03...Acceleration

「私は男が嫌い」と吐き捨てた彼女に彼は笑って男じゃなくて俺が、でしょと返した。
もう6年も前の話だ。


その日の葵の第一声は「うわ、なんて格好してんのクロロ。俺着替えようかな…」だった。
葵の前では初めてとなるクロロの団長姿。全身を黒で包むその格好は葵のそれに近い。
暗にペアルックは嫌だという葵にクロロはこめかみをぴくぴくさせた。
「ていうかそれ変態くさいよ? 
うわもしかして俺もまわりからそういう風に見られてんのかな? うわ鬱ー」
見られてても見られてなくても鬱だろうがお前はとクロロは激しく突っ込みたいのを奥歯をかみ締めて我慢。
「しかも眉ないし…何いつもの包帯みたいなあれは眉がないのを隠してたの? 
今全開だよ大丈夫? オールバックなんてしたら丸見えだよいいの? なんなら俺が描いてやろうか?」
「まて、まてまてまて!何でそこで墨と筆を持ってくるんだ!
描かなくていい!描かなくていいから!」
墨と筆を葵の手からひったくって必死に制止するクロロ。葵は残念そうに眉尻を下げる。
「ちっ…せっかくいい考えだと思ったのに…クロロのアホ。
もうそんなささやかな眉なら全滅させちゃえよ」
「どんな展開だそれは…こらこらこらこら!まったくなんだって毛抜きなんか持ってるんだお前は…」
そんなどうしようもないやり取りを繰り広げたのが午前11時ごろ。
その後あてつけのように真っ白な服に着替えた葵をなだめすかして家を出たのが午後1時過ぎ。
そして現在午後3時過ぎ。蜘蛛のアジトにはどことなく張り詰めた空気が漂っていた。
「団長、そいつなにね」
「フェイタン…殺気をしまえ。
こいつは俺の幼馴染で葵。危険はない」
いきなり鬱になって暴れださなければ、とこっそり胸中で付け加えるクロロ。
そんな団員達の殺気だったやり取りも葵はどこ吹く風で視線をぼんやりと漂わせている。一見やばい人に見えなくもない…というか見える。
それが余計に団員達の警戒心を強めているのだが。
クロロはアジトにきたときからちくちくと刺さる非難がましい視線の主に顔を向ける。実はここに来る前からこうなるだろうことを予測していたクロロは溜息を吐かずにはいられなかった。
「マチ…言いたい事があるなら…いやいいむしろ何も言ってくれるな」
クロロの言葉に視線の主はもともとの釣り目を更に吊り上げた。
視線の主…マチはクロロの幼馴染である葵と面識がある。むしろただ面識がある程度のかわいらしい仲ではない。本人は否定するだろうが、彼女もまたこの鬱な青年の幼馴染なのだ。
「団長…そいつ死んだんじゃなかったの?」
むしろ死んでくれといわんばかりの口調でマチは言い放ち葵を見遣る。葵はと言えば、ようやっとその視線に気付いたのかマチの方に顔を向けた。
「…クロロ、怖い人がいる」
「………葵」
わざとではないかというほどマチの神経を逆なでするようなことを言ってくれた幼馴染はクロロのコートの裾を引っ張っている。クロロはもう溜息すら出ない。
「団長…」
殺していいそいつと剣呑なオーラを漂わせ始めたマチをなだめるのにクロロはかなりの労力を裂く羽目になった。


