晴れ時々雷雨。その拾四

呪術高専は広大な敷地の割に人の数が少ない。誰ともすれ違うことなく用事を終えた七海は、腕時計の時間を確認した。5時半。今から戻って祭りのある稲荷神社まで1時間といったところか。それなりの人出になりそうだが、はたして目的の人物には会えるだろうか。そう広い会場ではないとはいえ、混み具合によっては難儀しそうだ。
「なーなみ、もう帰り?」
背中からかけられた声に振り返る。184の自分が見上げる人間はそういない。
「五条さん……報告書を出してきたところですよ」
「この後暇なら食事でもどう?」
「すみません、急ぎの用件でなければ今日はちょっと……近所で祭りがあるみたいなので」
「祭? なんでまた急に? そういうの興味あったっけ?」
「知り合いが教えてくれたんですよ」
「知り合い!? 七海も隅に置けないねぇ〜」
よくもまあ今の短いやり取りでそこまで飛躍したものである。こう言うやり取りは、七海には不得手だ。痛くもない腹を探られるのも好かないし、意味のない言葉遊びはもっと好かない。
「言っておきますが、中学生ですよ」
しかも、男だ。このまま相手をしていては時間を浪費してしまう。謎のテンションで絡まれながらも歩く速度は変えない。
「中学生!? 七海それは犯罪だよ……!」
「だから違います、ただの顔見知りです」
「え〜、わざわざ顔見知りの中学生に誘われたからって、夏祭りに行く? 七海が?」
いささか誤解があるようだが、祭りがある、と教えてもらっただけで、決して誘われたわけではない。わざとそう言う言い方をしているのかもしれないが。祭りに中学生という単語だけでよくもまあペラペラと。絡み方がまるきり小学生男子のそれである。
「失礼な人ですね。少し気になることがあるので、見回りみたいなものですよ」
「気になる事って?」
今朝方、言葉を交わした少年。その背後から顔を出した蝿頭。足元にも何匹かまとわりついていた。今のところ本人に目立った変化はないが、放っておけば少なからず影響があるだろう。
「考えすぎかも知れませんが……最近その子の周りに低級の呪霊を見かけるようになったんです。以前はそんな事無かったので少し気になって」
「ふぅん? 最近なんか変わった事あった?」
「いえ、私の知る限りでは……本人の気質的には無縁だと思うんですけどね」
表情こそ乏しいが、人当たりはよく、七海みたいに歳の離れた人間にも躊躇いなく話しかけてくる。幼馴染だという少し強面な少年ともいつも仲良さげに歩いていた。あの年頃には珍しく、花屋で見かけることも良くある。彼のフラットな空気からは、あまり恐れや憎悪といった感情は感じられなかった。
「呪物関係ではなく?」
「可能性はなくもないですが……、呪物に寄ってきているにしては低級ばかりなので。ただ少し数が多いのが気がかりですね」
本人が原因ではないとなると、彼の行動範囲にあまり良くない場所があると考えた方がいい。肝試しなどもそうだが、人から気味悪がられていたり、負の感情を集めやすい場所は足を踏み入れるだけで良くないものを連れてくる。
「ふぅん? 本人は見えてないんだ?」
「おそらくですが。まったく注意を払っている気配がないので」
サンドイッチを作ってもらう、と呑気に言っていた様子からして、とても見えているとは思えない。見えていないにしても、呪霊の存在を何となく感じ取ってしまった人間は、もう少し目や表情に出やすいものだ。


夏休みといえば、夏祭り。ハンターの世界にはそう言ったものはなかったので、尚樹にとってみれば随分久しぶりのことだ。
安物だから気にせず遊んでおいで、とゆきがわざわざ浴衣を着せてくれたのだが、なぜ自分だけ子供帯なのか。
正式には兵児帯というそれを尚樹は見下ろした。ふわりと柔らかい帯は窮屈さはないが、何やら腑に落ちないものがある。しかもなぜか幼馴染はしっかり普通の帯なのだ。角帯と呼ばれるそれは、尚樹からすれば大人用の帯である。本来どちらも大人が使ってもおかしくない帯なのだが、その辺の知識がゼロな尚樹には知る由もないことであるし、実際問題その辺の文化が廃れてしまった一般人の間で、大人がそれをつけることはあまりない。
「ゆきちゃん……なぜ俺は子供帯なのでしょう……」
「かわいいから。そっちの方が楽でしょ? たくさん食べておいで」
はい、と背中にうちわを差し込まれれば、とってもお祭りスタイルのできあがり。
