雪をふみしめる

side-b

せまいコンパートメントの中で、唯は可能な限り奥へと後退し、ほとんど壁にへばりつくような体勢をとった。
それでも「それ」からの距離は1メートルあるかないか。外の景色はだんだんと速度を上げて後ろに流れてゆき、とても窓から出られるような速度ではない。
本来なら、いつも決まってこのコンパートメントにルームメイトであるキングが発車ギリギリに乗り込んでくるのだが、今回はそれよりも先にユリシーズが入ってきた。
教師用のコンパートメントに行かずわざわざこちらへやってきたユリシーズに唯は首を傾げつつも空いている席を勧めた。
いつも疑問ではあったのだが、この一番末尾にあるコンパートメントには唯とキング以外は入ってこない。本来ならおそらく4人用のコンパートメントなので、ユリシーズがいてもまだ一人分の余裕がある。
唯に勧められて複雑そうな顔をしながら入ってきたユリシーズの後ろには、ふわふわした何かがついてきた。
それを認識した唯は反射的に座ったまま後ずさり、冒頭に至る。

どう好意的にみても、犬じゃない。

「ユ、ユリシーズさん?」
「あ、あはははは……ちょっと諸事情で知り合いから預かることになったんだ。唯は犬は苦手?」
乾いた笑いをもらした後、取り繕うように言葉を続けたユリシーズに、唯はかろうじて視線だけをおくる。
犬は苦手? 否だ。小型犬よりもどちらかと言えば大型犬が好きだ。
だが、目の前にいるのは、犬にしては顔つきが鋭い。銀色にも見える灰色の毛並みは見事なものだが、撫でるのは命がけだろう。

