その花の名を知らない

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窓の外には白い雪がちらちらと舞っていた。
眼下を時折暗色のコートを羽織った人間が通り過ぎていく。街灯が暗い道をほのかに照らしていた。
窓をあけるとはく息が白い。唯が住んでいたのは雪国ではなかったので、降っていると訳もなくわくわくする。そう言うと、雪国出身の友人たちは苦笑していたが。そっと手を伸ばすと、手のひらに落ちた小さな雪は瞬く間に溶けてなくなった。
不意に肩にかかった重みに、後ろを振り返ると、黒いロングコートに身を包んだアルファードさんが立っていた。肩にかかる重みは白い自分のコート。
どこかに出かけるのだろうか。そう問えば、アルファードさんが首を縦に振った。
コートに袖を通すと、前のボタンをアルファードさんが止めてくれる。かがんだアルファードさんの顔が近づいて、その長いまつげや、しろい頬に落ちるその影までよく見えた。
フードまでしっかりかぶせられて、いつものようにそっと手を引かれる。外に出ると、その冷たい空気に体が小さくなってしまいそうだ。
「足下が滑るからしっかり手を握っていなさい」
なんなら、抱えて歩いてもいいが、と手を伸ばしてきたアルファードに、唯はあわてて大丈夫です、と返した。アルファードが小さく笑う気配を感じて、からかわれたことにすぐに気付く。どうも最近、自分が過剰反応するせいかよくからかわれている気がする。
手を引かれて人気のない道を歩きながら、時折道を暖かく照らす家の窓に目をやる。子供の声が聞こえるような気がした。
「どこへ行くんですか?」
「ああ、すぐそこの教会だ。いいものがある」
いいもの? と首を傾げた唯に、ついてからのお楽しみとばかりにアルファードが静かな笑みを返した。

