晴れ時々雷雨。その拾陸

10月31日、渋谷。
溢れかえる人の波。仮装する人々に、ハロウィンか、と尚樹は遅まきながら気がづいた。
別に渋谷に来るつもりは無かったのだが、気がついたら渋谷にいた。多分降りる駅を間違えたのだ。
時刻は21時すぎ。なぜこんな時間に外をほっつき歩いているかというと、成田空港が思いのほか遠かったとしか言えない。
10月は波乱というか、ツッコミどころの多すぎる運動会を終えてまさかの修学旅行である。
尚樹はもっと冬のイメージだったのだが、なにせ中学生だったのは遠い昔の話なので詳しくは覚えていない。とりあえず10月は勉強する気がないということはよくわかった。特に2年生。
しかも修学旅行がドイツと聞いて真顔になった尚樹である。
え、まってそんな急に言われてもパスポートとかある……? と内心冷や汗が止まらない。
ああ、だからドイツ語なんてマイナーな授業があるのか……と少し現実逃避をしてしまったのは仕方のないことだと思う。いろいろと普通とは違う経歴をもつ尚樹だが、根っからの庶民であることは変わりない。中学生の修学旅行がドイツとか、なにそれ状態である。
全員パスポートを持っているていで話を進められて困惑した尚樹だが、確認したらちゃんとパスポートはあった。ゆきがちゃんと保管してくれていたので、感謝感激雨霰。
初の海外旅行がテニプリの世界になるとは夢にも思わなかった尚樹だが、念能力のおかげで言葉には困らないので、これはこれで良かったのかもしれない。
お土産もたくさん買って、他の荷物と共に跡部が郵送するというので、やり方のわからない尚樹もそれに乗っかって、ほぼ手ぶらという身軽さで日本に帰ってきた。迎えが来る、というお金持ちとはその場で別れて、えっちらおっちら電車で帰路についてみればなかなかの時間がかかった上での今である。あと普通に乗り間違えたっぽい。
それにしても人が多い。ろくに身動きが取れないくらい、駅構内には人が溢れていた。
電光掲示板に忙しなく流れていく文字を目で追う。
どこか異様な雰囲気。人身事故でもあったかな、と停滞した人の波を眺める。
ざわついた空気に円を広げると、いくつか気になる反応。そのうちのいくつかは、尚樹の円に触れるとともに掻き消えていった。たぶん、まっくろくろすけ的なやつだ、たぶんおそらく。
もしかして、今ので消えなかったやつにはこちらの存在を感づかれてしまっただろうか。実体がないぶん、念に対して敏感な印象がある。この程度で消滅してしまうくらいなのだから、それなりの感触や衝撃があるのかもしれない。要検証、と言いたいところだが検証のしようもない。とても言葉が通じる相手には見えない。
こんなことに思考をさかなければならないなんて、まったく最近の東京は物騒だ。テニプリはいつからこんな物騒な漫画になったのか。
いや、割と物騒かつ人間離れしてたわ、と妹に付き合わされて見たドラゴンボール的な映画版を思い出してひとり納得した。
10月にしては生ぬるい風が頬を撫でる。地下だというのに、意外にも強い風が髪を揺らして鬱陶しかった。
アプリを開いて、最寄り駅までの乗り換えを確認する。事故情報はまだ出ていない。はたしてこのまま電車に乗って良いか、悩ましいところだ。駅以外で止まってしまうと面倒臭いことこの上ない。
「……なーんか、妙な気配」
尚樹の経験則からいえば騒動の起こりそうな気配なので、速やかに撤退したいところだが、いかんせん人が多くて身動きがとれない。
流石にこの人数は異常では?
尚樹にとってハロウィンは縁遠い行事なのだが、どうも世の中は違うらしい。
くぁ、と口からあくびが漏れる。素直に成田からどこでもドアで帰れば良かったと後悔しても、後の祭り。これだけ人が多い場所での使用は難しい。
一度眠気を自覚すると瞼が下がってくるのははやかった。重い瞼を擦っていると、ぼんやり突っ立っている尚樹にぶつかりながら周りの人間が移動しだす。ようやく電車が来たのかと顔を上げた先、不自然な人の流れとこの世界では見ることのなかったオーラの流れ。
ギィィィと金属の擦れる音、ホームに入ってくる車両。我先にと流れ込む人の流れに、これは流石に乗れないかな、と諦めて壁に寄りかかった。幸いにして電車は動いているようだし、どうせ次がすぐにくるだろう。
視線を巡らせると、幾らかパニックに陥っている人、人。寝ぼけた尚樹の見間違いでなければ、人ではない異形のものもちらちら混じる。
そしてその中で一際目立つ、空を映したような、光を孕む青い瞳。もうひとつ欠伸を漏らしたところで、一瞬の静寂。五感すべてに流れ込んだ情報の波に、尚樹は眠気も相まって感覚を全てシャットダウンした。


