夏の終わり、移ろうもの
side-a
「……ええ!?」
その日朝一番に見た光景に、唯は思わず声を上げた。
唯が声を挙げる直接の原因となったアルファードは、どうした、といつもと変わらぬ態度で唯を抱き上げた。
いつもならするりと躱す所なのだが、あまりの驚きに茫然自失の体で唯はその手に甘んじる。
より近くなったアルファードの顔、正確には頭を注視して、唯は先ほどと同じ悲鳴を上げた。
「髪がない!」
いや、髪はあるのだが、と動揺しまくる唯に内心で突っ込みを入れつつも、その滅多に見れない姿に眼を細めた。
そのアルファードの髪は今、昨日までの長髪が嘘の様に短くなっている。
「邪魔だったからな」
「……」
なんと勿体ない、と唯はもともとは長かったアルファードの髪に手を伸ばした。
ひんやりとした感触は変わらないままなのに、滑らせた指からはするりと逃げていく。
その少し物足りない感覚に、唯はもったいない、と再度指を滑らせた。
髪が長い時よりもすこし若く見える。額を隠す前髪をそっとかきあげた。
自分のせいだろうか。
そんな考えが脳裏をよぎる。自分の髪が短くなった事と、彼が突然髪を切った事に関連性がないとは思えなかった。
「変か?」
「……いえ、短いのも似合ってます」
嘘ではなかった。ただ、今までよりも男性らしく感じる。中性的な印象から少し男性よりに針が振れたような印象。
なんだか今さらながらに恥ずかしくなってきて顔を伏せた。そんな唯の様子に、アルファードは少し困った様に微笑むだけだった。
それにしても、昨日の夜まではいつも通りだったのに、いつの間に切ったのか。この髪型だと、自分で切るのは流石に難しいと思うのだが。
ちなみに唯は、キングに揃えてもらった。ホグワーツにいる間は、美容室なんてもちろんないのである。
「アルファードさん、これ、いつ切ったんですか?」
「ん? ああ……さっきだよ。シリルに切ってもらった」
「え」
盲点だった。というか、そんなことまでできたのかしもべ妖精。
もう一度まじまじとアルファードの髪を観察する。美容室で切ったものだとばかり思っていた。
「……私も今度からシリルに切ってもらおうかしら……」
「唯……女の子がそれは流石にやめておきなさい。私は男だし、人に会う機会も最近は少ないから。女の子は流行とか色々あるだろう?」
「いえ、でも染めたりパーマかけたりするわけでもないですし……」
今は短くなってしまったが、基本的には長くしているのだ。長さを揃えて量を調節するくらいしかやることはない。前髪さえ失敗しなければどうとでもなるのだ。
ショートならまだ話も違ってくるだろうが、短い今ですらボブ程度。どこで切ってもたいして変わらないだろうと唯は思っている。
そういえば、帰ってきてからも散髪には行ってないので、すこしすきたい。欲を言えば癖が出てきているので、本当は強制縮毛でもかけたいところだが、この世界にその技術があるかどうか。
ハーマイオニーが作中で髪をまっすぐにする薬、みたいなのを使っていた記憶があるから、なさそうだなとは思っている。
どちらにしても、金額のかかるものなので却下だが。
「唯、出かけようか」
「……いいんですか?」
「ああ。マグル界に服でも買いにいこうかと思って」
「……アルファードさんのですか?」
「いや?」
短い否定の言葉の裏に潜む言葉に気づかない訳もない。
唯はあわてて首を横に振った。
「じゅ、充分足りてます!」
「ホグワーツにいる時は、もう少し動きやすい服の方が良いだろう?」
見透かしたようなアルファードの言葉に一瞬口ごもる。たしかに、ホグワーツではスカートやワンピースはあまり着ていない。
その理由の一つに、あの城の作りがあげられる。
階段の部分が吹き抜けになっているのだ。油断すれば下から見えてしまいそうで、どうにもスカートを履く気になれない。
でも、だからといってわざわざ買ってもらうほどでもない。
「あの、でも本当に」
「大丈夫だ、ちゃんとアイリーンも呼んである。ついでに、美容室も行こうか」
美容室は嬉しいが、ちょっと待ってほしい。いったいどのへんが大丈夫だというのか。
既に外堀を埋められている状況では、唯は首を縦に振るしかなかった。
「あ、あの、あんまり短いのは……」
「なに言ってるの、若いのに」
試着室にショートパンツと唯を放り込んだアイリーンの顔は、それはそれは良い笑顔だった。
大きな鏡に手をついてうなだれる。
若いと言っても、もうとっくに二十歳を過ぎているわけだが。日本人が若く見えると言っても限度があるだろうに。
「というか、普通のジーパンとかで良いんだけど……」
鏡に映る姿は、やはり大人の自分。少なくとも学生には見えない。ここにくる前に美容室に寄ったので、なんだか少し幼い感じになってしまったのは否めないが。
これに関しては自分のせいではないと声を大にしたい。適当に、そろえてすいてください、と言った唯にダメ出しをしたアイリーンがしっかり注文をつけていったので、美容師さんはその通りに切ってくれたのだ。大変腕のいい美容師で、アイリーンの言った通りになった。どうやら彼女の行きつけのところらしい。ずいぶんと気安いやりとりをしていた。