歩いて5分もしない距離にある教会に、細かな明かりが見える。遠目からでもそれがツリーの明かりだということが唯には分かった。
教会の庭に立っている木に直接飾り付けているのだろう。かなり大きい。部屋においてあるものとは比べ物にならないくらいだ。というか、今まで見た中で一番大きいのではないだろうか。
遅い時間だが、周りにちらほらと人影が見えた。きっと皆、ツリーを見に来ているのだろう。
「いいもの、ってあれですか?」
あおぐようにアルファードと視線を合わせる。
「綺麗だろう」
「はい。あんなに大きいの、初めて見ました」
少し興奮気味にそう言った唯に、アルファードが目を細めた。
近くで見ると、いっそう迫力がある。
元の世界にいた頃は、あまりクリスマスを重視していなかったせいかとても新鮮だ。ツリーを飾るのも幼い頃だけで、年をかさねるほどこういう行事に疎くなる。何故小さな頃はこんなイベントにあんなに熱くなれたのだろう、と不思議になるほどだ。
それを今再び、あの頃のような気持ちでツリーの前に立っている。知っているのに知らないことのようだった。
「……今年も、もうすぐ終わりですね」
アルファードさんに出会ってから、もう4年がたとうとしている。きっともうもとの世界へ帰ることはないのだろう。それは、確信にも似た想いだった。
今でも帰りたくないと言えば嘘になる。帰りたい、帰りたい。ふとした瞬間に、その想いにとらわれる。
家族に、友人に、言えなかったことがたくさんある。あまりにも唐突にこの世界へ来てしまった。もし帰ることがあるとすれば、それもきっと唐突なものなのだろう。それは運命の悪戯のようなものか、神様の気まぐれか。
でもきっと、元の世界、元の時間には戻れない。気が遠くなるほど小さな確率。
そんなものに希望を持って生きていくほど、私は強くない。
でも、もし一瞬でも帰れるのなら、たくさんの人にありがとうと伝えたかった。
「アルファードさんも、ありがとうございます」
「……いきなりなんだ?」
「いえ、言いたかっただけです」
とても後悔した。今でも後悔している。自分の日常が、こんなにも脆いものだと、知っていたのに理解していなかった。さすがに異世界云々は考えつかないけど、事故でも何でも起こるときは突然だ。予期なんて出来ない。だから、もしそうなったときに後悔しないようにしていたい。
それがとても難しいことだと、分かっている。それでも、努力しなくては。たった一言口にするだけで天と地ほども違う。些細だけれどとても大切なことだ。
「どういたしまして、というべきか?」
「気にしないで下さい。ただ、伝えておきたかっただけなんです」
自己満足なんですけどね、と少し恥ずかしくなって曖昧にごまかせば、頭を優しく撫でられた。
「じゃあ、私からも、唯に感謝を」
メリークリスマス、アンドハッピーニューイヤー、という声がすぐ近くで聞こえたかと思うと、額に冷たい感触。
すっぽりと包むように顔に添えられた両手が、冷たいのにほんのりと暖かくて、一瞬思考が抜け落ちた。
視界を覆った肌色と頬をくすぐる黒髪。ゆっくりと離れていく見慣れた顔に、額にキスをされたのだとようやく理解し、その大きな手が触れている頬や耳が熱くなるのを感じた。
そんな唯の反応に気づいているだろうに、顔を近くに寄せたままアルファードが口を開いた。
「宿り木の下では、キスをしていいことになっているんだよ、唯」
「……ああ、そう言えば聞いたことがあります」
日本人なのであまり詳しくはないが、そう言う風習があるということは1、2度耳にしたことがある。
それがどうしたのだろう、と疑問に目をしばたたいた唯に、キスはしてくれないのか? と再びアルファードが悪戯っぽく口を開いた。
その言葉に、アルファードの頭より更にその上を見上げれば、宿り木らしきもの。本物なんて見たことがないのだから分かるはずもないが、今の会話の流れでいくとおそらくあれが件の宿り木なのだろう、とさすがの唯でも分かった。
じわじわと顔が熱くなっていくのを感じる。挨拶だと割り切っていても恥ずかしいものは恥ずかしい。23年も日本で生きていたのだ。今更変えられない。
そんな唯の反応にアルファードが小さく笑いを漏らした。
「か、からかったんですね」
「ああ、悪い。からかったつもりはなかったんだが……くく」
「もう……好きに笑って下さい」
羞恥心をごまかすためにそっぽを向いた唯に、アルファードがなだめるようにフードの上からその小さな頭をなでる。
子供としてふるまっているせいか、本当に精神年齢が幼くなってしまっているような危機感を覚えた。
「来年もよろしく」
帰ろうか、ととられた手から、腕へ、肩へと視線を移動していくとそこにいつもと変わらぬアルファードさんの顔がある。
あと何年この言葉を言ってもらえるだろう。
今はまだ想像もつかないけれど、何事にも終わりはある。変わらないものなどない。帰る場所を失ったように、いつかここを離れる日が来るのだろうか。
「来年もお世話になっていいんでしょうか……」
唯の小さなつぶやきに、アルファードが再び身をかがめて視線を合わせた。
灰色の瞳にツリーの明かりがうつっている。
「……私以外の誰の世話になるつもりだ?」
「そういう意味じゃ……でも、いつまでもお世話になるわけにもいかないですし」
そうだそうだ、よくよく考えれば、アルファードさんは適齢期なのに自分のようなお荷物がいていいはずもない。
4年目にして初めて至ったその思考に、足が重くなった。なんで今までこんな当たり前のことに気がつかなかったんだろう、と。
自分で思っているより、余裕がなかったということだろうか。鈍いにもほどかある、と自分を叱咤したい気持でいっぱいになった。
そんな唯の心境を知ってか知らずか、アルファードは笑みを浮かべたまま言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「私は唯がいてくれたほうが嬉しい。私のことを嫌いでないのなら、ここにいてくれないか」
「……その言い方は、ずるいです」
そんな風に言われてNOと言える人間なんていない。だいだい、こんなプロポーズまがいの言葉、言う相手を間違えているんじゃないだろうか。
冷たい空気が顔のほてりを冷ましても冷ましても、この熱から逃れられない。この人と一緒にいたらいつか恥ずかしさで死んでしまうかもしれない、と大げさなことを真面目に考えた。
唯のどこかすねたような声にアルファードが笑みを深める。覗き込むように顔を近づけられて小さく身を引いた。
「じゃあ言い方を変えようか。先のことは考えなくていいから、ここに居なさい」
大人の言うことは聞くものだ、とめずらしく命令形で言ったアルファードの声に、不意に視界がぼやけた。目頭に熱が集まって、瞬きをすれば何かがこぼれ落ちてしまいそうだった。
ずるいのは私だ。
これは甘えだ。先の見えない不安に対する甘え。私はただ、ここにいてもいいと言ってほしかっただけなんだということに、いまさら気づいてしまった。
きっと、アルファードさんはそのことにとっくに気づいていたんだろう。
なだめるようにそっとまぶたに落とされた唇に、こらえていたものが一筋おちて、長い指がそれをさらっていく。
かすむ視界の向こうに、いつも通り穏やかに微笑む顔が見えた。


両手の指先でいつもより近くにある顔に触れる。緊張にかすかに指先が震えた。
ええい、女は度胸だ!
少し背伸びをするだけで届くその頬に、唯は覚悟を決めて小さくキスをした。