何度見ても、狼だ。

「この子、おおかみ、です……よね?」
確認をとるようにしどろもどろになりながらもそう言った唯に、ユリシーズの笑顔が凍り付いた。もはやYESと言っているも同じだろう。
唯のおびえたような視線に、とうとう貼付けていた笑みを解いて、ユリシーズは大きくため息をついた。
狼ことアルファードは、唯に逃げられたことがショックなのかその容貌に似合わずしょんぼりと小さくなっている。自業自得だ。
「……やっぱり、分かっちゃうよねえ」
「さすがに、犬で通すのは無理があるかと……」
「そんなに怖がらなくても、咬んだりしないよ。お利口なんだ。あと、あんまり怖がると見ての通り凹んじゃうから、出来れば仲良くしてあげて欲しいな」
「あ……すみません、つい」
「いやいや、誰でも狼が目の前に現れたらびっくりするから、うん」
ようやく少し警戒を解いて壁から離れた唯は、しかし、まだ完全に気を許したわけではないようで、アルファードに近づこうとはしなかった。無理もない。
ユリシーズは苦笑を一つ浮かべて未だ入り口で立ち尽くすアルファードを自分の足下へと呼び寄せた。
顔が狼なので、さすがに表情の変化は読み取れないが、仕草から相当凹んでいることは間違いない。
気を落とすな、とその背を軽く撫でてやった。
「あの、その子名前はなんて言うんですか?」
「……へ? な、名前?」
そんなの考えてねー! 激しく頭を抱えそうになるのを、すんでのところでこらえた。
まだ及び腰ながらもアルファードを気遣う様子を見せる唯に、ああ、いい子だなぁと思考がずれる。
だから、重ねて名前を問われたときにはすっかり油断していた。
「名前は、アルファ……!」
静かに、しかし強かに踏みつけられた左足にすんでのところで言葉を切る。思いっきり踏んだな、とちょっぴり涙目で睨みつけるも、それより剣呑な瞳でにらみ返されてしまった。
その目には如実にバカ、と書かれている。
いつもならここで言い返してやるところだが、アルファードは表向き狼なのでそれは出来ない。ぐっとこらえてユリシーズは顔を上げた。
そして、思わずごめんなさいと謝ってしまいたくなるような純粋な瞳と目が合った。まぶしい。
「アルファ、って言うんですか?」
「へぁ? ああ、うん、そう! まさしくそんな感じ!」
絶妙な声の裏返り加減にアルファードはもちろん、ユリシーズ本人でさえも頭を抱えたくなった。
アルファって何だ、アルファって。もう半分どころか9割くらい答え言っちゃってるだろう、と。
いまだかつてこんなに動揺したことがあっただろうか、いやない、とユリシーズは鋼をうつ心臓に手をあてた。
おそるおそるのばされた華奢な手があと少しでその毛並みに触れる時だった。
ばん、と音を立てて乱暴にとが開けられる。びくりと唯の手が思わずと言ったように動きを止めた。
3人の視線の先には金髪の少女が少し不機嫌そうに立っていた。
「あ、びっくりした。おはよう、キング」
「おはよう、唯。ごきげんよう、ベル先生」
「ごきげんよう」
唯には年相応の笑みを向け、ユリシーズには社交的な笑みを浮かべたキングの見事な切り替えに、ユリシーズは内心で感心した。さすがは純血と言ったところか。
「遅かったね、キング」
「あー、マルフォイに捕まってたの。もう、あんなのが幼なじみだなんて人生最大の汚点だわ」
「そう? なかなかお似合いだと思ってたんだけど……」
「冗談でもやめて」
鳥肌が立つとでも言うように両腕をさするキングに、唯は小さく苦笑を浮かべた。珍しい顔だな、とどこか大人びて見えるその表情をユリシーズはさり気なく観察した。
「ベル先生は教員用のコンパートメントにいかないんですか?」
「あれ、もしかして私がここにいると女の子達のお邪魔かな」
「いいえ、そんな。ベル先生なら大歓迎ですわ」
綺麗に微笑むキングに、流石のユリシーズも歓迎されているのかされていないのか測りかねた。まあ、普通に考えて歓迎されてないのか?
「キング、そう言うのってあんまり良くないと思うわ」
席を勧めながらたしなめるように言った唯に、キングがきょとんとしてから、すぐにへらりと笑みを浮かべた。女の子二人のよく分からないやり取りにアルファードと一緒に首を傾げる。
すぐに視線を唯からユリシーズに戻したキングがぺこりと頭を下げてごめんなさい、と謝った。
「え? いきなり何?」
「ちょーっと気がたってたから」
そう言って少し乱暴に腰を下ろしたキングは、先ほどのおしとやかな雰囲気とはかけ離れていて、でもさっきより好感が持てた。
気がたっていた、というのはおそらくマルフォイ関係だろう、と当たりを付ける。
純血同士はつながりが強く、それはとても無視出来るものではない。
ユリシーズのように長く中立をたもち、目立たないようにしてきたものは歴史の波に埋もれて、大した交流もなく過ごしてきたものもある。
それでも、まったく他とつながりがないというわけではない。
見たところキングはマルフォイと交流があるようだから、いろいろと苦労も多いのだろう。
必然的にブラックとも交流があるんだろうなあ、と銀色の毛並みをちろりと見遣った。
「それより、この子ベル先生のですか?」
じっと一連の流れを見守っていたアルファードに、キングがためらいもなく顔を近づけた。あまりの勢いに思わずアルファードが頭を後ろに引くのを横目で見て、珍しく動揺してる、と心の中で小さく声援を送る。
若い女の子の相手はすごく体力がいるのだ。
「まあ、知人から預かってるんだ」
「へぇー、狼って珍しいですね」
「まあね。でも大人しいから犬とでも思ってもらえれば、いいな、なんて……」
「あはは、それは難しいと思いますよ」
あっさりと言って退けたキングに、ユリシーズはだよねぇ、と頭を抱えた。
ああ、だから俺は嫌だっていったのに! アルファードのバカ! バカ!
「ああ、アイリーンに会いたい……」
「……さっき、別れたばっかりですよ、ベル先生」


気分的には第2部。アルファードさん結局触ってもらえなかった(笑)