その白を傍らに添えて

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初潮について分かりやすく丁寧に説明してくれる婦人を前に、どうしてこんなことになったんだろうと唯は遠い目をした。
初潮なんて10年近く前に経験済みだ。
私はただ、生理用品が欲しいと言っただけなのに。
確かに30過ぎた男性に頼んだのはどうかと思うが、他に頼める人がいないのだから仕方ない、不可抗力だ。
…いや、本当は原因に心当たりがなくもない…嘘、激しくある。
多分99%自分のせいというか、怠惰な性格のせいというか、英語力のなさのせいというか、つい現実を見てしまう性格のせいというか、つまり自分のせいだ。
残りの1%は、環境がそりゃもう激しく変わったせいで生理が遅れいていたせいだと思う。

3ヶ月前。
残業のせいで帰るころには、すでに日付を超えそうだった。街頭がぽつんぽつんと照らす帰り道は、お世辞にも明るいとはいえない。
時折それに照らされてはのびる自分の影に視線を落としながらのろのろと歩いていると、黒いブーツのつま先が目に入った。男物だ。
疲れた頭でまず考えたのは、変質者だったらどうしようと言うことだった。
でもまぁ、人間そんなのに遭遇する確率はめちゃくちゃ高いわけじゃない…ハズ。
もしそうだったら、ご愁傷様…ってあきらめられるかぁ!
軽く暴走しだした思考をそのままに、とりあえず相手の顔を確認しようと顔を上げた。
「………」
先生!ものすごい美形が目の前に立っています!眼福であります!でもなんだかすごく睨まれている気がします!
いけない…そうとう疲れてるな、私。
疲れているせいか、一気にテンションが振り切れるが、戻りもはやい。
今度は冷静になった頭で、相手を確認した。
結論。

冷静になっても美形はやっぱり美形でした。

「…What is the child like you doing in such a place?」

what?excuse me?
please in Japanese.
私の嫌いなもの。日本に来て堂々と英語をしゃべる英語圏の人間。
にっこりと笑みを浮かべ、次の瞬間にはくるりときびすを返して走り出した。
うしろで呼び止めているような声がしたような気がしなくもないけど、そんなのは気にしない。
ピンヒールのパンプスを履いているせいで走りづらい。
がっ、と案の定石畳の凹凸にヒールが引っかかり盛大にこけた。
「い…痛い」
絶対、足をひねった。でも人間興奮状態だと痛覚鈍くなるから大丈夫…ってこんなことを考えてる自分は興奮状態かな? 
っていうか…石畳? 
暗かったし、夢中で走っていたから気にしてなかったけど、この辺に石畳の道なんてない。アスファルトのはずなのに。
それに、霧が。
暗いのはいつものことだけど、いつの間にか霧が立ち込めていて、視界がひどく悪い。
視界は悪い、けど。それでも分かる。
町並みが…日本のものじゃない。こういうのをヨーロッパ風というのだろうか。
後ろから足音が聞こえた。走っているふうではないけど、どこか早足だ。
追ってきてる? 
私は足が痛むのも気にせず、パンプスを脱ぎ捨てて立ち上がった。
持っていたバッグもそのまま地面に放置、というかそこまで頭が回らなかった。
町並みとか、なんで追いかけてくるのとか、よく分からないけど、これだけは分かる。

逃げたほうがいい!

