ははっきりとそう言い放った。
突然の変わりように瞠目する。
「ずいぶんと、大きく出たな。これでもプロなんだがね」
「じゃあ、勝負してみます?」
引き下がるどころか挑発するように見据えてくる少年に、緒方は視線を逸らすことなく返した。
棋院で会ったときとだいぶ態度が違うが、あれは猫をかぶっていたということか。
「ずいぶん、自信があるようだな」
「まあね。何ならかけてもいいよ?」
ここまで言われて引き下がる緒方ではない。
わずかに残っていたコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「こい」
緒方の短い呼び声に、少年は先ほどの不敵な態度はどこへいったのか、戸惑ったように視線をよこす。
緒方とテーブルの上を行き来する視線で、彼が食器を片さなくてよいのか迷っているのが窺える。
変なところで律儀らしい。
「片付けは後でいい」
「……」
いまいち納得のいかない顔だったが、家主の言うことにいちいち反論するのも詮無いと思ったのだろう。
ようやく立ち上がった少年に、緒方はリビングへと足を向けた。
もうだいぶ日も高くなって、薄いカーテン越しに光が差し込む。
昨日の雨の反動か、外は嫌というほど晴れていた。
窓を開ける気にはなれず、エアコンをつける。
きっと今日は嫌というほど蒸し暑いに違いない。
ソファからクッションを二つ引っ張ってきて片方を少年に放る。
自分に習って少年も碁盤の前に腰を下ろしたところで、緒方はようやく眼鏡をかけた。
「にぎれ」
「……その前に、何を賭けるか決めとこーよ」
「無駄だと思うがな。一応聞いといてやろう。なにがいい」
どんな要求を出されようと、自分が負けることはありえない。
たとえ彼が碁の心得が多少あろうとも、普通の高校生。
プロでもなければ院生でもない。
「オガタさんパソコン持ってる?」
「ああ」
「じゃあ、俺が勝ったらあんたが暇なときにでもここでネット碁させてよ」
予想外の要求に、緒方は顔をしかめた。なかなかに面倒くさい要求だ。絶対に呑みたくない。
まあ、その心配は要らないわけだが。
「オガタさんは何がいい?」
「別に、必要ない。俺が負けることはありえないが、とくにお前にしてほしいこともない」
「えー……ああ、でもいいか。だって、俺は負けねーから」
オガタさんの要求聞いても無意味だね、とにっこり笑った少年に、おもわず「クソガキ」と言葉にしてしまいそうだった。
絶対に、さんざん負かしてその言葉後悔させてやる、と大人げもなく碁石を握りしめた。


頼むから勝ちすぎないでくれよ、と雅仁はおそらく興奮してまったく聞いていないだろう背後霊に釘を刺した。