晴れ時々雷雨。その弐拾四

 ぱん、と頬を打つ音が高く響いた。女性の力と侮って念でガードしていなかったのだが、どうやらあたりどころが悪かったらしい。頬が切れて血が滲んだ。て言うか指輪は盲点だったわ。ゴリっていった。次からはビンタくらう時は指輪の有無を確認しようと心に決めた尚樹である。
 地味に口の中も切れてしまったので念で止血を試みる。
 む、口の中のオーラとか気にしたことないからなかなか難しい。
 俯きがちな視線は、乾いた地面と、場所に似つかわしく無いエナメルの華奢なハイヒール、すらりとした脚、透け感のある生地を上から重ねた上品なスカートと順に辿っていく。自分の視界なのに、どこか違和感がある。
 胸元にかかる明るい茶髪、細い顎と、赤い口紅。その口元が開くのが、ひどくゆっくりに見えた。
「ほんと、使えないんだから。あんたみたいな出来損ないが」

 ふっと意識が覚醒した。時間を確認しようとスマホに手がのびる。ひどく意識が鮮明な割に、重く沈み込む空気はまだ朝では無いと告げていた。
「夢?」
 妙にリアルで、痛みさえ思い出せる。そしてどこか懐かしい。
 少なくとも、尚樹は女性に平手打ちされたことはないはずなのだが。
 時間を確認すれば、深夜2時を回ったところ。普通ならまだ起きるには早い時間だが、9時には寝てしまう尚樹にとってそれほど早い時間ではない。二度寝はそもそもするタチではないので、夜一を起こさないようにそっとベッドをでた。
 ケトルをセットしてマグカップにティーバッグを用意する。三角ティーバッグを考えた人は偉大だなぁ、と紅茶を入れる度にしみじみ思う。
 すぐに蒸気をあげ始めたケトルが小さく音をたてた。別にヤカンでもいいのだが、尚樹は頻繁にお茶を沸かすので、はじめから部屋にあったそれをありがたく使っている。
 お湯を注いで1分も待てば美味しい紅茶の出来上がりだ。冷たい牛乳を注いで猫舌用に温度調整。
 リビングに移動してパソコンの電源に手を伸ばせば、待つほどもなく起動する。最近のパソコンは人間よりずっと寝起きがいい。
 忍足達と動画をとったり、夜一の動画を撮るようになってから入手したものだが、元手は動画の収益なので、痛む腹はない。
 朝食までにはまだまだ時間があるので、撮り溜めておいた夜一の動画を編集して時間をつぶすのもいいだろう。
 とりあえず、ニュースサイトにざっと目を通す。雑多な記事が入り乱れるそれに、尚樹は正直情報の真偽については懐疑的である。ただ、コナンの世界と繋がっていることに気づいてからは、出来るだけ目を通すようにしていた。
 名探偵の動向は大変分かりやすい。これからどこで事件が起こるのかもおおよそ分かるのだから利用しない手はない。
 米花町付近の催し事には近づかない、鈴木財閥が絡むイベントは当然NG。宝石、のワードも要注意。大きい事件なら、これでだいたい避けられる。流石に細かい事件までは無理だろが。
 目下の心配事は、尚樹のかかりつけの病院が杯土中央病院であることか。そのうち幼馴染に転院の相談をした方がいいかもしれない。多分そう遠くないうちに爆破される気がするので。
 病院から処方されている鮮やかなオレンジ色の薬を1錠取り出して口にする。少しだけ糖衣錠のほのかな甘さを楽しんで奥歯で噛み砕いた。
 昨日食事中に口の中を盛大にかんで、しっかり口内炎ができている。さっきの夢もそのせいかもしれない。
 いつもの病院から処方されている薬は、尚樹がおやつ代わりに飲んでいたらほどなく幼馴染みに取り上げられてしまい、これは唯一尚樹が好きに飲んでいいと渡されている薬だ。他の薬と違って精神に干渉してくる感覚がないそれは、おそらくビタミン剤だろう。どのビタミンが何に効くのか尚樹にはよく分からないが、口内炎には多少効果があるだろうと信じてもう1錠飲み込んだ。
