雪をふみしめる

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夕飯を早々にきりあげた唯は少し遠回りをして寮へと向かいながら、まだ誰も踏んでいない雪を眺めた。
これも、明日になれば子供達の足跡で埋め尽くされるのだろう。できれば、もっと明るい時間に見たかった。きっと遮るほどにまぶしいのだろう。
雪を踏むか迷って、結局眺めるだけにした。
「姿が見えないと思ったら、こんな所にいたか」
かけられた声はひどく落ち着いた大人の声で、するりと雪に溶けていった。
ゆっくりと声のした方に顔を向ける。わずかな雪の反射に照らされた顔は白く、日本人のそれとは違う色をしていた。
「こんにちは、ミスターマルフォイ」
言葉とともに吐き出された息は白く、そこに温度があるとこが不思議な感じだった。
近づいたマルフォイの手が髪をすいて一房つかむ。それに軽く口づけたマルフォイに、唯は表情を変えず応じた。その行動は予測していた。かつて、アルファードさんにされたこともある。あのときは、一瞬頭の中が真っ白になって、慣れないことにひどく恥ずかしくなった。
あれに比べれば、マルフォイなんてかわいいものだ。
まとめていないマルフォイの髪が肩から落ちて揺れる。以前は男の長髪なんて許しがたいと思っていたのだが、この世界の人間は普通に似合うのだから困る。
アルファードさんは、アルファードさんというだけで長髪でも何でも許せるから関係ないが、今まで見た誰よりも長髪が似合うと唯は思っていた。もちろん短くても異論はない。
目の前に垂れる金髪をお返しとばかりに一房つかむ。ひやりとした感触が手に心地よかった。
「お返しをしてくれてもいいぞ」
お返し、というのはこの場合キスのことだろうか。唯はぼんやりとその少し意地悪く微笑む顔を見上げた。
唇からこぼれそうになった言葉は、白い息に遮られ雪へと消える。
でもきっと、日本語だからマルフォイには分かりっこないだろう。
ぐっと握っていた髪を少し乱暴に引っ張るとマルフォイが顔をすがめる。その大人びた表情に唯は少し鼻白んだ。
「かわいくない」
今度ははっきりと言葉にする。せっかく日本語が使えるのだ。遠慮することはないだろう。理解したければマルフォイが努力すればいい。マルフォイ相手に自分が合わせるなんてまっぴらごめんだ。
「……痛いな」
「あなたのそういうすました顔、嫌いなの。もう少し年相応でもいいと思うけど……人間、嫌でも年を取るんだから」
私みたいに。
「その言葉、そっくりそのままお返ししよう」
「あなたと私は違うもの。私はこれでも年相応なの」
「おかしなことを言う」
むしろ年のわりに少し幼いくらいだ。自分の正確な年齢なんて正直考えたくない。
私の年は4年前のあの日、止まったままなのだ。
この世界で、また23になったときに時間が動き出す、そんな気がする。それまでは同じ場所に佇んだまま、前にも後ろにも進めない。
この足跡一つない雪のように、踏み出すことを許さない何かがそこにある。
でもそれは自分だけで、他の誰もがそんなことを気にせずに胸を躍らせてそこに足跡を付けていくのだろう。
私はそれを眺めて、少しだけ悲しくなるだけ。止めることも手を伸ばすことも出来ない。
でも、アルファードさんはずっとそんな自分のそばで私が動き出すのを待ってくれている。手をとってもその手を引かずに、ただ同じ光景を眺めている。
それだけで私はときどきわき起こる焦燥感をなだめすかして、時がくるのを待つことが出来る。
マルフォイから視線をずらして、また雪へと視線を落とした。それにつられてマルフォイが顔を動かすのが視界の隅にうつる。
「何を見ている?」
「……雪を」
「別に珍しいものでもないだろう」
「まあ……そうですね」