まあ、綺麗に仕上げてくれたので、それに対して文句などはない。予想外の結果になったとはいえ、髪を切るとなんだか気分がいいものだ。
ただ、それとこれとは別だけど、と着替え終わった自分の姿を確認する。この格好を曝すのか、と落ち込みつつなんとか覚悟を決めてカーテンの脇から顔を出せば、はけた? とにこやかに聞いてくるアイリーンに小さく頷いた。
僅かな抵抗などものともせずカーテンを開けられもはやあきらめの境地だ。
「ほら、やっぱりこの方が可愛いわよ。動きやすいし」
「……あの、でもちょっと恥ずかしいのですが……」
ちら、とアルファードさんにSOSの視線を送るが、苦笑で返される。あきらめろということですかそうですか。
結局押し切られるままに十代らしい服装を勧められ、ぐったりと試着疲れでベンチに座り込んだ唯の頭に慣れた感触。
「大丈夫か?」
「はい……ちょっと疲れただけです」
「まあ、そう落ち込むな。よく似合っていたよ」
う。
そんなことを言われると、まあ、仕方ないかななんて思ってしまうわけですが。年齢的にギリギリだと分かりつつも、結局着ちゃうんだろうな、あれ、と唯は複雑な笑みを浮かべた。
自分もたいがい現金だ。
「……あんなに、買ってもらって良かったんですか」
それはもう、上から下まで。途中ドレスまで試着させられた時は何事かと思ったものだが。
アイリーンが会計に持っていった中に、それがない事に唯は一安心していた。
「……唯は、日本人?」
「え? あ、はい、そうですね」
唐突な質問に顔を上げた。そう言えば、そう言う事をアルファードさんと話した事は一度もない気がする。
今までずっと、何一つ聞かずに彼は自分をおいてくれていた。思えばそれは、途方もない事だ。
本当は、ずっと聞きたかった事ではないのだろうか。私が話さないから、ずっと聞かずにいてくれたのではないだろうか。
そう思い至って、なんだかどうしようもない気分になった。
この気持ちをなんと表現すれば通じるのだろう。
ずっと黙っていた事。誰にも話さないと思っていた事。
いつか、話すべきなのだろうか。
「……どうしてですか?」
「いや、……何かあると必ず遠慮するから」
日本人は控えめな人間が多いと聞いた事があるから、というアルファードの言葉に、まあ、よく言えばそうなのかなと唯は頷いた。
「家族のようなものなのだから、遠慮なんてしなくていいのに」
綺麗な微苦笑を浮かべて頭を撫でたアルファードに唯は言いようのない感覚が湧き上がった。あれ、何だろうこの気持ち。
何か引っかかるものを感じながらも、唯は曖昧に笑ってみせた。
「……日本に行きたいか?」
めずらしく話を続けるアルファードに、唯は少し考えた。もうずっと前に、それこそこちらに来て割とすぐに、元の世界に戻ることは諦めている。
「……いいえ」
日本に帰りたくないと言ったら、嘘になる。でも、この世界の日本には行きたくない。思い知らされるだけだ。そこに何もないと。
「……アルファードさんの所にいたいです」
ここ以外、居場所がない。
口をついて出た言葉に、思わず手で口をおさえる。その手の平が震えた。アルファードさんの顔を見れない。どこか仄暗い、これと同じ感情を、いつか雪の日に抱いた。甘えとも依存とも取れる思考は、ひどく唯の視界を揺さぶる。あの頃から全く成長していない自分を突きつけられているようだ。
あたたかな手の平が頭を撫でる、頬を包む。いつもと同じ動作で、ゆるゆると背を撫でられて、気持ちが凪いでゆく。
「何も心配しなくていい」
そっと耳元でささやかれた言葉も、いつかと同じ。過去の記憶が現在にだぶって見えるようで気持ちが悪い。視界を遮るようにゆるくまぶたを閉じた。
心配しなくて良い、というアルファードの言葉にじわじわと胸に広がるのは安堵なのか、不安なのか、今は分からない。
長い休みも、終わりに近づいていた。
「そういえば、唯はダンスは出来るのか? 今年からクリスマスパーティーに参加できるだろう?」
夏休みもあと数日というころになって言われたセリフに、唯は読んでいた本の内容が頭から飛んで行った。
「……クリスマスパーティー」
は、いいとして、ダンスってなんだ、ダンスって。そもそも日本人の唯には、パーティーというものがうまく想像できない。
「ああ、そういう話は出てなかったか?」
「いえ、特には……、え、クリスマスパーティーって踊るんですか?」
「パーティーは踊るものだろう」
なにその常識。
「すみません……、日本人は踊れる人の方が珍しいです……」
「なんだ、そうなのか?」
「はい……。それ、参加しないっていう選択肢は……」
「なくはないが、せっかくだから参加してくるといい。ダンスもそう難しいものじゃないぞ?」
それは、子供の頃から踊っているからでは。運動神経も記憶力も衰えた大人にはなかなかハードルが高い気がする。