どう見ても女物の巾着。小銭ばかりのがま口が入ったそれを、尚樹は特にこだわりもなく受け取った。
夕方になってもまだまだ明るい道を下っていく。生ぬるい風にのってかすかに食べ物の匂い。
「お祭りひさしぶりだねぇ」
「……まあな」
ぺたぺたと安物のサンダルが音を立てる。流石に下駄は用意しなかった。足が痛くなるのが目に見えている。
神社の前の通りにはすでにいくつもの出店。フライドポテトには大変心揺さぶられるが、出来ればもっとお祭りらしいものを食べたくてスルーした。
鳥居の前には、昼間に約束した忍足の姿。何気に私服姿は初めてかもしれない。Tシャツにジーパンといったシンプルな格好だったが、スタイルがいいので大変映える。
「忍足ー」
「おー、なんや、亜久津も浴衣かいな。意外やわ」
して水沢はえらい可愛い格好しとるやん、と背中の蝶結びを引っ張られる。やっぱり子供っぽいよね、分かる。まぁ、中学生だし、子供と言えば子供で間違いないのだが。まあそれよりも、今は祭りである。
「イカゲソ買お!」
「チョイスが渋いわ」
「おい、走るな。間違っても手ぇ離すなよ」
「せやで、じん君の言うことちゃんと聞かんと、迷子になるで」
「遺憾の意」
いつもよりしっかり繋がれた手。そう広い神社でもないので、さすがに尚樹も迷子にはならないと思うわけだが。
早速イカ焼きを買って亜久津の口元に差し出すと三角の部分を綺麗にもっていった。
「忍足には胴の柔らかいところをあげましょう」
「はいはい」
きっちり胴体を一口で半分。残りは尚樹がもそもそと消化して、ゲソは仲良く分けた。
「はあ、おいしかった。ソースと醤油の匂いは強いわ、誘惑が」
「ソースいうたらたこ焼きやろ、ここは」
「たこ焼きも良き……本当はとうもろこし食べたいけど、あれを歩きながら食べるのは少し難易度が高い……」
歩きスマホも満足にできない尚樹である。串焼きくらいならば歩きながらでも食べられるかもしれない。
「お前……あんまり買いすぎるなよ。小食なんだから」
「水沢ほんと食わんもんなぁ。たっぱの割に」
「いやいや、俺は普通だって。みんなが食べすぎなんだって」
「男子中学生なんてこんなもんやろ」
たこ焼きひとつーとさっそく忍足が近くの出店に足を向ける。さすが関西人。
あつあつすぎて戦えない尚樹はしばし休戦。二人に先をゆずる。
「猫舌も難儀やなぁ」
「これは敗北ではなく戦略的撤退なのです。あ、忍足俺のたこ焼きふたつに割っといて」
「邪道すぎて涙が出るわ」
そういいつつも冷めやすいように尚樹の分をバラしてくれる忍足は優しいやつである。ようやく湯気のおさまってきたころにたこ焼きを慎重に口に運ぶ。この手のやつは外側が冷めていても噛んだ瞬間に大火傷するものなのだ。知ってる。
「あ、七海さんだ」
次は何を買うかと、ちまちまたこ焼きを食べながら視線をめぐらせていた尚樹は、人混みの中に今朝方会ったばかりの人物を見つけた。祭りだというのにいつもと変わらぬスーツ姿。いやでも目につくというものだ。
「こんばんは、水沢くん、亜久津くん。お友達ですか」
「こんばんは。同じクラスの忍足くんです」
「こんばんは、七海です」
「どおも、忍足侑士です。よろしゅう」
最近の中学生は発育がいい。3人を見て真っ先に七海の頭に浮かんだのはそんなどうでもいい感想だった。皆自分とそう変わらないのではないだろうか。
尚樹の肩口からひょこりと蝿頭が顔を出す。
「次はお好み焼きやんなぁ」
「……お好み焼きとたこ焼きは大して変わらないのでは?」
「全然ちゃうやん」
「ええ……」
声には困惑の響きがあるものの、表情に変わりはない。声の方が正しい心境なのだろう。
「まあ肉も食いたいし、唐揚げと串買ってくるわ」
「あ、ゴミ捨て場みっけ。これ捨ててくるー」
大きくゴミ捨て場、と書いてある方に尚樹が駆けていく。その足元にも蝿頭。今朝見た時と状況は変わりなさそうだ。それにしても中学生はフリーダムである。
「……亜久津君、最近水沢君に変わったことはありませんか?」
これも七海が気になっていたことの一つなのだが、二人はよく一緒にいる割に蝿頭は尚樹にしかついていないのだ。
「変わったこと……別に何も思いつかねぇけど……」
「そうですか。なんとなく体調が悪そうに見えたものですから」
正直、かなり苦しい言い訳である。蝿頭さえなければ彼はいつもと変わりないのだから。
わずかな沈黙の後に、医者ですか? と尋ねられていささか驚いた。
「いえ、普通のサラリーマンですが」