*23:01
ふっと意識が浮上する。
目が覚めた時には、立ったまま気絶している人の姿。一人や二人ではないその光景に、尚樹は内心激しく引いた。壁に寄りかかって寝ていた自分も人のことは言えないが、流石に目は閉じていたと思う。なんなら仮眠をとって少しスッキリしたくらいだ。
とりあえず異常事態であることは疑いようもないので、視線だけ動かして周りの様子を探る。下手に動いてことの元凶に捕捉されたくない。
立ったまま気絶している人間の他に、明らかに死んでいる者、人かどうかも分からない肉塊、床に壁に、鮮やかな血飛沫。それでもここは静かなものだった。空気の流れさえも止まっているかのような静寂。動いている人の気配がない。電気は付いている。
さっさと離脱したいのは山々だが、この状況で監視カメラに残って大丈夫だろうか。いや、流石に犯人とか言われても自分も気絶していたとかで押し通せるか。真実は寝ていただけだが、映像からは判断できまい。
立ち尽くす人と人の間をぬって進みながらスマホの時間を確認。2時間近く寝ていたのか。
流石にこの状況で幼馴染を迎えに呼ぶ気にはなれなかった。ゆらゆらとオーラを揺らす。本来なら少ないオーラでカバーするために尚樹は円をたいらに伸ばすが、ここは地下4階。これより下はないので、ドーム状に粗めに延ばしてカバーする事にする。異常に小さな相手で無ければこれで大丈夫なはずだ。
一番近い階段に足をかけたとき、円の縁が人ではない何かにふれた。
ぱしゃん、とローファーが水面を踏む。無機質な駅構内の床は、瞬きのうちに色を変えた。急な視界の変化に顔を上げると、うず高く積まれた骨。視界はすぐに景色を変える。ザッピングのように目まぐるしく変わった風景は夜の渋谷。些か荒廃しているが、知った風景だ。目の前にいつか見た邪神の姿。記憶をたぐり寄せる。
「……えーと、すくなさんだっけ」
なぜこんなところに。以前は神社から出られなそうだったのに。自分以外の誰かがあそこから指を持ち出したのか。
とても嫌そうに顔を歪めた邪神の、その刺青の意味を考える。たぶん、何か意味があるのだろう。彼が司る物の何か。少なくともただのおしゃれではないはずだ。
「おい……何普通に人の生得領域に入ってきてる」
「しょうとくりょういき」
とは?
俺は家に帰りたかっただけなのにとんだ言いがかりでは?
しょうとくりょういき、が何かは尚樹には分からないが、先程の、明らかに現実ではない場所を指していることは何となく察した。禍々しいことこの上ない感じだったが、邪神なのでそれも仕方ない。
さて、この場において以前の約束は有効か否か。
「そういうすくなさんこそ、渋谷のハロウィンに参加するなんて、意外と現代っ子ですね?」
「何言ってるかさっぱりだが、不名誉なことを言われているのはわかるぞ、クソガキ」
「まあまあ、そんなに照れなくても……似合ってますよ、学生の格好」
神様だし、絶対千年とか生きてそうなものだが、場所はハロウィン当日になるとニュースになるレベルで盛り上がる渋谷。思わず生温かい視線を送ってしまうのも致し方ないだろう。
「いい度胸だなぁ……オイ」
「あ、暴力反対。約束忘れてないですよね?」
「……チッ」
良かった、ここでもちゃんとあの約束は有効のようだ。正直、攻撃されないだけでありがたい。人間程度が勝てるはずがないのだ。なんせ神だから。殺しても死ぬ気がしない。
指切りって案外馬鹿に出来ないよなぁ、と過去の自分を褒め称えた。