 なんとなく気分がのったので、配信ボタンをポチッと。きっとビタミン剤が効いたのだろう。
 正直時間も時間なので人など集まらないだろうと思ったのだが、ちらほらと人が集まり始める。なんちゅー時間に配信しとんねん、というコメントにはそっくりそのまま返したい。
「なんか変な夢みて目がさめたから……って言ってもいつも4時前には起きてるんだけどね。まぁのんびり作業配信でもしようかと。」
 視界の端に流れていくコメントをとらえながら、スマホで撮り溜めた動画に適当にテロップをつけていく。人のセリフはともかく、夜一の分は尚樹が聞き取って地道に入力するしかないのが難点。もういっそ字幕なしでもいいのでは? と最近思っている。
「ん? 夢の内容?」
 変な夢って何? というコメントがいくつか。みんなそういうの気になるんだ、と尚樹は首を傾げた。予知夢や明晰夢、といったものにまったく興味がない尚樹としては、他人の見た夢などかけらも気にならないので意外な反応だった。
 紅茶に口をつけると、口内炎に少し障る。そういえば、夢の中で口の中のオーラを操作するのは難しいと思ったのだったか。現実ではどんなものかと意識を集中。夢の中とさほど齟齬は無いようだ。
「なんか女の人にビンタされる夢。ビンタだけなら大した事ないんだけどさ、指輪ついてたらしくて、結構ごりっていったんだよね。今度から指輪の有無はちゃんと確認しよーって反省したところで目がさめた。」
 打たれた頬を押さえる。やはり口内炎の位置だ。
 流れていくコメントは様々だ。心配するものもあれば、笑っているものもある。ちょっと引かれているのは解せない。夢の内容など、尚樹の意思ではどうにもならないのだから。
 そんなコメントに紛れて、相手の容貌を尋ねるそれはなんだかひどく目についた。夢だというのに、妙なことを気にする。思い返せば、夢の内容を尋ねたリスナーの中に同じ名前があった。普段の配信では見かけない名前だが。
「顔ねぇ……視界が下向きだったからちゃんと見えてないなぁ。鼻から下あたりは見えてたけど。赤い口紅だったとしか。髪の毛は長かったかなぁ、明るい茶髪でゆるふわな感じ……」
 しっかりと紅を引いた口元からこぼれる言葉は、決してゆるふわでは無かったが。
「あ、俺の名誉の為に言っておきますけど、女の人に平手打ちくらったことないからね」
 夢は夢、現実とは違う。だというのにコメント欄はいつの間にか尚樹が平手打ちをくらったことがあるという事で落ち着いた。


 この世界に来て2回目の桜は先日のお花見がピークだったらしく、今はもう新緑をたたえていた。
 先日3年に上がった尚樹は、それほどメンバーも変わらず、教室も位置が変わった程度でぱっと見は変わり映えのしないそれを後方の席から見まわした。デカくて視界の邪魔、という事で跡部も忍足も後方だ。開いた窓から入る風に白いカーテンが揺れている。
 違う事と言えば、2年の教室ではほとんど目にしなかった呪霊がちらほら視界をかすめるところか。七海の話では、人の負の感情に集まりやすいとのことなので、そういう事なのだろう。エスカレーター式とはいえ、最終学年は何かと苦労があるのかもしれない。尚樹は別に進学してもしなくても構わないので気楽なものだが。七海の誘いがなければ、このままここで高校生になっていただろう。
 忍足たちも試合期間ではないからか、ゆるい空気だ。跡部は生徒会長かつテニス部の部長なので、普通に忙しそうだが。
 尚樹は知らなかったが、入学当初から跡部は部長らしい。ありなのか、それは。
 やっぱり普通の学校とはちょっと違うんだよなぁ、と英語のテキストを取り出す。
 次の授業は英語なので、尚樹にとっては特に難しいこともないのだが、丸暗記系だけは目を通しておく必要がある。例文は例文通り回答しないと先生に注意されてしまうのだ。
