02...Independence from time

彼が決まって「おはよう」と言うのは、ずいぶんと日が高くなった頃。だから自分は決まって同じ言葉を返すのだ。


クロロは自分の家にいるというのにその家全体に円を展開していた。その円にかかる気配はひとつだけ。
先日公園で拾ってきた彼の幼馴染、葵。
葵はいまだ寝室で浅い眠りを漂っていた。
自殺願望の強い鬱の幼馴染がいつそれを行動に移すか知れないクロロは、いつでも対処できるように家の中でも円をするのが当たり前。視界に納まっていても安心できない葵が、視界に納まっていなければなおのこと。常に葵の動向を探ることはクロロにとっても精神安定の一種になっていた。
幼馴染を家に連れ込んでから夜は寝室を占拠されるために、ソファで寝ることを余儀なくされたクロロはもうひとつベッドを買おうかなぁときしむ体をほぐす。
葵の気配がゆらりとぶれるが、起きたのかどうかクロロには判然としない。厄介なことに葵の気配はいつも不安定なのだ。纏っているオーラも同じだが、それらは葵の精神状態を反映したかのように安定性がない。いつもふらふらと不安定で、むしろ不安定すぎて安定なのではないかと密かに思ってしまうぐらいだ。
しばらくして寝室のドアが開く。ふらふらとあちこちに腕や肩をぶつけながら葵はリビングにいるクロロに目も留めずに洗面所へと入っていってしまった。
ちなみに、洗面所にもともとあったかみそり等自殺の道具になりそうなものはクロロの手によってすべて撤去されている。
寝ぼけているときでも鬱な精神を徹底する葵は、視界にそれらしいものがあるとスパッとやってしまうのだ。
拾ったその日に洗面所を血まみれにされたことはクロロの記憶に新しい。
時計を見ると1時。
一般に鬱というのは日内変動があり、それは日照時間に関係があるとも言われる。日中は鬱症状が軽快し、夜は悪化する場合が多い。
しかし葵のそれはどういうサイクルなのか、まったく違った変動を見せる。長い付き合いのクロロにもそのリズムは分からない。
しかしクロロの経験則で言えば葵は朝がよくない。日の昇らない早朝に目が覚めたときが最悪で、もうその日は言葉が通じているのかさえ怪しい。食事も取らず、部屋に閉じこもってしまう。
一方で、症状が軽快するのは本当にランダム。まるで時間に支配されたこの世界で、葵だけがそれから逸脱してしまったように彼の精神は自由奔放に上下する。
今朝はどっちかな…とクロロは滅多に食べてもらえないかわいそうな遅すぎる朝食という名の昼食を作るために立ち上がった。
冷蔵庫を開いて食料を物色しながらもクロロの思考は続く。
一度病院に連れて行ってみようかと考えて即座に却下。以前葵が自殺未遂を起こしたときに医者のところへ連れて行ったのだがこれがまたすごかった。医者のところへ着いてすぐ葵は猛烈に暴れだし、何人か死傷者を出したあげくそのまま事切れたかのようにうつろな目で座り込んだまま無反応。それからしばらく一人の世界に入り込んで大変だったのを思い出しクロロは背中を駆け上がる悪寒にぶるりと体をすくませた。
ようやく洗面所から戻ってきた葵を振り返れば、真冬だというのに頭から水をかぶったらしくぼたぼたと滴るそれで濡鼠になっている
「なっ…にやってんだお前は!」
鬱な状態の葵を怒鳴りつけると尚更ひどくなると分かっているクロロは自らの衝動を抑えて声を抑える。多少口調がきつくなってしまうのはご愛嬌。
急いでバスタオルで水気を取りシャツを替えさせて更にその上から自分が着ていたセーターを乱暴に着せる。葵はおとなしくされるがままだ。どうやら今朝は比較的調子が良いらしい幼馴染にクロロはほっと息を吐く。
クロロより俄然細い葵にはそのセーターは当然ぶかぶかでそれが更に彼を細く見せた。
