09...Marking-the first part
遠くで鐘の音が聞こえる。
わずかに脈打ちあふれていた血は、もう止まっていた。葵のからだから流れていたオーラも、完全に止まっている。
不覚にも手が震えた。
背中を走った震えは恐怖だったろうか。
一気に目が覚めた。薄ら寒い夢だ。
クロロは頭を振って夢の名残を振り払った。暖を取るように自分に寄り添って眠る体は、死体のように冷たくはない。むしろ熱を出しているために暖かいくらいだ。
昨夜葵を助けたのは、皮肉にも葵自身の念だった。
12時になると同時に絶状態になった葵の体は急速に回復した。
血があふれていたはずの傷口はふさがり、心臓は止まることなく動き続けた。
失われた血は戻らないのか、血の気はうせたままだったが。
わけが分からずに固まったクロロだったが、葵が目を覚ましたところで我に返った。
「葵、大丈夫なのか…?」
状況が理解できないクロロはぼんやりと視線を漂わせている葵の顔を覗き込み、恐る恐る尋ねた。。
葵は漂わせていた視線を自分の手のひらにあて、しばらく指を動かした後、何かを考えるように再び視線を漂わせた。
そして、傷口へと手のひらを滑らせる。そこまできて、ようやくその視線をクロロに合わせた。
「い…、ん…じ?」
のどからはひどく乾いた声が出た。よく聞き取れなくてクロロは顔を寄せる。繰り返された言葉は、「今何時?」
クロロは不可解に思いながらも、12時過ぎ、と返した。
その瞬間葵がなんとも嫌そうに顔を眇める。
「…死にたい…」
「こら待て。いきなりそれか」
せっかく一命を取り留めたというのに、何を言い出すのか。明らかに心の底から吐き出された言葉に、今度はクロロが顔を眇める。
そんなクロロなど気にも留めず、いかにも鬱です、といわんばかりのオーラを葵は漂わせ始めた。
「まったく…」
どこまで鬱なんだ、とあきれながらもクロロはあやすようにその黒い髪をなでてやる。本気で死にたいと思っている葵には悪いが、今のクロロは葵の鬱など軽く許せてしまうくらい安堵しているのだ。
なぜ助かったのかは分からないが、神というものが本当にいるなら、感謝したいくらいだ。
そんなクロロの上機嫌が伝わったのか、いささか拗ねたように葵はクロロをにらんだ。
「クロロのアホ、陰険、変態、へたれ、ハゲ」
「ハゲてない。いきなり何なんだ」
「クロロのせいだ」
おそらく八つ当たりだろうが、まったく意味が分からない。クロロは自分に背を向けようとする葵をやんわりと引き止めた。
「葵、できれば状況を説明してほしいんだが」
「クロロが朝から盛るからいけないんだ」
「………それとこれとは関係ないだろう」
「大有りだね。どうするんだよ、俺まで念が使えなくなって」
………は?
クロロは葵の言葉に疑問符を浮かべた。
念が使えなくなった、と葵は言った。自分のように、念を封じられた、ということはないだろう。では何故?
―――――日課をこなさなかった場合、天寿を全うしなくちゃいけなくなる。
不意に脳裏に葵の声が蘇った。
思い返してみれば、昨日クロロはいつもの音を聞かなかった。朝からクロロが葵のそばを離れなかったというのもあるし、葵が起きた後はそれどころじゃなかった。
「制約と誓約、か」
「気づくの遅いよ。もうお前死ね」
さも不愉快そうに吐き捨てて、葵はコンクリートの上で寝返りを打ってクロロに背を向けた。いつもと変わらぬ憎まれ口に思わず苦笑をもらして、クロロは葵の耳にそっと口付けた。
「ただいま」
午前中のうちに買い物に出かけたクロロは、12時をさす腕時計を見ながら、まだ葵は起きてないんだろうなと思いつつドアを開けた。
しかし意外なことに、葵の気配がするのは寝室ではなくリビングのほう。訝しく思いながらもリビングに足を向ければ、そこには尊大な態度でソファに寝そべる葵がいた。漆黒の瞳がクロロに向けられる。あまりご機嫌は麗しくないようだ。
「めずらしいな、起きてたのか」
葵は撃たれた後、傷口は完治したがひどい貧血で、ここ数日はベッドから出ることもできなかった。顔色は相変わらず悪いが、少しは良くなったということだろうか。
額に手を当てると、ひんやりとする慣れ親しんだ体温。
「熱はないな…何か食べるか?」
「いい」
「まったく…そんなんだから貧血が治らないんだぞ」
いったいどうやったら彼の空腹中枢は刺激されるのか。結構なダメージを受けたはずなのに葵の食欲は一向に上昇しない。いつもどおりといえばいつもどおりなのだが、クロロとしてはもう少し食べてほしいものだ。
そんな保護者的思考で頭を悩ませながらも、クロロは買ってきたものを袋から取り出した。
「葵、じっとしてろよ」
クロロの言葉に葵が目だけを動かす。クロロは特にためらいもなく手にしていたものを葵の耳にあてた。
バチン、という衝撃音が静かな部屋にやけに響く。
「…っ」
一瞬葵が痛みをこらえるように渋面をつくった。ふるり、と伏せたまぶたが震える。
「いきなりやるなよ」
「べつに、大して痛くないだろう?」
「しびれるんだよ」
「ああ………お前耳の感度はいいからな」
「エロ親父……ったくどうしてどいつもこいつも人の耳に穴あけたがるんだか」
かなり引っかかる言葉だが、おそらく以前はめていたピアスの送り主のことだろう。クロロはわずかに顔をしかめたが、反対側もあけるぞ、と葵を引き起こした。
耳にピアッサーをあてて、先ほどと同じように一気に引く。
バチン、とまた音が響いた。
「血は出てないな」
「消毒くらいしろっつーの。膿んだらどうするんだよ」
「その時は心置きなく膿んでくれ」
どこか楽しそうに目を細めて返すクロロに葵が訝しげな目を向ける。
「ヘタレのくせに。生意気だよ」
「ヘタレじゃない」
いつもの憎まれ口に律儀に返して、クロロは仕返しとばかりにピアスホールを空けたばかりの耳をなめた。
葵の体が小さく震える。その反応に気をよくして、クロロはゆっくりと葵をソファに押し倒した。
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