「うう……」
ダンスなんて、かろうじて体育祭で踊ったことのあるフォークダンスとマイムマイムくらいしか知らない。でも絶対に、そいういうのじゃない。
「いい思い出になる」
「うう……」
全くの善意で勧めてくれているいるアルファードさんに、逃げられないものを感じる。だが、踊れないものは踊れないのだ。
これはあれだ、絶対に相手の足を踏むやつ。
「おいで」
差し伸べられた手をとると、くるん、と体をまわされた。
そのままくるくると円を描きながら腰に手をまわされて、考えるよりも先に体が右に左に動く。
ふわりとスカートの裾が広がった。
「ほら、そう難しくないだろう?」
「……今のは完全に操り人形でした」
正直よく足がもつれなかったものだと思う。あとこれは、すぐに足が笑い出しそうな感じだ。
「もともと男性がリードするものだ。あまり難しく考えることはないさ。少し練習すれば踊れるようになる」
期待が重い。大変申し訳ないが、アルファードさんのいうように少し練習、なんてもので踊れるようになる気がこれっぽっちもしない。
せめて会場では壁の花に徹したい所存。
「スリッパでは動きづらいだろう。靴を履いておいで。まだ新学期までは少しある。私が教えよう」
少し屈んで目線を合わせたアルファードに、否、などと言えるはずもない。低く落ち着いた声はひどく優しく、握られた手や腰に添えられた掌からは暖かな体温。気乗りしないものの、まあいいかと思わせるものがある。
なんだか、一生敵う気がしないなぁと思っていたら、シリルが二人分の靴を持って立っていた。
「……ありがとう、シリル」
かわいい、とぎゅうぎゅうに抱きしめれば、すぐに逃げられてしまった。ついでにスローテンポな曲が流れ始める。有能すぎる。
「唯、手を」
差し出された掌に、自分のそれを重ねる。どこか恭しく手を取ったアルファードさんは美形なだけあって大変絵になる。相手が自分で申し訳ないくらいだ。
こう言うの、物語の中だけの話だと思ってたなぁ、と言われるがまま導かれるままに体を動かした。
ときどき、まだ夢を見ているんじゃないかと思う時がある。あまりにも非現実すぎて、足元がふわふわと浮き立つような、そんな錯覚を覚えるのだ。
夏の日差しも、家の中までは入ってこない。わずかに床に反射する光が影を落とす。少し切なく感じるのは、きっと夏の終わりが近いから。
体重をあずけてその胸元に顔を寄せると、アルファードの動きが止まった。
「唯、疲れたか?」
「……夏休みももう少しだなって思ったら、ちょっと」
またしばらく会えなくなる。きっと学校が始まってしまえば寂しさなんて感じる暇もないのだろうが、それはそれ、これはこれである。
「……学校は楽しいか?」
「はい、友達もできましたし、授業も物珍しいものばかりで。ただ、アルファードさんと会えないのはちょっと寂しいかなって」
「……なんだ、今日は珍しく甘えてくれるんだな?」
「夏休みも、もう少しですから」
ふわりと体が浮いて、視界が高くなる。アルファードの短くなった髪に指を滑らせた。日本人とは違う白い肌。頰に手を添えると目元が優しく緩んだ。この人を父にも兄にも思えない。家族のようなものだといった言った彼の言葉を思い出す。あの日感じた違和感の正体。
彼は、私を子供だと思っている。
するりと手を滑らせ、首に抱きつく。頰と頰を合わせればなんだか不思議な感覚がした。
「なんだ、本当にめずらしいな?」
「クリスマスパーティーにでるなら、帰省が少し遅くなるので、補充しておこうかと思って」
そうなのだ。いつもならクリスマスには戻ってきていて、アルファードと過ごしていたが、パーティーに出るとなるとその分学校に残らなければならない。上級生たちがドレスだパートナーだと浮き足立っているのを横目に、今まで一足先に帰省していた。
今年からあちら側なのだ。流石にホグワーツ生全員がパーティーに参加するのは難しいのだろう。たしか、生徒の数が千人くらいだと聞いた覚えがある。上級生だけ、しかも希望者だけ、というのも納得だ。
「そう言ってもらえるのは嬉しいな。でも、今しかできない体験もたくさんあるから、楽しんでおいで」
「はい。手紙を書きますね」
「ああ、楽しみにしているよ」
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まあ、ドレスに罪はない。いったいどれくらい入るのか謎のトランクにそれをつめて、新学期の準備は終了。
ふと、ドレッサーの前に飾ってある口紅が視界に入ってそれも追加でトランクに詰めた。ドレスとの色合いがイマイチ合わない気はするが、まあそこまで気にする人間もいないだろう。
足どころか身体中が筋肉痛だが、ダンスもかろうじて形になった。あとは、クリスマスまで覚えていられるかだが、果てしなく自信がない。キングならきっと踊れるだろうから、前日にでも復習すればいいだろう、たぶん、きっと。
みんな、休み前のこと忘れててくれないかな、と淡い期待を抱きながらベッドに潜り込んだ。