01...God's pride
「久しぶり」
クロロが6年ぶりに会う幼馴染に声をかけたのは、気持ちのよい昼下がり。
その日彼の幼馴染がいつもの日課を終えた直後のことだった。
もう6年も前の話だ。
人間という生き物は、躁と鬱の精神状態ををゆるやかに往復する。それはグラフにすれば光の波長によく似ている。
正常な人間のそれは波が浅く、鬱の状態にあってもなんら問題はない。
躁と鬱を基準に人間を分けるなら、4つ。1つは言わずもがな、先に述べたタイプ。
2つめは天から地へ落ちるように、地から天へ昇るように波がきわめて激しい双極性鬱タイプ。
3つめは常にハイテンション、自信過剰誇大妄想、つまるところ単極性躁タイプ。
そして4つめは常に、鬱。
クロロの幼馴染は…生きているのが不思議なくらい単極性鬱気質。
6年間会っていなかったからてっきりもう自殺したものだと思い込んでいたクロロは、光さす公園のベンチに腰掛けている幼馴染を認めて思わず声をかけたのだった。もしかしてうつ病が治ったのかも…という浅はかな希望を抱いて。
もちろん、声をかけた次の瞬間にはその手に銃身の短い銃が力なく握られていて自分の浅はかさを思い知らされたわけだが。
そして次の瞬間幼馴染から発せられた
「………だれ」
と言う言葉には? とクロロは目を点にした。
それもそのはずで、6年前まで生まれたときに気力と体力を使い果たしたかの様な幼馴染―葵の面倒を見ていたのはもっぱらクロロで、葵が今こうして生きているのはクロロのおかげだと言っても過言ではない。それは自他共に認めるところだ。それほど葵の世話は大変、疲れる、油断ならない。目を離すと自殺未遂。目を離さなくても自殺未遂。
補足をすると、単極性の鬱にも確かに波があり鬱は鬱でもちょっと鬱からかなり鬱の間を行ったり来たり。かなり鬱の時には自殺する気力もないので積極的に死んだりはしないが、葵は食事を取るなどの生命維持を怠るので消極的な死に片足を突っ込んでいる。 しかしちょっと鬱のときはなまじっか気力があるばっかりに自殺をはかる。
ちなみに、ちょっと鬱からかなり鬱に落ちていく瞬間がもっとも最悪なわけだが。
そのどうしようもない葵の精神サイクルに多くの時間と労力をさいて10年以上も面倒を見てやったと言うのに再会の言葉が「だれ」ではさすがのクロロも凹むだろう。
そんなクロロの胸次を知ってか知らずか、葵は瞳に暗い影を落とす前髪の隙間からぼんやりとクロロを見遣る。
クロロが衝撃を受けているときにしかし葵は今日の日課もある意味で成功に終わってしまったことにその精神を急降下させていた。
「…本当に覚えてないのか? クロロだよ」
わずかな希望にすがるようにクロロは自分の名前を告げるが、葵は無情にもその細い首を横に振る。
「お前昔からどうしようもない鬱だったけど、物覚えはいいほうだったろう? いったいどうしたんだ…」
「………記憶は常に24時間でリセットされるんだ」
「…………………は?」
さらりと爆弾を投下した葵にまたしてもクロロは茫然自失。幼馴染の台詞を反芻。そして理解。
「…それはつまり記憶を保持できないって意味?」
「それ以上でも以下でもない」
うそだろう? と誰に言うでもなくクロロは呟いた。極度の鬱気質だけでも厄介なのに、その上記憶障害。本当によく生きていたものだとクロロは溜息をつく。
もしも今日彼の存在に気付かなければ自分は幸せでいれたのに…とクロロは力なく葵の隣に腰をおろした。久しぶりに見る葵の横顔は6年前とたいして変わらない。強いて言うなら、もともと白い肌(正確には青白い)が余計白くなった気はするが。あと、もともと細いのにまた細くなったとクロロは痛める必要のない胸を痛めた。
放っておけばいい。そうすればこの幼馴染はどこぞでのたれ死ぬか自ら命を絶つかするのに、見つけてしまった以上クロロは葵を放っておくことなどできないのだ。それは昔から自分にも不可解な感情で、面倒だし柄じゃないと思いつつも余計なお世話をやいてしまう。自分が見張って死なせないようにするのと、放っておいて死なせてやるのと本当はどっちが葵にとって良いのかクロロには分からない。それでも、見つけてしまった以上は、自分が面倒を見ている以上は死なせない。
それはもうずっと昔に、葵が初めてクロロの前で命を絶とうとしたときに決めたことだ。
クロロは立ち上がり葵の手を引く。抵抗されるかと思ったが葵は引かれるままにゆらりと立ち上がった。全身を黒で包む葵は、服の趣味すらクロロの記憶のなかの葵と同じものなのに、記憶が欠片もない。
それでも葵という人間の体裁を保っていられるのは、ひとえにそのどうしようもない鬱な性格のせいだろうかとクロロは溜息をついた。もしそれが当たりならクロロは葵の鬱に感謝しなくてはいけなくなる。それだけはごめんだと馬鹿な思考を頭を振ることで振り払った。
ふと葵の右手に目をやると、手に握られていたはずの銃はいつの間にか姿を消し、代わりに数珠のようなのもがその細い手首に重たげにかかっていた。それは葵の腕には大きすぎる気がした。
「とりあえず、俺の目の届くところにいてくれ」
自分の家につれて帰ろうと手を引くとふらふらと着いてくる葵にクロロは無防備すぎだと頭を痛め、それでも昔と変わらぬその様子に懐かしいと苦笑をもらした。
次の日ベッドを1人で占領したあげく昼過ぎにのろのろと起き上がった葵にクロロが人好きのする笑顔で「初めまして」と言えば、幼馴染は鳥肌を立てたあげくに血色のよくない顔をこれでもかとしかめて
「何言ってんのクロロ。その顔キモい」
と言い放ち、瞬時に葵に騙されたことを悟ったクロロは葵と入れ替わりにベッドを占領して人生初めての不貞寝をしたのだった。
3)「久しぶり」→「初めまして」