今はまだ、輪郭すらも曖昧な

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その名前はすぐに多くの生徒へと知れ渡った。
もちろん、唯も例外ではない。
ただ彼女の場合、野次馬根性もなければ、例えば他のクラスに美形の転校生がきたからといってわざわざ見に行くほど幼くもない。
つまり知っているのは耳に届く噂のみで、それも大したものは知らない。
いや、実際にはいろいろ聞いたと思うのだが、それについて全く興味がないので、覚えていないと言った方が正しい。
だから、廊下の曲がり角で盛大にぶつかった生徒が誰かなんて分かるはずもないのだ。
ついでに言うと、まともに顔を見る前に腕をつかまれて引き寄せられてしまったのだから、分かれという方が無理。
背後から口を塞がれるような形になった唯は、何の断りもなく布のようなものを頭からかぶせられた。
背中に相手の体温を感じる。
女性とは明らかに違う堅い胸板の感触を感じながら、あまりのことに停止していた思考をフル稼働させた。
頭からすっぽりと何かをかぶせられているにもかかわらず、視界には外の風景。
時折、布の動きにあわせて視界がゆがむ。
向こう側が透けて見えるのか、と冷静になって来た頭で判断した。
こつこつとどこか急いた感じの足音が相手のやって来た方から聞こえる。
足音はそのまま角をまがり、唯たちの前を通り過ぎていった。
廊下の壁にぴったりとよって立つ二人には全く気づいていない様子に、唯は内心で首を傾げる。
前をとりすぎた人物……フィルチは自分の口を塞いでいる人物を追って来たのだろうことは想像に難くない。
それは、彼のいらだった仕草からも見て取れた。
そして、もしかして自分の視界に揺らめく透明のこの布は、透明マントかと思いいたる。
フィルチの姿が完全に見えなくなってからようやく解放された唯は、暑苦しい透明マントを払いのけて後ろを振り返った。
そしてわずかに瞠目する。
「……ハリー・ポッター」
世代が違うととっくに分かっていたはずなのに、その言葉は意図するよりも早く唯の口を滑り落ちた。
それぐらい、映画の中の彼にそっくりだったのだ。
「おしいな。名前を間違えられたのは初めてだよ。うぬぼれじゃなく、結構有名人のつもりだったんだけど?」
いたずらっぽく細められたハシバミ色の瞳に、はっと唯は我にかえった。
思わずきびすを返しその場を去ろうとすると、すかさず腕をつかまれる。
「ちょっと、逃げられるとさすがにショックなんだけど」
いやいや、このくらいでショックを受けるようなかわいらしい性格はしていないでしょう、と嘘くさい笑みを向けてくる相手に体がこわばった。
唯個人からすると、今目の前に立つ少年はかかわり合いたくない人物上位にランクインしているのだ。
タダでさえ、ルシウス・マルフォイという厄介な人物とお知り合いになってしまったのに、これ以上身の危険を感じる相手と関係を持ちたくない。
唯の素直な心情だった。
セブルスとも知り合いな彼女は、人間関係を複雑にしたくない故に、いままで耳に届く聞き覚えのある名前も右から左に流していたというのに、こんな少女漫画の王道とも言えるような出会いをしてしまうなんて、と内心で激しく頭を抱えた。
自分の腕をつかんでいる指をさりげなくほどき、観念して視線をあわせる。
よく見れば、似ているといえども瞳の色は違うし、表情もなんと言うかこちらの方が大人びている、というより自信にあふれていると言った方が正しいか。
さすが、自分で有名人と言ってしまうだけのことはある。
「失礼、ミスター・ポッター。知り合いに似ていたものだから。用が無いなら、私はもう失礼しても?」
「知り合いに、ねぇ。僕の知る限り、親戚にハリーなんて名前の子はいないんだけどな?」
「……心配しなくても、まだ会ったことがないだけでいずれ会うことになるわ」
やっぱり下手なごまかしは通じないか、と唯は小さくため息をついた。
ポッター、というファミリーネームが一般的なものなのか、珍しいものなのか日本人である唯には判然としない。
しかし別にややこしそうな名前でもないし、と一縷の望みをかけたのだが、ポッターも純血だからその辺はごまかしがきかないようだ。
まあ、嘘は言ってないし、と自己完結して再びきびすを返そうとした唯をみたび少年は引き止めた。
「そう急がなくてもいいじゃないか」
「……用もないのに長居する気はないわ」
「つれないね。僕はジェームズ・ポッター、君は?」
やはり名乗らなければならないのか。できれば今回のことは一瞬の邂逅として彼には忘れてもらいたかったのに、と唯は遠い目をした。
長い髪をさらっていく秋口の風が、よけいに哀愁をさそう。

「ああ、こんなところにいたんだね、探したよ」
唐突に背後からかけられた声に、助かったと唯は安堵の息をはいた。
できるだけ不自然でないように焦る気持ちを抑え、ゆっくりと振り返る。
「すみません、先生。今お伺いしようと思っていたところなんです。お時間よろしいですか?」
「僕は構わないよ。そちらの彼と話は終わったのかな」
「はい、ちょっとぶつかっただけなので大丈夫です」
何か言いたそうな相手に、にっこりと笑みを向けて牽制し、足早に声の主へと駆け寄った。


どこかほっとした表情を浮かべる少女にユリシーズは入れたばかりの紅茶を差し出した。
「……よけいなお世話じゃなかったかな?」
「いえ、助かりました。なんだか捕まってしまって」
それは良かった、と彼自身も内心でほっとしながら笑みを返した。唯に何かあれば過保護などこかの誰かさんに恨み言をいわれるのは自分なのだ。
全くの偶然だったが、あそこを通りかかった自分に拍手を送りたい。
そんな彼は、数日後にその事実が唯からアルファードへ漏れることなどこのときは考えもしないのだった。