立ち話をしていて少し冷えた。指先の感覚が遠い。明日からは、また授業が始まる。気持ちを切り替えなくては。
「そう言えば、ドレスは気に入ってくれたかな?」
「……ああ、そう言えばそんなものも」
ありましたね、と記憶の隅に追いやられていた赤いドレスのことを思い出す。あれを贈って、いったいどうしたいのか唯には全く理解出来ない。
着る機会なんてあるんだろうか、と少し遠い目をした。
まあ、でも高価なものだろうから一言御礼を言っておかなければならないだろう。
「ありがとうございました」
「礼はいい。今度はアレを着てもらえると嬉しいがな」
「今度……?」
今度も何も、いまだかつてあんなドレスを着たことはない。唯一着た記憶と言えば大学の謝恩会の時くらいだ。あの時は比較的安物のドレスだったけれど、靴やバッグ、アクセサリー一式をそろえたのであまりの出費に涙が出そうだった。
まあそれはともかく、人生の中で人前でドレスを着たのはアレ一度きりだ。マルフォイの前では着ていない、断じて。
「ブラック家のパーティーは何もクリスマスだけではない。まあ、アルファード・ブラックはあまり参加していないようだが……」
「お言葉だけれど、私はこれから先も参加する予定はないですよ」
唯の否定の言葉にマルフォイが少しだけ目を見張った。そんなにおかしなかとを言っただろうか、と少しだけ首を傾げた。
「……それはそれは、意外と疎いんだな。いずれ、参加せざるをえなくなる」
引っかかる言い方だな、と唯はマルフォイの言葉を頭の中で反芻した。自分の横を通り抜けていったマルフォイの背を振り返る。揺れる金髪を見送って再び訪れた静寂の中、唯は先ほどのマルフォイの言葉を思い出していた。
「……嫌な言い方」
なんだか急に、アルファードさんのことが心配になってしまった。さっき別れたばかりなのに。これではユリシーズさんのことを笑えない。
きっと、アルファードさんなら大丈夫なんだろうけど、頭では分かっていても不安になる。
アルファードさんは、ブラックだし、今までが平和すぎたんじゃないだろうか。それか、アルファードさんが私には気づかせなかっただけなのかもしれない。
疎いと、マルフォイは言った。だからきっと自分の知らないところで何かが動いているのだ。
アルファードさんの家にいると忘れがちだが、今はお世辞にも平和な時代とは言えない。
唯の知っているハリーポッターの時代とは違う。まだヴォルデモートは生きているし、ハリーは生まれてすらない。
不安の重さに、その場にうずくまる。足下から冷たい空気が徐々に体を冷やしていく。それに、少しだけ落ち着いた気がした。
ふー、と長いため息をつく。マルフォイ相手に何をこんなに考えることがあるというのか。相手は年下なのに。
自分とマルフォイの年の差を考えて、いいように扱われたことが情けなくなった。

膝に伏せていた頭に、こつんと何か暖かいものが触れる。突然のことにびっくりして唯は顔を上げた。鼻先が触れそうなほど近くに、灰色の毛並みを持つ狼の顔があって、危うく尻餅をつきそうになる。
「び……びっくりした。えーと、アルファ、だっけ」
唯の問いにアルファがこくりと頷く。賢いとは言っていたけど、人間の言葉を完全に理解しているのだろうか、とその精悍な顔立ちを眺めた。
行儀良く座ったアルファがじっと唯の瞳を見つめてくる。その意味を唯はすぐに理解した。
「……心配してくれてるの?」
クゥーンと犬のように小さくないたアルファに、唯は小さく微笑んだ。そっとその毛並みに触れる。
柔らかい。
手の平に伝わるぬくもりは人のそれと変わらない。
なんだか気持ちが落ち着いた。
おそるおそるその首に両腕をまわす。アルファは嫌がることなく小さく尻尾を振った。
「ありがとう。あと……ごめんね、怖がったりして」
アルファの背中を撫でながら、唯はそのぬくもりにそっと目を閉じた。