とりあえず目に付いた角を左に曲がる。馬鹿正直にまっすぐ走っていたらすぐつかまってしまう。
ぺたぺたと、たいして大きくもない足音がやけに耳につく。細かな砂の感触を足の裏に感じた。

道の両脇には結構家や店が立ち並んでいるのに、明かりがまたくない。
街頭も、あっても電球が切れていたりやけに暗かったり。
月明かりだけが、やけに冷たい石畳の道をときおり照らす。霧が、少し晴れてきた。

早くも息が切れてきたけれど、きっとまだそんなに距離は走ってないんだろう。
後ろを振り返っても人影は見えないけれど、立ち止まるとわずかにあの足音が聞こえる。
どこか、隠れるところは…。
走りながら左右に視線を振る。細い路地が少し先にあるのが見える。暗くて先がほとんど見えないそれは、普段なら絶対に入らないだろうけど、いまなら隠れるにはもってこいの場所に見えた。

ためらったのはほんの一瞬で、すっと足を踏み込む。
その瞬間、がっ、といきなり傍から腕をつかまれた。
それは、肉の薄い節くれだったものだった。

すぐに老人のものだと分かったが、意外に強い力で引っ張られて困惑する。というか、走っている人間を無言で引き止めるとはこれいかに。
そもそも、この老婆は何がしたいのか。何故私は腕をつかまれているのか。
さっきひねった右足が今更ながらにじんじんと痛んだ。
遠くなっていた背後の足音がまただんだんと近くなってきているのが分かる。
「あの、離してくださ…」

月明かりでわずかに照らされた老婆の姿は小さなものだった。しかし全身をすっぽりつつむぼろぼろの黒い布…ローブとでもいうのだろうか、それをまとい、目まで隠れるフードをかぶっている姿に、声が出なくなった。
絶対!普通の人間じゃないだろう!
つかまれている手を引き剥がそうともがくが、相手の力が強くなるばかりで、一向にはがれない。
「You're... a stray child? I will take you to a good place.」
だから、英語は分からないんだってばー!

そうこうしているうちに、もともと大して距離の離れていなかった男の姿が見えた。
万事休す。はさまれちゃったし。
というかこの全身怪しいおばあさんに比べたら多少怪しくても美形のオジサマの方がましだ。
「help me!」
振り返って声を振り絞れば、男が駆け寄ってきていとも簡単に老婆の腕を払ってくれた。
そのままひょいっと子供のように抱えあげられる。
なおも手を伸ばしてきた老婆に、男は無言で棒切れを突きつけた。
それだけなのに、老婆は恐れをなしたように一歩後退さる。
男はそれを一瞥して、くるりと踵を返した。
男の肩越しにだんだんと小さくなっていく老婆を見ながら、私はほっと息をついた。
とりあえず、老婆の危機からは逃れられたらしい。
次の問題は、自分を抱えて歩くこの男性だ。老婆から助けてくれたからと言って、いい人だとは限らないわけだし。
そういえば、ここはどこなんだろう。もう日本じゃない気がしてきた。
町並みは全然違うし、老婆も、この男性も当たり前のように英語を話してる。
考えても答えの出ないことをつらつらと考えた。
足のうずきはますますひどい。もう嫌だ。
色々ありすぎて混乱していたせいと、疲れもあいまって、すごく自然に涙が出てきた。
私が突然泣き出したせいか、男性は少し目を見開いて立ち止まった。しかしそれも一瞬だけで、また早足で歩き出す。
どこへ連れて行かれるのか検討もつかなかったけれど、歩きながら時折そっと髪を撫でてくれる手が優しくて、そんなことは気にならなかった。