 合ってるけど! 合ってるんだけど! とすごく複雑そうな顔で注意をされた。多分言い回しが少し違ったのだろう。そんなに気に食わないのなら、バツをつけてくれても尚樹は一向に構わないのだが。
「なぁ、水沢。水族館行かへん? 跡部にタダ券もらったんよ。なんやでっかい観覧車もあるらしいで」
 ぴらぴらと忍足がチケットを手に話しかけてくる。水と光の水族館、の文字。響きだけでおしゃれそうだ。
「水族館なのに観覧車なんだ?」
「なんやちょっと特殊なやつらしいで」
「観覧車に特殊とかある? うける」
「観覧車の輪? が二重になってるらしいで。説明が難しいけど。あとめちゃくちゃでかい」
 つまりたくさん乗れる、という事だろうか。二重のイメージがあまりわかないが、尚樹はそう結論づけた。水族館も観覧車も子供の時以来だ。
「海沿いやから、眺めもええと思うで」
「ふうん? 跡部も行くの?」
「跡部は行けんのやって」
「ああ、それでもらったんだ?」
「せや。一枚で4人行けるらしいから、亜久津も行けるで」
「じゃー誘ってみる。」
 あと一人をどうするか、という話には仁王と千石の名前があがった。とりあえずはないちもんめのトークに流しておく。
「水族館ってペンギンいるかな?」
「ペンギンはどうやろなぁ。イルカとかはいそうやない?」
「イルカショー的な?」
「そうそう。シャチでも可」
「だいたい水飛ばしてくるやつじゃん」
「ああ、ざばーってな」
 濡れるのは遠慮したいので、尚樹は後方座席希望だ。
「ゴールデンウィークにリニューアルオープンするんやって」
「へえ。それで招待券?」
「せや。跡部んところもいくらか出資しとるらしいで」
 流石、跡部財閥。もしかして鈴木財閥とは財閥同士、園子と顔見知りだったりするのだろうか。
 いや、でも向こうは高校生だし、そもそも週刊誌違うしな、と浮かんだ考えを否定した。
 手元のテキストをパラパラとめくる。今日のテスト範囲はどこだったか。
「忍足、今日何ページ?」
「またお前見とらんやろ……37や」
「大丈夫、ちゃんと今から見るから」
「かー、これやから英語のできる奴は」
「いや、これ別に理解力いらんやん……あー、忍足と話してると口調うつっちゃう」
 ナルトと一緒。話し方に特徴があるとついつい引きずられてしまうのだ。
 書いてあるものを覚えるだけの作業なので、思考は完全に停止したまま、左側に英文、右側に日本語訳の書いてあるページをチラリと眺める。
 理解しようとすると英語まで日本語に見えてきてしまうのだ。そういう能力なので仕方ないが、文面を覚える時には少し困る。内容を理解してしまう前にページを閉じた。
「なん、まさか今ので覚えたん?」
「覚えたっていうか、まぁ目を通したというか」
「意味わからん。記憶力どうなっとん」
 そうは言われても、英語の例文は見開きで10問しかないのだ。それも授業開始5分程度覚えていればいいだけなので、それに割く労力としては妥当だと尚樹は思う。
「忍足はいいんだよ。ちゃんと理解する必要があるからさ。俺はこの辺のことは理解しなくていいし、覚える必要も特にないんだよね」
 英語が必要な仕事に就く予定は今の所ないし、ハンターの世界ではそもそも英語が無かった。元の世界に戻らない限り、尚樹が言語で困ることはない。前提条件が違うのだから、割く時間が違うのも当然のこと。
「それが英語のできる奴の発言なんやって」
 ぶつぶつ文句を言いながらもテキストを眺める忍足を横目に、尚樹は先程チラリとしか見えなかった水族館のチケットを思い返した。
 使用可能期間はゴールデンウィーク中、観覧車、水族館への無料券。東都水族館。
 場所の規模的に爆弾か。いや、でもコナンが子供になった遊園地で起きたのはたしか殺人だった。
 名前的に、鈴木財閥のものでは無さそうだが。
 スマホを取り出して東都水族館を調べる。