宿儺にしてみれば興が削がれた、どころの話ではない。
漏瑚相手に遊んでいた宿儺は、あからさまに舌打ちをした。近くにいた呪詛師も呪術師も区別なく、この惨事に巻き込んで遊んでやろうと思っていたのに。いや、実際そうしていたのに、前触れもなく自分の生得領域に足を踏み込んだのは、少し前に契約を交わした相手。短い付き合いだとたかを括って交わしたそれが、ここにきて宿儺の行動を変えさせた。
自分よりいくらか大きい体を引き寄せて体の影へ。
空から落ちてくる漏瑚の術式、極ノ番「隕」はすでに眼前にあった。放っておけばその熱量にこの辺一体は焼け野原だ。
周りにいる術師たちは宿儺が許可を出すまでここから動くことはできない。動けたとしても逃げるだけで精一杯なはず。つまり、尚樹を守ることができるのは自分しかいない。
宿儺が助けなければいけないのは尚樹一人だが、致し方ない。
「開」

「あれ、パンダさんだ!」
宿儺が術式を放つか放たないか、というタイミングで尚樹が声を上げた。
「……このっ」
明らかに非常事態とわかるだろうに、宿儺の元を離れようとする少年のカーディガンをひっつかむ。
当の本人は伸びるからそこ掴むのやめて、などと呑気なことを言っているが絶対に今はそういうタイミングではなかった。目の前に迫っていた炎が見えていなかったとでもいうのだろうが。少なくとも肌で感じるほどの熱量だったはずだ。鈍いとか鈍くないとか、そういう次元の話ではない。宿儺が打ち消したから無事なだけであって、本来なら骨も残らない。
「お前は、チョロチョロするなっ!」
「えぇ……横暴すぎでは? あ、神様だから仕方ないか……」
なにやら自己完結しているが、どういう納得の仕方だ。あと何を勘違いしているか知らないが、自分は神様ではない。
「おい、そこの」
「は、ハイ!?」
この際だ。ぺい、と尚樹をパンダに押し付ける。戦闘の邪魔だ。視界に入ってしまえば、助けざるを得ないので、はやくどこかに行って欲しい。
「一般人だ、どっかやっとけ」
目にも止まらぬ速さでその場を離れた宿儺に、文字通り尚樹をお腹に押し付けられたパンダは呆然とした。どういう状況だ。
「パンダさん、ハロウィンだから渋谷にいるの?」
「うん、ちょっと何言ってるか分からないかな」
さわさわと掌でパンダのお腹を撫でながら見上げる瞳。
この状況下に関わらず、以前と変わらない態度。宿儺が一般人だ、と言ったその言葉を信じていいものか。たしかに以前会った時は普通の中学生に見えたが、今は違う。恐怖も戸惑いもないその表情と声。宿儺と知り合いらしい、その態度。
「君、どうしてここにいるの?」
「あ、俺はハロウィン関係ないよ。修学旅行の帰り。なんか電車止まっちゃってさ、仕方ないからバスか歩きで帰ろうと思って」
その言葉を理解するのに少しかかった。あまりにも予想外の答え。ハロウィン、修学旅行。どちらも平和すぎる単語だ。
「……修学旅行にしては、荷物が少ないみたいだけど?」
「旅先から送ったー。あ、パンダさんにもチョコあげるね。ドイツ土産。おやつに買ったやつ」
「ドイツ!?」
今時の中学生は修学旅行でドイツに行くのか……とパンダは手のひらの中のチョコレートを眺めた。英語ではないアルファベットの並び。嘘にしてはいささか手が混んでいる。
「おい、パンダ、どうすんだ」
「日下部」
物言いだけな視線。それは何に対する視線なのか。少なくとも、彼を押し付けられたのはパンダのせいではない、はずだ。
「すくなさん、どっかいっちゃったねぇ。俺も早く帰んないと足がなくなっちゃう」
じゃあね、と名残惜しげにパンダの腹から離れ、手を振って歩いて行く少年に呆然とした。
「え、ちょ、まっ」
「おい、パンダ」
慌てて引き留めようとする手は、低い声で話しかけてきた日下部に気を取られて少年には届かない。
「随分と話が違ぇじゃねぇかよ。肉体の主導権は虎杖にある、そういう話だったろ」
「えぇー……今この状況でその話する? いや正しいかもしんないけど。何、日下部にはあの子目に入んないの!?」
宿儺の方が急を要する話だけども。無防備な一般人をこんな渦中に放置するのもどうかと思う。そもそも、先程までしつこいぐらいにこの辺を徘徊していたのは、一般人がいないかを確認するためで、それを言い出したのも日下部だ。
確かに、さっきの感じでは虎杖の肉体の主導権は宿儺が握っていた。日下部の懸念も分かる。
だが、漏瑚の攻撃が届く寸前、迷い込んだ一般人を守ったのも彼だ。どうみても宿儺は彼を助けていたのに。
パンダは宿儺から尚樹を託された。どっかやっとけ、という雑な指示だったが、あれはつまり安全な場所へ移動させろ、と同義だ。
蝿頭すらも見えていなそうな少年。ぱっと見、宿儺がわざわざ守るほどの何かかがあるとは思えないが、パンダとしては何かしら鍵を握る人物だと思うのだが。
その少年の姿は、灯りの少なくなった渋谷の街に溶けて、すでに見えなくなっていた。

