善を急がされた火曜日

2nd day-Tuesday

中卒でも手に職持ってんだから、それはそれでご立派なことだと思うわけよ。




日本棋院、なんてもんかあることをこの年になってはじめて知った。
でも、俺みたいな一般家庭のガキが何のきっかけもなく碁に興味を持ってたらそれはそれで怖い。
ワヤはどうして碁に興味を持ったんだろう? 
小学校からの腐れ縁だが、そういえば聞いたことがなかった。
待ち合わせまでにはまだ時間がある。
俺にしては早く来てしまったわけだが、原因は最近俺に憑いてる犬ころのせいだ。
たまに、って念押ししたのに。
憑かれた次の日にはこうして碁盤を前に碁石を握る俺がいる。
なんか釈然としない。
(つまり、陣取り合戦なわけ? )
(まあ、そうですね)
しかもなぜルールまで教えられてるんだ。
俺は言われたとおり碁石を置けばいいんじゃなかったのか…。
(せっかくやるなら、雅仁にも楽しんで欲しいんですよ)
(楽しむねえ…)
しかし、碁盤ってのは意外と広いもんだ。
将棋やオセロとは比べ物にならない。広すぎてむしろ、どうすればいいのかさっぱりだ。
平日だからなのか、周りに人はまばらだ。
ここは自由に碁を打っていいらしいけど、相手がいないんじゃ仕方ない。
…って言ってるのに何で佐為は俺の向かいに座るのか。
仕方なく碁石を置く。もちろんでたらめだ。
佐為はうれしそうに扇子を動かしているが、こんなど素人とやって楽しいんだろうか。
何がどうなってんのか、俺にはさっぱりだ。
「君、一人? もし良かったら、一緒に打たせてもらえないかな?」
「………人待ってるから、それまででよければ」
佐為も俺とやるより少しでも打てるやつのほうがいいだろう。
男にしては珍しいおかっぱ頭。それが違和感ないんだから、すごいもんだ。
(…塔矢アキラ)
(何、知り合い? )
(知り合いというか…以前手合わせをしたことがあります。彼はうまいですよ)
(へえ…良かったじゃん)
佐為は話を聞いている感じだと相当うまいっぽいから、このトウヤとかいうやつもいいセンいくんだろう。
まあ、俺にはうまいも下手も分からんけど。
「俺、河野雅仁。よろしく」
「塔矢アキラだ。こちらこそよろしく」
差し出した右手を、トウヤはしっかりと握り返してくれた。


父の用事で棋院に顔を出していた。
ちょうど緒方さんも来ていたみたいで、僕のことをほっぽって二人で1局やり始めてしまった。
別に珍しくもないけど、僕は暇だ。
見ていてもいいけど、なんとなく棋院の中をブラブラしていた。
そして二階の一般対局場に彼を見つけた。
退屈そうに一人で碁石を並べているからつい声をかけてしまったわけだが。
その、明らかに初心者と分かる碁石の持ち方がなんだか懐かしい。
そして、人差し指と親指で碁石を持つのに、妙に洗練された手を打つのも。
まさか。
僕のどんな打ち込みにも動じた様子はない。
sai…その名前が脳裏に浮かぶ。
まさか彼がsaiだとでも言うのだろうか? こんな、自分と年も変わらぬような少年が。
初めて会ったころの進藤のようだ。
いったいなんだって言うんだ。
初めて会ったころのほうが、進藤は強かった。彼もそうなのか? だとしたらなぜ。
ぐるぐると回りだす思考に手がとまる。
「…トウヤ?」
「え…ああ、すまない。知り合いと打ち方が似ていたものだから…」
そういうと、少年は少し意外そうに口を開いた。
「そういうのって分かるもんなん?」
「それは…分かるだろう。その人の癖、とか…雰囲気って言うか」
ふーん、とさも他人事のように河野は相槌を打った。
彼は、分からないというのだろうか。こんなにうまいのに。
「俺ぇ? 俺はそんなん…分かんないよ。碁盤ってさ、結構広いからどこにでも置けるだろ? 漠然としすぎてて分かんないっつーか…そもそもうまい下手もそんなに分かんないし」
うまい下手も分からない? 
これでは、まるで初心者だ。…やはり、似ている。
「河野は…進藤と何か関係が」
「何やってんのお前ら」
狙ったかのように第三者によって言葉をさえぎられた。
和谷だ。
「わり、遅くなった」
「別に…そんなでもないだろ。トウヤが相手してくれてたし」
「何、お前ら知り合い?」
河野の待ち人は和谷だったのか。お互い、予想もしていなかった相手に思わず顔を見合わせる。
「待ち合わせって、和谷とだったのか」
「そ、何二人とも知り合い?」
河野がばらばらと碁石を集めがなら言った。
何もそうすぐ崩さなくても…とちょっと名残惜しい気分だ。
「ああ、そっか。河野はしらねーよな。こいつもプロだよ」
「えー…プロって碁の?」
「他に何があるんだよ」
「や、だってさあ…みんな若いのにえらいねえ、俺いきなり年取った気分だよ」
もっとおじいさんばっかかと思ってた、と河野は机の上に伏せた。

「アキラ、ここにいたのか」
後ろからかけられた父の声に振り返った。緒方さんも一緒だ。
どうやら彼らも1局打ち終わったらしい。
「友達かね」
「そっちの彼は見かけない顔だな」
緒方さんの言うそっちの彼、とは河野のことだろう。
「ちょ…トウヤ、トウヤ!」
後ろに前にと忙しい。
背を向けていた河野に服を引っ張られた。なぜか小声で話しかけてくるので顔を寄せる。
河野は内緒話をするように口元に手を添えた。
「着物の人、トウヤのお父さん?」
「そうだけど…」
それだけ聞くと、河野は立ち上がってにっこりと微笑んだ。
「はじめまして、河野雅仁です。アキラ君とは先ほど知り合って、碁の相手をしてもらってたんですよ」
先ほどまでとは打って変わって、言葉遣いも丁寧だし、口調も違う。
まさに豹変という感じだ。
目上の人間に対していつもこんな感じなのかと、和谷のほうを見ると、彼も驚いているようだった。
つまり、いつもはこうではないということで…。
何が彼をそうさせたのかまったく不明だ。
「塔矢行洋です。息子が世話になったようだ」
「いえ、そんな…僕初心者なのに丁寧に相手してもらって…」
僕!? 
思わず和谷と顔を見合わせる。
はにかんだような笑みに、なぜか鳥肌が立った。
一見すればいまどき礼儀正しい好青年に見えるが…あまりの豹変っぷりに言葉が出ない。
そんなことなど知らない父は、河野に好印象を持ったようで、なんだか機嫌がよさそうだった。