 リニューアルオープンの文字。世界初の二輪式観覧車、イルカショー。他にも遊戯施設や店舗の変更について書かれていたが、この感じだと、観覧車か水族館が怪しい。
 世界観的に、一般人の大量虐殺はないと思うが、忍足がその範疇に含まれるか否か。流石に一人で行かせるわけには行かないよなぁ、と頬杖をついて教室内に沸いた呪霊を円でとばした。


 引き出しの中を確認して、亜久津は眉間に皺を寄せた。尚樹に渡してからずっと使われていなかった薬が減っている。昨日確認した時は減っていなかったのに、随分残りが少ない。10回分あったはずの薬は、残りは4つ。
「薬使ったのか?」
 亜久津の質問に、あまりピンときていない様子で尚樹が首を傾げる。使いかけのシートを掲げると、ようやく思い至ったらしい。一つ頷いて口を開いた。
「ああ、なんか変な夢見たから、栄養不足かと思って」
「変な夢?」
 正直なぜそれで栄養不足という結論に至るのかまったく理解できないが、気にしたら負けである。あとなんで「気分を落ち着ける薬」という名目で渡しているのに栄養剤扱いするのか。中身がビタミン剤じゃ無かったら危ないところだ。多分このノリで睡眠薬もまとめ飲みしたんだろうな、こいつ、とかすかに頭痛を覚え出したこめかみに手をやった。
 そんな亜久津の心境など知りもしないのだろう。尚樹はいつもの無表情でお茶の準備をしている。
 尚樹が無造作に使っているレトロな見た目のケトルは、海外のお高いメーカーのものだが、多分本人は欠片も気づいていないだろう。かくいう亜久津も気づいていなかったクチだが、忍足の反応で気づいた。冷蔵庫もお高いらしい。たしかに日本ではあまり見ないデザインだとは思っていた。中学生男子の部屋をちょっと可愛くしようとするな、と異国の地にいる尚樹の父親に言ってやりたい。
 ティーバッグを揺らしながら思い返すように尚樹が少しだけ目を伏せた。ゆらりとマグカップの中で琥珀が線を描き滲んでいく。
「んー、知らない女の人にビンタくらう夢。指輪が付いてたらしくてさぁ、予想外にダメージでかくて。大変勉強になりました」
 亜久津はツッコミどころ満載の尚樹の話に、ぞっとして一瞬言葉につまった。その情景が鮮明に思い描けたからだ。
「……知らない女だったのか?」
「そう。ゆるふわパーマの明るい茶髪の女の人。あんま顔は見てなかったけど、口紅が赤くてなんか印象に残ってるかも。あ、一応言っておくと若い女の人にビンタされたい願望は一切ございません」
 何だその注釈は。
「……なんか言われたのか?」
「いや、たまたま作業配信でその話になって。俺はビンタされた事ないって言ったのに最終的にされた事になったしされたい願望があることになった」
「お前……なんつー話題を」
 大変デリケートな内容のはずが、急にしょうもない話になった。頼むからそういう話をダダ漏れにしないでほしい。あとそのうち個人情報をぽろりしそうなので、一人で配信するのもできればやめてほしいのだが。これもしかしてとんでもない時間に通知の来ていた配信か。朝起きて通知の時間にため息をついたばかりだ。頼むからもう少し遅い時間に寝て遅い時間に起きてくれ。
「どんな夢って聞かれたから。隠すほどの内容でもなくない?」
 いや、まぁ普通はそうなのだが。尚樹が忘れているだけで、実際にビンタは食らったし、なんなら1回や2回の話ではない。
「……変態認定されたくなかったらそういう話題はやめとけ」
「いや、まさか夢の話題からそんな流れになると思わないじゃん。オレの過失ではないと思います」
「結果を見てモノを言え」
「ぐうの音もでない!」
 出来上がった紅茶を受け取って居間にもどる。薬の件は少し悩むところだ。本来なら主治医に報告するところなのだろうが全然気が進まない。どうにも医師の口から聞く尚樹の様子と亜久津が見ている尚樹の様子が一致しないのだ。正直被害妄想を抱えているようには全く見えないし、幻覚や幻聴があるようにも見えない。
