08...Provision of God-the latter part 

ぐったりとした体は、いつもより重く感じた。

血が止まらない。
クロロは追っ手が来ていないことを確認して、ようやく葵をコンクリートの上に下ろした。脈にあわせてどくりどくりと葵の胸から血があふれる。傷口の上に手のひらを重ねて強く圧迫したが、指の間からゆっくりと、しかし確実に血液があふれ出た。それと同時に、葵の体温までも失われていくのがわかってただ焦る。
どうする? 
医者に行かなくては、と思うものの。
弾は葵の胸…ちょうど心臓の辺り。おそらくあたっている。あの至近距離で打たれてしかも貫通していない。助からない、というのがどこか冷静な部分で分かっていた。
それでも、どうすれば助かるかを考える。助からない、という結論には気づかない振りをしていたかった。
せめてマチがいれば、と今は連絡を取ることさえできない少女のことが頭に浮かぶ。そのとき初めて、自分にかけられた念がわずらわしい、と本気で感じた。
葵の青い顔が、月明かりに照らされて良く分かる。いつも青白いけど、今は完全に生気が感じられなかった。
傷口からあふれる血もだんだんと勢いをなくしていく。
「…葵」
どこか祈るような気持ちで名前を呼んだ。他にどうすることもできない。
葵はぐったりとして指一つ動かさない。遠くで12時を知らせる鐘の音が聞こえる。
月のきれいな夜だった。


窓から差し込む光が目にしみた。いつのまにか夜が明けていたらしい。
一眠りしようかとも思ったが、そんな気分ではなかった。
葵が起きてくるまでにはまだずいぶん時間がある。眠りの浅い葵は、日ごろから長々と惰眠をむさぼっているから、午前中に起きてくることは稀だ。
食べ物がないことにも気付いていたが、なんとなく部屋から出る気にもなれない。
手には、クロロのお気に入りの本が握られていたが、ページをめくる手は遅く、内容もあまり入ってこない。
つまりは、何もやる気がしない。
クロロはそう結論付けて本を閉じた。
まず間違いなく葵は寝ているだろうが、寝室の戸を叩いて中に入る。自分の寝室にノックをして入る人間が一体どれほどいるのだろうか。
カーテンの引かれた部屋は、時間など関係なく薄暗い。早朝に起きると鬱がひどくなる葵のために、クロロが遮光カーテンを導入したためだ。
時計も、葵がその規則正しい音を嫌うために撤去した。
なかなかに葵用にカスタマイズされていて、ちょっと釈然としないものはある。
ベッドに近づくと布団の中から黒い髪がのぞいていた。小さく身じろぐ様子に安心して、ベッドに背を預けるようにして床に座り込む。
以前はクロロでさえも近くにいると眠れなかった葵だが、最近は慣れたのか起きる気配はない。…まぁ、同じ布団で寝ていればそれも当たり前だろうが。
ごろごろと寝返りを打つ気配を背中に感じる。それにふと、違和感を覚えた。
もともと眠りが浅いからよく寝返りを打つほうではあるが、それにしても回数が多い。それに、一度も目が覚めた様子がない。
寝返りを打っているときは、起きないだけで目が覚めていることが多いのに。
本を床に伏せてクロロは背後を振り返った。
布団にすっぽりともぐっていて顔は見えない。出来るだけ刺激しないように布団をそっとめくった。クロロに背を向ける形で眠っているために耳とうなじくらいしか見えない。
そっと髪を避けてやると、いつもは青白い肌がほんのり赤い。
まさか、とクロロは思わず掌を葵の額にあてた。
あつい、というほどではない。普通の人間くらいの体温。だがそれは、葵にしてはずいぶん高い。クロロの手のひらのほうが、わずかに低いくらい、というのはかなり異常だった。
「ん…」
寝苦しそうに再び葵が寝返りを打つ。そして、けだるそうに目を開いた。熱で潤んだ目は覚醒には程遠く、再びまぶたが落ちる。
「熱が出たか」
無理もない。予想できることだったのに、そこに思い至らなかった自分にクロロは舌打ちした。
氷を取りにいこうと腰を上げると、シャツのすそをゆるく引かれた。無意識なのだろう、葵の指がシャツにかかっている。そのままするりと落ちて再びベッドの上に力なく投げ出された。
「葵、大丈夫か?」
熱を帯びた頬に手をあてれば、わずかに低い体温が心地いいのか、猫のように擦り寄ってくる。そのまますがりつくように再びシャツをつかまれた。
「葵、氷を取ってきてやるから手を離してくれ」
「………氷?」
ようやっとクロロの声が届いたのか、葵が目を開いた。近い位置で視線が合う。
「いらない」
「いらないって…」
意外にしっかりした声で返す葵にクロロは困惑した。葵が変なのは今に始まったことではないが、こんなときまで困った発言をしてくれなくてもいいだろうに。
「お前熱があるぞ。冷やしたほうがいいだろ」
「熱なんてない」
だぁ!もう!
クロロは聞き分けの悪い葵に頭を抱えそうになった。どう見たって熱があるのに、本人にはわからないらしい。鈍いにもほどがある。
「あるんだよ。とにかく氷を…」
「いらない」
「葵」
駄々をこねる葵にクロロの声もついきつくなる。その声に、葵の瞳が不安げに揺れた。
その目をされると弱い。惚れた弱みだよな、いや惚れてないけど。
別に、怒っているわけではなくて、心配だからつい強く言ってしまったのだ。しかし葵にはその違いは分からないのだろう。クロロは落ち着け、落ち着け、と心の中で繰り返した。
「葵、分からないかも知れないけど熱があるんだ。冷やせば少しは楽になるから」
できるだけやさしい口調で諭すようにゆっくりと話しかける。葵は分かっているのか分かっていないのか、じっとクロロを見つめたままだ。
やがて葵の唇がゆっくりと開かれた。
「でもクロロ…寒いんだ」
ぐ、とクロロのシャツをつかむ手に力がこもる。疲れたようにまぶたがゆっくりと下がって、闇色の瞳が見えなくなった。
「寒い」
ため息のようにつぶやかれた言葉は静かに溶けて、クロロはその手を払うことが出来なかった。


最初と最後の台詞を指定して10題
4)「暑いな」→「寒いな」