自分の使っていた毛布と一緒に葵をソファに座らせたクロロはコーヒーを入れてやるからここで待ってろと言い含めてキッチンに戻る。
すぐに胃を痛める葵のためにミルクを多めに入れたコーヒーをもってリビングに戻れば、今まさに葵が銃口を自分の頭に向けて引き金を引かんとしているところだった。
「葵!」
急いで葵へと手を伸ばすが、葵は躊躇いもなくその引き金を引く。
無情にもひかれた引き金はカチリというたいして大きくもない音を室内にいやに響かせ、しかしその後に続くはずの爆発音はいつまでたってもクロロに耳に届かなかった。
弾が入っていなかったのか、不発だったのか、葵の頭を吹き飛ばす予定だった銃をクロロはひったくる。それと同時にクロロの手からすっと銃の重さが消え跡形もなくなった。
「今日も外れ…。」
「今日もってなんだ今日もって…」
呆れながら、クロロは先ほど引き金を引いた右手に目をやる。その腕に絡む数珠は葵を拾ってきた日より大きく感じられた。また細くなったかなとクロロはその腕を取る。ひやりとした感触は本当に葵は生きているのかといつもクロロを不安にさせた。
「今の銃は念?」
こくりとクロロの言葉に力なく首を縦に振る様は自分の声が届いているのか怪しいところだ。
「まさかと思うけど自殺用の念じゃないよな?」
「………制約と誓約。一日最低1回は自分に引き金を引く。弾が当たる確立は2分の1」
「はぁ!?」
紙に書かれた文字を読み上げるように事実だけを簡潔に告げた葵にクロロは呆れるやら腹が立つやら焦燥に駆られるやら…とりあえず落ち着くためにわずかに痛みを感じ始めたこめかみをもみもみ。
「…一応聞くが、それをしなかった場合どうなるんだ?」
「…言わなきゃダメ?」
「かわいく言ってもダメ。言いなさい」
おそらく葵は無意識だろうが上目遣いなんてかわいい仕草を大の大人がやってもかわいくない…ハズなんだけどなぁとクロロは遠い目をする。
身長が低いというわけでは決してない。ただ標準を激しく下まわる質量のせいでクロロと同じ年なのに少年然として見える葵には違和感がない。
ちっと葵が忌々しげに舌打ちをする。そういうところは昔からかわいくないなぁとクロロは乾いた笑みを漏らす。
「…日課をこなさなかった場合…」
嫌な日課だなと思いながらもクロロは葵の言葉を待つ。続く葵の言葉は意外なものだった。
「…天寿を全うしなくちゃいけなくなる」
「は?」
それのどこが誓約と誓約なんだとクロロは眉根を寄せる。死ぬとか念が使えなくなるというならまだ解る。
しばらく悶々と考えてクロロはひとつの答えにたどり着き、しかしそれを振り払うかのようにかぶりを振る。だがその考えに行き着いてしまったが最後、他には何も浮んではこなかった。そしてその答えが正しいだろうことも悲しいかな、クロロには分かってしまったのだ。
「どこまで鬱なんだお前は…いやいいもう何も言うな」
誓約を反故にした結果が死であれば葵はおそらく24時間が過ぎるのをじっと待つだろう。それでは制約の意味がない。
本当にどこまで後ろ向きなんだとがっくり肩を落としたところで、どうしようもない笑いの衝動がクロロを襲う。
人間どうしようもないと笑ってしまうというが、どうやら本当らしいとクロロは口元を押さえる。
「俺としては、その腐った日課をさっさとやめて天寿を全うしてもらいたいね」
「………俺に死ねって言ってんの?」
「死ぬなって言ってんの」
むぅっと唇を尖らせる葵に食事を取らせるためにクロロが立ち上がれば、そういえばと何かを思い出したように葵が顔を上げた。
「おはようクロロ」
いままでのやり取りを帳消しにするかのような挨拶に、クロロは意識が飛びそうになりつつも踏みとどまりたまには自分もおはようといいたいものだと言葉を返した。
「おそよう」


最初と最後の台詞を指定して10題
8)「おはよう」→「おそよう」