 亜久津が違和感を覚えているのは、記憶が不自然に抜け落ちていることと左手を使わないことくらい。なのでこれ以上薬を増やされたくない。
 亜久津の後ろについて台所から戻ってきた尚樹は、そんなことなどお構いなしに引き出しの中から件の薬を取り出してぱくりと一口。ためらいなど一ミリも感じられない手つき、その表情。
 今、本当にお前は情緒不安定か? と問いただしたい。
 一方尚樹は、引き出しの中から出てきた七海の名刺に、そういえば、と思考を巡らせた。
 進学の話は、尚樹にとってそれほど重要ではない。
 別に将来に夢や希望がないとかそういう訳ではなくて、自分があとどれくらいここにいられるか、そういう話なのだ。
 だから別にどこに進学したって構わないと思っているし、なんなら働いたっていいと思っている。残念ながらこの身体は中学生なので、働くにはいささか早いかもしれないが。
 それに思い返してみれば、確か七海は全寮制だと言っていたので、お世話になっている幼馴染み母子にも伝える必要があるだろう。
「あ、そういえば学費……」
 聞いてなかったがいくらぐらいなのだろう。いや、氷帝より高い事はそうそうないか。
 それでも一応出してもらう立場なので、保護者への連絡も必要になってくるだろう。七海もよく相談するように、と言っていた気がする。
「ねぇ、じん君」
「なんだ」
 短い返事に振り返る。視線はこちらを見ていない。真面目に勉強していろところを悪いが、今のうちに話しておないとまた忘れてしまいそうなので要件を切り出す。
「忍足がさぁ、跡部に水族館のタダ券もらったらしいんだよね。だから一緒行こーって」
「ラインで言ってたやつか。何で俺が一緒に……チッ、分かった。いつだ」
 めちゃくちゃ嫌そうじゃん。眉間に皺を寄せながらまだ熱い紅茶を啜っている幼馴染みは、確かに水族館も観覧車も好きそうには見えない。
「別に無理しなくても大丈夫だよ?」
「いや、まぁ忍足ひとりだとなんかあった時に困るだろ……」
 平和な現代社会で一体何があるというのか。いや、爆弾とか殺人とかいろいろあるか。なんなら今回はそれを危惧して了承したとも言える。もちろん、そう都合良く同じタイミングで同じ場所にいるとも限らない訳だが。
 お化けらしきものもいるしな、と窓ガラスをすり抜けてきたクリーチャーを円で吹き飛ばした。プライベートもなにもあったものではない。紅茶の入ったマグカップはまだ熱くて口を付けられそうにない。
「ゴールデンウィークにリニューアルオープンするんだって。人多そうだし、その後半に行こうかって今の所話してる」
「あー……」
 ゴールデンウィーク、と言う言葉に亜久津が難しい顔をする。
「あれ、もしかして用事ある? なんか千石もはる君も試合あるって言ってたんだよね。跡部もそうらしくて」
 そう、チケットをくれた跡部はもちろんだが、他の二人も試合が入っていたのだ。忍足が普通に誘ってきたので、尚樹はその可能性をミリも考えなかった。
「……忍足は試合ないのか?」
「らしい。下級生だけなんだって、試合。跡部は部長だから。じん君も試合?」
 もしかしてゴールデンウィークはどこも部活なのか。尚樹は園芸部なので、その辺の事情には疎い。
「あー、大丈夫だろ、多分」
「それ本当に大丈夫なやつ? 無理しなくても大丈夫だよ?」
「別に無理してねぇよ。駄目になったら言うから心配すんな」
「そう? じゃあ忍足にもそう言っとくね」
「ああ」
「あとさ、七海さん分かる?」
「ああ、なんか外国の血が入ってそうな人だろ」
「入ってんのかな?」
「入ってんだろ。髪の色とか、肌の色とか。純粋な日本だったらスゲーわ」
「ふうん? そんなもん?」
 最初こそ尚樹もそうあたりをつけていたのだが、名前にそういう要素が無かったので最近は日本人かと思っていた。ポアロの店員も、多分あれで日本人だろうし。