音もなく廊下を歩きながら葵は窓から差し込む月影に目を細めた。長い廊下の先は闇にのまれて果てが見えない。それは葵の精神を彷彿とさせた。ぼんやりとその光景を眺めて立ち尽くす。無意識にふりかえれば反対側にも同じ光景が続いていた。
「出口がない…」
もう窓から出ちゃおうかなぁと考えている葵は、実はだだっ広い屋敷の中で盛大に迷っていた。そもそもこんなだだっ広い屋敷で迷う羽目になったのはクロロのせいだと葵は責任転嫁。今夜蜘蛛が盗みに入ったこの屋敷は個人所有だというのにいかんせん広いのだ。
別にお宝に興味のない葵は俺の傍を離れるなというクロロの言葉をさっさと忘れてふらふらしていたらはぐれてしまった。
仕方がないなぁとゆらゆらと円を広げると半径10メートルほど広げたところで人の気配をキャッチ。全部で8つ。ひとつは幸運にもクロロ、ひとつは不運にもマチ。もちろん、不運なのはマチにとって、だが。
残りの6つは知らない気配。すべて葵の方へ近づいている。おそらくクロロは自分の存在に気付いているだろうとあたりをつけて展開していた円をすっと引く。念を発動させると右手に慣れた重さを感じた。それはもうそうすることが当たり前であるかのように銃口をぐっとこめかみにあてて引き金を引く。カチリという音だけが静寂を破り、弾は放たれなかった。
「ウソくせぇー…」
2分の1の確率であたるロシアンルーレット。1日に最低でも3度葵自身に向けられるそれは、一度としてあたったことがない。
前方の気配が近い。葵はいったん銃を消した。おそらくクロロとマチが着く方が一瞬はやいと判断した葵は踵を返してクロロたちのほうへと歩を進める。暗がりに慣れた目が人影を捉えるのにそう時間はかからなかった。近づいてくる人影にひらひらと葵は手を振る。
その手をわざわざ駆け寄ってきたクロロはいささか乱暴につかんだ。葵が不快気に顔をしかめるが、それには構わず自分の傍を離れるなと言ったろうとクロロがしかりつける。
「…言ったっけ?」
「頷いただろうがお前…」
まったくこの幼馴染は人の話を聞いているのかいないのか。むしろ聞いてても都合よく忘れるタイプなんじゃなかろうかとうすうすクロロは思っている。残念ながら当たりだ。
マチはそんな2人にかかわるまいと一歩離れたところで口を硬くつぐむ。
クロロの説教を右から左に聞き流していた葵はそんなマチに気付いて「つれないなぁ」と呟いた。幼馴染であるというだけで人生の汚点だと断言できるマチはつれてたまるかと無言で葵を睨みつける。
こんなやつを相手にしていても意味がないと思いつつ反応を返してしまう辺りが幼馴染だということに幸運にもマチ自身は気付いていない。
先ほどからこちらに近づいてきていた気配は、姿こそ見えないもののかなり近い。マチは葵から視線を引き剥がして前方の闇を見つめた。クロロもそれに習う。葵だけが相変わらず逆方向を向いていた。

相手側に銃を持っていた人物がいたのか、サイレンサーを使用したとき独特の間抜けな発砲音がなり、ひとり相手側に背を向けていた葵の首筋をかする。
マチとクロロが動くよりもはやく葵が振り向きざまに三発撃った。どれも迷うことなく敵の心臓に吸い込まれてゆき、しかし血は出ない。撃たれた人間は気絶したのか絶命したのか、その場に倒れ伏した。
あと残り3人。
不意に葵の手の中から銃が消失。もともと近い位置にいた敵は一瞬にして距離を詰めた。葵の行動が読めないクロロはとっさにナイフへと手を伸ばすが、再び葵の手の中に銃が現れたのを認めて動きを止めた。マチもここは葵に任せて大丈夫だと踏んだのか、動かない。
また立て続けに3発。
奇跡的なほどの正確さでそれは相手の心臓を射抜く。やはり血は出なかった。
火薬の臭いが鼻につく。その中に血のにおいが混じっているような気がしてクロロが葵の首筋に目をやれば、白い皮膚がわずかに焼け、薄く血がにじんでいた。
「あんたでも役に立つことがあるんだね」
6年前の葵の姿しか知らないマチは意外だというように葵を見遣る。惚れ直した? とわざと聞き返してくる葵の頬を張りたい衝動に駆られつつも相手にしたら負けだと顔を背ける。
「ま、マチは男嫌いだもんね」
特に俺みたいな、と続ける葵にマチはたまらずナイフを投げつける。そのナイフを葵は6年前と変わらぬ優雅さで受け止めた。
葵のこういうところがマチは嫌いなのだ。鬱で鬱でどうしようもないくせに洗練された動き。同じように育ってきたはずなのにたまにその強さを見せ付けて、まるでお前たちとは出来が違うと言っているかのようなそれ。
そしてわざと自分の神経を逆なでするような言動。6年前にマチが気まぐれに吐き捨てた言葉をいまさら持ち出してくる葵の気が知れなかった。
「根に持つタイプは嫌われるよ」
これ以上葵の相手をしていたらマジ切れすると感じたマチは懸命にも先に帰る、と葵が何かを言い出す前に窓から飛び降りた。
「振られちゃった」
「あまりマチを怒らせるなよ葵…」
あとでなだめるのは俺なんだからとクロロが肩を落とす。
若い頃の苦労は買ってでもしろっていうじゃないと無責任に言い放つ葵にクロロは声を大にして言いたい。買う余裕がないくらい葵に苦労させられていると。
不意にゆらりと葵のオーラが揺れてその範囲を縮める。クロロはそれを見て葵の精神が坂を転がり始めているのを悟った。マチかそれとも俺か!? と急に葵の精神が落ち込んだ原因を探す。