*23:19
チリンと耳に響いた風鈴の音。灰原の示す先に、朱い鳥居が見えた。
「え?」
それが鳥居だ、と認識した次の瞬間には、七海は別の場所に立っていた。鳥居の続く細い参道。参道の側にある石灯籠がぽつりぽつりと先を照らしていた。
死んだのか、と妙に納得する。漏瑚の術式をくらった時点で、死んでいてもおかしくはなかった。真希や直毘人がどうなったのか、それすらも分からないほど朦朧としていた意識は妙にすっきりとしていた。
死に際に灰原が見えるなんて、未練がましい。結局、ずっと、心残りはそこだったのか。
真人の手が、自分の腹に触れていた。平時ならともかく、今の自分にそれを防げるだけの呪力はない。
チリン、とまた風鈴の音。
提灯を持った狐面の子供が少し離れた鳥居の影から顔を出した。いつか祭りでみたその姿。先導する様に歩き出したその背中を追う。ひらりひらりと跳ねるように前を行く歩調に合わせて揺れる朱い兵児帯が、近所の子供を思い出させた。
そう長くもない道のりをついていくと、最後なのだろう、鳥居が途切れたところで道も終わっていた。広がる暗闇。七海には、やはりその先に何も見えなかった。子供の頭を一つ撫でて、先の見えないそこへ足を踏み入れる。不思議と恐怖もためらいもない。七海さん、と誰かに呼ばれた気がした。