 カラーリングでの判断はここではちょっと難しい。
「で、その七海さんがどうした」
 逸れそうになった思考は、亜久津の声で中断された。流石幼馴染み、よく分かっている。
「そう、その七海さんが、高校の先生らしいんだけどね」
 以前亜久津が夏祭りで会った時は、普通のサラリーマンと言っていた気がするが。膨れ上がる不信感。身なりはきちんとしていたし、尚樹の体調を指摘してくれた恩もあるので亜久津は一旦口をつぐんだ。
「これ、名刺。高校うちに来ませんかって」
 目の前に差し出された名刺に七海建人の名前と東京都立呪術高等専門学校の文字。
「呪術」
 聞かなくても分かる、これはオカルト的な奴だ。この学校本当に存在するのか? とまず先にそこが引っかかる。聞いたこともない。
 一般市民にはあまり公にされていない可能性はもちろんあるが、亜久津ではその辺確認しようがない。とりあえず、怪しいことこの上ない。
「……一応聞いておくが、理由は」
「なんか、俺自分じゃ分からないけど、呪い? とか悪い霊に触れる機会が多いらしくて、自衛のためにって。エクソシスト的なのを養成するとこらしいけど、必ずならないといけないわけではないらしい。あと俺はお祓いパワーはあんまないので、向いてはないって」
 思ったよりまともな内容で亜久津は黙り込んだ。いや、世間一般的にまともでない事はそうなのだが、尚樹に関しては心当たりがある。
 本人は霊感なんてろくにないが、子供の頃に神隠しにあったことがある。
 神社の境内で行方不明になった尚樹を、彼の祖父はここにいる、と言い切った。日が暮れるころ、探しても見つからなかった尚樹は、その言葉通りそこにいた。
 行方不明になっている間にお饅頭をもらって食べた、という尚樹に肌が泡だったのを覚えている。
 彼の祖父もそれには難しい顔をしていた。そういう事に詳しい人だったから、きっといろんな言葉を飲み込んだろうことは想像にかたくない。
 口にしたものは戻らない。今もその欠片が尚樹の体のなかにあるのか、亜久津にはわからない。もうずいぶん昔の話だ。
 その時に、亜久津は尚樹があちらへ行かないようにいくつか頼まれごとをした。神社で鈴を一緒に鳴らすのもそのうちのひとつ。
 すでに尚樹の祖父は亡くなっているが、今猛烈に話をしたくなった。これは、亜久津の手に余る案件だ。
「……それで、お前はどうしたい」
「俺は別になんでも。どこ行ってもそんな変わんないだろうし」
「いや、だいぶちげーだろ……」
 少なくとも、この学校はだいぶ違う。確かに、どこにいても勉強は出来るだろうが。腹が立つことに、学校の成績は結構いいのだ。日本語も怪しいくせに。
「一応、ちゃんと保護者と相談して決めなさいって言われたから」
「そうかよ……」
 内容にかけらも常識がないのに対応は常識人のそれ。七海のイメージ通りだ。
「一旦保留な。七海さんとは俺が話す」
「はぁい」
 尚樹の祖父が存命なら相談したかったところだが仕方ない。
 とりあえず、七海と会う前にこの怪しい高専について調べておきたい。話を鵜呑みにするには、非現実的すぎる。全寮制ともなれば、今みたいに毎日様子を見るというわけにはいかなくなるのもきがかりだ。もちろん、いつまでも亜久津が面倒を見られるわけではないが、まだ早い気がした。
 中学生の亜久津がこう言ったことを調べるのは難しい。そもそも秘匿されている可能性もある。あまり頼りたくない伝手ではあるが、亜久津の中で心当たりのある伝手は一つしかない。いや、正確には2つあるのだが、尚樹の父親を頼るのは憚られた。絶対に話が大きくなる上に反対する未来しか見えないので。そうなると、残りは一つしかない。もう一つの伝手もあまり気は進まないが仕方ない。
 深くため息をついて、その名刺をスマホのカメラにおさめた。