結論。彼の基準は自分には分からない。

どうしようもない結論にたどり着いてクロロは頭を抱えた。
カチャリと葵が銃を持ち上げそれが彼自身に向けられると思ったクロロはその手をつかもうとして、固まった。銃は紛れもなくクロロに狙いを定めている。
「オイ、葵」
何をと続けようとしたクロロの言葉を待たず葵は引き金をいっそ清々しいほど迷いなく引いた。弾は出ない。
「出ない…よなぁ」
カシャン、と弾が入っていないのを確認した葵はため息まじりに呟く。
「葵…俺に対して説明はないのか…」
危うく撃たれそうになったクロロはどこか遠い目をしながら葵に尋ねるが、葵はそれを鼻で笑って一蹴。
「クロロってもしかして若年性健忘症? 大丈夫? オールバックなんかしてるからいけないんだよ禿げるよ?」
「若年性健忘症でもないしオールバックは関係ないし禿げてもない!」
何カリカリしてんのカルシウム足りてる? とどこからか小魚を取りだした葵の手をはたきたい衝動に駆られる。今泣いても許されるとクロロは確信した。
「この前言ったじゃん。当たる確立は2分の1。この銃は6発しか装填できないから3発しか打てないの」
「…は? あれは自分に撃つときの話だろう」
「違うよ、いつも」
それでは先ほど撃てたのはまぐれかとクロロは愕然とする。弾が出たからよかったものの出なかったら無傷ではすまなかっただろう。
「なんだってそんな念能力にしたんだお前は…」
スリルがあっていいだろ? という葵にクロロは本気で泣きたくなった。
葵はというと、もうその話に興味をなくしたのか青白く光る月をぼんやりと眺めている。瞳に先ほどまで灯っていた光はなかった。どうやら本格的に下降を始めたらしい葵にクロロは気休めではあるがマチのフォローにと口を開いた。
「俺は男が好きだぞ」

お前みたいなと続くはずだったクロロの言葉はしかし、ピロリロリンという場に似つかわしくない電子音にさえぎられた。音の元をたどれば葵の手に携帯電話。
そこから先ほどのクロロの言葉がリプレイされる。クロロは全身の血がざっと引くのを嫌というほど感じた。
その一瞬の隙を突いてマチに送っちゃえと葵は無情にも動画をメールに添付して送信。送信完了。意識暗転。
メールを送信したところで精神が底に達したらしい葵は完全に自分の意思をなくしたかのようにその場に座り込んだ。クロロは今この瞬間葵がうらやましくて仕方ない、と鬱な笑いを口から漏らしながら思ったとか。


最初と最後の台詞を指定して10題
5)「私は男が嫌い」→「俺は男が好きだ」