面倒なことになる前にさっさと離脱するに限る。バス停を探すふりをして尚樹は人気のない道を進んだ。幸いにして誰も追ってきていないようだ。いくら鈍い尚樹でもわかる。修羅場だ。
すくなの反応は主張しすぎていて円をしていなくてもうっすら感じ取れる。存在がうるさい。
邪神であるすくなと、エクソシスト系パンダ、その他関係者っぽい人間。どう考えてもろくなものではない。
「駅の中もなんか変だったし」
うっかり駅のホームで眠ってしまったので時計の針は頂点が近い。明日は学校が休みとはいえ、早く帰りたい。本来ならばとっくに夢の世界に旅立っている時間だ。
あかりがないところを見るに、このあたりの電気系統は死んでいるのだろう。尚樹にとっては好都合だ。どこでもドアでダイナミック帰宅を決めようと、念の為隠の状態で具現化してドアノブをひねる。開いたドアの向こうから倒れ込むように現れた人間を、咄嗟に抱き留めた。
念を習得した当初から付き合いの長い能力だが、流石に初めての事態だ。咄嗟のことに、ドアの具現化は解けてしまった。腕の中の人物に視線を落とす。
暗くて見えづらい上にずいぶんとすごい姿だが、知っている人物だ。
七海さーん、と呼びかけたが、反応はゼロ。オーラを見た感じ、ぎりぎり死んではいないようだが。
とりあえず、とアスファルトに転がしてスマホのライトでてらしてみると、なかなか衝撃的な姿。
「ん? 左目無くなってる? てか焼死体て初めて見たけどなかなかグロいな……」
死体ではないのだが、死体一歩手間ぐらいだ。
どうするか、と思案する。尚樹の手持ちには、意外と回復系のものが少ない。理由は簡単で、そういうのは大体アイテムではなく魔法なのだ。あと、それ系のアイテムを具現化すると、ジャンルの縛りで使える道具が限られてしまう。ので、出来ればよく分からない今の状況では安易に使いたくない。
「んー、怪我が治るか分かんないけど……」
時間を巻き戻すタイムふろしきにかけてみる。壊れたものも確か治っていたし、被せすぎると赤ちゃんまで戻る、という記憶があるので、怪我も治るのではないだろうか。ゆったりと具現化していくそれ。色と形。どこでもドアとは使用頻度が違いすぎて、なかなか具現化しない。幸いなのは、ドラえもんの道具の多くはそう複雑な形ではないということだ。
時間がかかりつつもなんとか具現化したふろしきを七海にかける。確か、赤い面を表にしておけば時間が戻ったはず。もし逆だった場合七海は骨か灰になっていることだろう……笑えない話だ。どのくらいかなー、とスマホで時間を確認。画面の隅にある圏外、の文字に今頃気づいた。
「え、じん君に連絡できないじゃん……」
電波が無ければ尚樹にとってはもはや使い道のない道具だ。ポケットにしまって、そろそろかな、とふろしきをめくる。
「……やば、ちょーっと若返っちゃったかも」
まあ怪我も治ったし、瑣末な問題である。大丈夫、問題ない。狙って元の年齢に戻せる気もしないので放置だ放置。若返る分には文句もなかろう。あとは知らん顔しておけば万事解決。
幾分シャープになった輪郭と薄くなった体躯は下手すると十代だが、尚樹は気にしないことにした。
「七海さーん、七海さん、起きて。大丈夫ですか?」
軽くゆすると薄く瞼が開く。片目がない。材料足りてないと治らない系か、と思い当たる原因に顔を顰める。自分の怪我を治す時には気に留めておこう。
「……家入さんのところに」
イエイリさん? と聞き返す前にまた気を失ってしまった。怪我がひどかったから、疲れているのだろう。左目とおなじなら、失われた血液は戻らないはずだ。とんでもなく貧血だな、と青白い顔を見下ろす。
まぁ、イエイリさんのところに連れて行ってってことかな、と検討をつけて、七海を背負う。ほとんど同じ身長なので、俵抱きにするには多少無理がある。
「えーと、尋ね人ステッキ」
子供のオモチャにも見えるが、尚樹はそこそここれにお世話になっている。イエイリさんがどんな人か分からないので、ぜひ的中させて欲しい。そして七海さんを病院にでも連れて行ってもらって、輸血してもらわないと流石に危なそうだ。
月明かりに照らされた路地に伸びる影はひとつだけ。先程まで鳴り響いていた破壊音も今はなく静かなものだ。つられるように尚樹も足音を消して歩き出した。