ずっと男性の肩口に顔をうずめて泣いていた私は、いつの間にか眠っていたらしい。お前は一体いくつだと。
時計を見ると、たいした時間はたっていないようだった。
体を起こすと、ソファに寝かされていたことに気付く。床には毛足の長い絨毯が敷かれていて、裸足でも冷たくなかった。
「…足、痛くない…」
つい先ほどまでもう歩きたくないというくらいには痛んでいたのに、何事もなかったかのようだ。
足首に包帯が巻いてあるから、あの男の人が手当てをしてくれたのかもしれない。
走り回って泥だらけだった足は、ついでにきれいにされていた。細かな傷も見当たらない。
「Did you notice?」
包帯の上から足を撫でていたら、頭上から声をかけられた。反射的にびくり、と肩が揺れる。
顔を上げると、先ほどの男性がカップを片手に立っていた。
ずい、っと無言でそのカップが差し出される。ホットミルクだった。
「May I ask you questions?」
「………Yes」
カップを受け取るとその温かさがじんわりと掌に伝わる。その温かさに促されるように、こくりと一口それを含んだ。
甘い後味。
「…Do you have the pain?」
足の包帯に目をやりながら男性が控えめに聞いてきた。
私がさっきそこに触れていたのを見ていたのだろう。私は首を横に振った。
嘘ではない。むしろ何事もなかったかのように違和感のないそれに首をひねりたくなるくらいだ。
「Where is your house?」
「………」
私は再び首を横に振った。
だって、ここがどこだか分からない。正直、もう道に迷ったとかそいうレベルではないだろう。
私の返事に男性は眉根を寄せた。それをぼんやりと眺める。
「…What's your name?」
「唯…唯・霧野」
「Judging from the face, are you about... 10 years old?」
…? よく分からなかったけど、今10歳という単語は聞き取れた…と思う。
私が首をかしげると、男性は少しの沈黙を置いて先ほどよりもゆっくりと言葉を発した。
「Are you about 10 years old?」
今度は聞き取れた。10歳くらいか? って…そりゃ確かに身長低いですけど!日本人は幼く見えるかもしれませんけども!
さすがに10歳って…小学生じゃないか。そりゃ確かにそのころからあんまり身長変わってないけどさ。
勢いで23歳です、と訂正を入れようとしてはたと気付く。

23歳→成人→保護してもらえない

「Yes,10 years old」
もうこの際13歳もサバを読むのはやりすぎだとかどうでもいい。
自分の変わり身のはやさに感心してしまいそうだ。おかしいな、私こんな人間じゃなかったはずなのに…。
でもこんな状況で放り出されたらたまったもんじゃない。
せめて多少なりともこの状況を理解できるようになるまでは面倒を見てもらわなければ困る。
英語だって話せないし。

かくして、よく分からない強制英語学習生活の幕開けとなった。


3ヶ月も前のことなのに昨日のことのように思い出せる。
あの時不精せずにちゃんと否定していれば…多少状況は違っただろうか。
まぁ…違ったとしても今より良い状況に転がっていたかは疑問だけど。
ぼんやり聞いていたら説明が終わっていたらしい。
婦人が事前にそろえてきてくれたらしい品々をはい、と渡してくれる。その中にショーツが数枚含まれているのを見て、唯はひらめいた。
「あ…あの!」
初対面の人にこういうことを頼むのはどうかと思うけど、アルファードさんに頼むよりは全然恥ずかしくない!はず。
でもやっぱり恥ずかしいぞ!
思いついたはいいが、やっぱり恥ずかしくなって口ごもる私に、婦人は優しそうに微笑んでくれた。
正直、このチャンスを逃したら次があるか分からない。
顔が熱い。自分でも真っ赤になっているだろうことは容易に想像がついた。
消え入りそうな声で、それでも何とか言葉にする。
「…し…下着とか、どうすれば良いか分からなくて…!」
下はいいのだ下は。いったいどうやって入手したのか、アルファードさんが用意してくれてる。
だけど、その…ぶらじゃーが…。たしかにささやかな胸ですけども!成人女性でノーブラは気が引けるというか恥ずかしいというか頼りないというか…!とにかく落ち着かないんです…!
アルファードさんは私のことを11歳の子供だと思っているから考えもつかなかったのだろう。
唯の言葉に、婦人は「あらあら」と苦笑をもらした。
「まったく、本当に男の人はダメね。気が利かないんだから。いいわ、一緒に買いに行きましょう。
それに、こんなドレスばっかりじゃあ外にも行けないでしょう? 
ブラックは純血だからその辺はやっぱりずれているのかしらね」

あんな良い男2人を気が利かないの一言で切り捨てられる婦人は、結構大物だと思いました、まる。