闇にたむける

side-a

このホグワーツで過ぎた季節を想う。
冷たかった風は穏やかなものに変わり、地面を覆う白も緑に変わり花が咲き始めた頃、唯はその僅かな変化に気づき始めていた。
あと二月もすれば、夏休みがくる。
テストもあるし、なにかと忙しく騒がしい時期だ。
なのに、とても静かな時間が流れていると、唯はまぶたを伏せた。
手の平に触れる草の感触はまだ柔らかい。
全く期待をしていなかったと言えば嘘になる。でも、変わらなくて安堵したと言うのも本当だ。
背後で草を踏む音。それに振り返って、予想通りの人物に唯は苦笑を浮かべた。
隣に座っていたアルファがつられて顔を上げ、ぐるぐるとわずかに牙を見せた。
宥めるようにその背を数回撫でて、唯は彼、ルシウス・マルフォイと対峙するように立ち上がった。
草を払うようにスカートをたたく。
「……こんにちは、マルフォイ」
「ああ」
「もっと、楽しそうな顔をしたら? あなたの念願が叶ったのなら」
唯の言葉に、マルフォイの表情が凍る。
それに、唯はまた苦笑で返した。彼の年相応さと言うのは、こういうときにしか実感出来ない。
いつからだったか。なにが、と言うわけではない。言うなれば女の直感と言う奴で、ただそう感じただけなのだ。
ああ、マルフォイが闇に落ちてしまったと。
自分より年下の彼は「予定通り」あちら側へ行った。
唯にはそれをとめることも、とめる権利も無く、ただそれを見送っただけだ。
ずっと昔から決まっていたことなのだと目を閉じた。見ないふりをした。
別に卑怯だなんて思わない。誤った道に行く子供を導いてやるのが年上の役目だなどとおごったことは思わない。
そもそも、彼の選んだ道が誤りなのかも唯には分からない。
ただ、自分はその道に行くことは無いと思うだけだ。
「少しはやいけど、卒業おめでとう」
「本当にそう思っているのか?」
「さあ、どうかしら。決まり文句だからね」
彼女のいつもと変わらない態度に、マルフォイは微かに笑みを浮かべた。
お前もこちらへ来ないか、と答えの分かっている問いを口にする。
彼女のことは、結構気に入っていた。そう、この変わらない態度が。
「遠慮するわ。私の願いは、ただ、変わらない退屈な日常を繰り返す事よ」
これ以上の波瀾万丈さなんていらないわ、とまっすぐに見つめる瞳は、ただ安穏と生きてきた者のそれではない。
「だから、あなたがただのルシウス・マルフォイに戻るまで、会わないわ」
これから先も変わらず接してくれると、そう思っていた。
だから、マルフォイには彼女の言葉は意外で、耳にしたくないものだった。
握る拳に力が入る。
「それは、残念だな……じゃあ、次に会う時はあのドレスを着てくれ」
それがいつになるのか、マルフォイには分からない。もしかしたら、永遠に来ないのかもしれない。
少し残念だと、その黒髪に手を伸ばした。
「バカね、その頃には着れなくなってるわよ」
「それもそうだな……じゃあ、娘にでも着せてやってくれ」
「そうね、その頃にはあなたの息子も同じ年くらいかしら」
「娘かもしれないだろう?」
「ああ、残念ながら、マルフォイに出来るのは息子よ。あなたより愚かで、純粋で、まっすぐな」
その言葉に、以前から漠然と思っていたことが確信に変わった。
彼女は、予言者だ。
その黒い瞳は、誰よりも正確に未来を見据え、そして誰にも語られることは無い。
父親なら守ってあげてね、とまぶたを伏せた唯に、ルシウスはもう彼女には二度と会えないのかもしれないと感じた。
彼女の話し振りから、自分がこのあと闇の陣営に入ることは分かっているのだろう。
ただの、というのはそういう意味に他ならない。
けっこう気に入っていたんだがな、とその髪に口づけた。
唯は一度口を開き、そして何も言わずに口を閉じた。
強くまぶたを閉じるその姿は、何かを迷っているようだった。ルシウスは、飲み込まれた言葉をじっと待つ。
日本の卒業式は春先にあるのだと、夏も近づく頃に行われた卒業式を前に唯がもらしたことがある。
それは、唯がホグワーツに入った一年目のことで、感動も何もない、と青い空を見上げる後ろ姿が脳裏に焼き付いている。
自分にとって春は別れの季節なのだと、そう言った唯の姿を思い出した。
再び開かれた唯の目はまっすぐにマルフォイを見つめ、そこに未来を見ているようだった。
「ルシウス、もしあなたが、真にスリザリンにふさわしいと思うのなら、誰にも忠誠など誓わず、何者に恨まれようとも生き抜くことを願うわ」
静かに告げられた言葉はしっかりとマルフォイの耳に届いた。
その内容は意外でもあったし、そして、少しの未来をマルフォイに伝えるものでもあった。
自分は死ぬのだろうかと、彼女を見下ろす。春先の優しい風が頬を撫でていった。
「……裏切れと言うのか」
「状況が変われば、そうね。分かるでしょう? あなた達はいずれ滅ぶ血筋だと」
その予言と言うよりも当然と言うような言い方に、ルシウスは目を見開いた。
そしてこの言葉は意外にも、ルシウスの胸にすとんと落ちてきた。
この漠然とした絶望にも似た、幼いころからずっと抱えていたものの正体。
その答えを今明確に提示された気がした。
純血主義を掲げながら、その終わりを当然のように受け入れていた自分がいる。
そのことに気づき、ルシウスは顔を歪めて笑った。
「ルシウス?」
「……言われなくとも、生き抜いてみせるさ」
誰にも、膝を折る気など無い。たとえそれが、闇の王だとしても。
不適な笑みを浮かべたマルフォイに、やはり彼は彼だと、唯は安堵した。
彼が良い人間だなどとは、決して思わない。だが血の通った人間であることにかわりはなく、言葉を交わし、少なくない時間を共有した相手でもある。
何より唯は、生身の彼が嫌いではなかった。
できるなら、生きていて欲しいと思う。
彼が死ぬのか生きるのか、唯の知識では分からない。
だからこそ、彼の生を願う。
自分の知らない未来に、賭けてみたかった。
ポッターは死ぬ。ブラックも死ぬ……ダンブルドアも、死んでしまう。

そう、この瞬間も物語は終わりに向かってまっすぐに進んでいる。