暗い道の先に、僅かな灯りが見えた。街中が停電している中の明かり。円を広げれば明らかに多い人の気配。2階を見上げれば、強面の男性と、妙齢の女性。白衣を着ているから医者なのかもしれない。彼らの視線が、七海に向いていることからおそらくここに目的のイエイリさんがいるのだろうと尚樹は当たりをつけた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
女性の方が気だるげに挨拶を返してくれた。男性の方からは明らかな警戒を感じとる。
「イエイリさんて人のところに連れてってって、七海さんに頼まれたんですけど、ここで合ってます?」
「私だよ」
「硝子」
短い静止の声。まさか現代日本で中学生の自分がこうも警戒されるとは思わなかった。世知辛すぎでは?
「七海さん、道で倒れてたんですけど預けてもいいです? 酔っ払っちゃったのかな」
厄介ごとの気配を察知してすっとぼける。多分七海さんの知り合いだろうし、さっさと預けて家に帰りたい。
2階から意外にも軽い身のこなしで飛び降りた男性におぶっていた七海を渡す。いささか驚いた表情。若返ってることには出来れば気付かないでいてほしい。きっと暗さのせい。
「さて、七海さん送り届けたし、俺はいい加減おうち帰ります。流石にこの時間だとお迎え呼べないから電車かな……」
時間的に終電も危うい。人目さえなければどこでもドアが使えるのでそう悲観はしていないが。
問題は、ほぼ崩壊していると言っても過言ではない渋谷の街だ。この辺りはまだ無事だが、駅周辺はなんだかすごく血生臭いことになっていた。これは本当にテニプリの世界観なのかと流石の尚樹も疑問を抱く。
尚樹としては、まあ自分の家に影響が無ければそれでいいといえばそうなのだが、あまり自分の生活圏内でこういうことが起こるのは好ましくない。ナルトやハンターの世界観なら気にしないが、東京でこれはまずいだろう。あくまで平和に生きたいのだ。

尚樹には自分の念能力の中で、使えるのに意図的に使っていないものがいくつかある。
道具を使用した結果、将来的に自分が不利益を被るもの、あるいは原作への介入が著しいものだ。どちらもしっぺ返しを警戒して今まで具現化してこなかった。
ドラえもんの道具の中には、使い方如何によっては神の所業とも言える道具がある。今から使うのは、そのうちのひとつ。
「……何を言っている? 街の状況を見ていなかったのか?」
うろんげな男性の視線に構わず、鳥の嘴にも似たそれを手の中で具現化していく。作り自体は酷く簡単で、使ったことは無かったが尚樹の中で欲しい道具No.1のそれは呆気なく形をもった。しっかり隠の状態で具現化したそれを口にあてる。さて、出来るだけ無関心な通りすがりのフリをしたい。口からでる言葉は全て嘘。
「別に、いつも通りでしたけど? あ、みんな仮装してましたけどね」

日本は今日も平和ですと誰にともなく呟く尚樹に夜蛾は眉をひそめた。渋谷の街はすでに壊滅状態のはず。呪霊が見える見えないの問題ではない、現実に破壊と殺戮は起こっている。それを駅にいた人間が知らないはずがない。ましてや彼は七海をここまで連れてきたのだ。惨状を見ていないはずがないのに。
「君は何者だ」
夜蛾の質問に、口元を隠していた手がするりと落ちる。その、何気ない動作が目についた。
「何者と言われても……むしろそっちこそ何者ですか? ここ病院じゃないですよね?」
俺は七海さんの近所に住む中学生です。とってつけたような返事。
ほとんど変わらない表情からは、彼が嘘をついているのか判断できない。今この場所で、無傷で生きている、その事実だけで呪詛師を疑う。ここには硝子がいるから尚更。七海を助けたあたり、敵ではないのかもしれないが、高専関係者でないことも確かだ。
警戒する夜蛾に構わず、少年は背を向けた。もし彼が本当にただここに居合わせただけの非術師なら、止めるべきなのだろう。下手に動いては命の危険がある。ただ、どうしても普通の子供には見えなかった。
「七海さんに、お大事にって伝えてください。それじゃ、おやすみなさーい」
緩く告げて、夜の帳に消えていく背中を夜蛾はただ見送るだけだった。

どうせ一度具現化してしまったわけだし、と尚樹は貧乏性を発揮して手に持っていたままだったソノウソホントを口元にあててスマホを取り出した。つい先ほど致命的な事に気づいたばかりだが、対策は早めに打つのが吉。これは、電波が無ければただの箱。
「このスマホはどこにいても通じる」
これで、万が一圏外でも大丈夫。いつでも助けを呼べるというものだ。

渋谷駅前。
瞬きをするその一瞬だった。終電へと急ぐ人の波、破壊されていない建物。先程まで混沌としていた街並みは、いつもの姿を取り戻していた。
その場にいた術師たちは、呪術師も呪詛師も例外なくその光景にあっけに取られる。
そしてあれだけの騒ぎだったのに、翌日のニュースは例年通り、渋谷交差点で盛り上がる人間たちを取り上げるだけだった。