そういうことにしておこう。フリーではないのであながち嘘でもない。
「そうか……いや、あいつ鈍いんで……体調悪いのに気づいてないだけかもしんねぇから、気をつけておきます」
「ああ、ええと……私の気のせいかもしれないので」
あまりそう深刻に取られると良心がとがめる。サングラスの下で思わず視線が泳いだ。
「捨ててきたー。じん君、ラムネ買ってきていい?」
「あー、俺が買ってくるから、お前はじっとしてろ」
「はあい」
人気の屋台にはいくらか列ができていて、彼らが戻ってくるには少し時間がかかりそうだった。今のうちに払ってしまうか、と隣の尚樹に視線を戻すと忽然と姿を消している。後ろを振り返ったら揺れる赤い帯が見えた。あわてて追いかける。
「どこへいく気です、そちらは行き止まりですよ」
「? たくさん出店出てるよ」
赤い鳥居が幾重にも連なる細い参道。暗闇に伸びるそれは先が見えない。
金魚すくいしましょう、と腕を引かれて一歩進めば、そこは確かに屋台の光で眩しく、人の姿があった。ただ道ゆく人々は皆浴衣を着て狐のお面をかぶっている。頭上にまで張り巡らされた蘭担が周囲を明るく照らしていた。
呆然とその風景を眺めている間に少年は出店でお面を購入、顔の上半分を隠す狐のお面をかぶって、色違いのそれを差し出してくる。紐についた鈴がチリンと音を立てた。
目元を彩る朱色。顔を上げてぞっとした。ここにいる人間は、おそらく自分と目の前の少年だけだ。
チリン、とやけに鈴の音が響いて、いくつもの視線を肌で感じた。プラスチックの安物とは違う狐の面。ゴムではなく赤い組紐。今時こんなもの、小さな祭で売っているわけがない。サングラスを外して面を被れば、弱まる視線に緩む空気。
ここはどこだ、と地面の感触を足で確かめる。
ひらりと翻った赤い兵児帯。思わずそれに指を引っ掛けた。一歩離れるだけでも、逸れる可能性がある。ここはおそらくそう言う場所だ。
生得領域。
頭をよぎる単語に、じわりと首筋に汗がういた。
「水沢君、私から離れないように。念のため手を繋いでおきましょう」
相手は中学生で自分たちは男同士だ。嫌がられるかとも思ったが、特にこれといったリアクションもなく手を繋がれて、逆に七海の方が動揺した。
「金魚すくいしましょう」
グイグイと手を引かれて出店に近づく。この異様さにまったく気づいていないらしい少年は、巾着の中から小銭を取り出して、七海が止める間も無く店主に渡してしまった。
七海たちと同じ面を被った店主は、ゆるりと煙管をふかしている。2人分のお椀とポイを受け取って早速しゃがみ込んだ尚樹にひかれ、七海も腰を下ろした。はい、と渡されたポイは3枚。見たところ普通の金魚に見えるが。
尚樹の隣では、やはりお面を被った浴衣姿の子供が慎重に金魚を狙っていた。
尚樹は比較的大胆にペイっと金魚を1匹跳ね上げて1枚目のポイを破いている。とりあえず経過観察か、と七海は2人に倣ってポイを水に沈めた。
最後に金魚すくいをしたのはいつだったか。少なくとも高専に入ってからは、祭りなどとは無縁の生活だった。水面にうつる狐の面。何故だか今はいない同期の顔を思い出した。
小さなお椀に入った赤い金魚は、持ち帰るわけにもいかないのでそのまま桶にもどす。
隣に視線を戻すと、いつの間にかお椀の中でぴちぴちと窮屈そうに金魚がもがいていた。ほんのちょっと目を離した隙に一体何があったのか。
「あー、満足したぁ」
まだ破れていない最後のポイを店主に返して、2匹だけ受け取った金魚を1匹も取れなかったらしい隣の子供にあげている。ただ、七海にはその子が子供に見えない。むしろ人間にも見えない。
尚樹が金魚を渡した瞬間、その背後で白い尻尾が揺れた気がした。
じわじわと汗をかくような気温だと言うのに、繋いだ手は少しひんやりとしている。
呪力の流れ、あるいは残穢といったものは先ほどから微塵も感じられない。五条のもつ六眼なら何かわかっただろうか。考えても詮ないことだが、そう思わずにはいられなかった。
「あれ? じん君たちいないですね」
「……完全に逸れてしまいましたね」
あれ? ではない。じっとしてろと言われたそばから移動したのは間違いなく尚樹だ。
「大変不本意ですが、迎えに来てもらいますね」
祭りの前に、この広さで迷子にはならない、と思っていたので尚樹には大変不本意な状況なのだが、もちろん七海はそんなことなど知らない。
赤い千鳥柄の巾着を探った尚樹は、しかしピタリと動きをとめた。
「ひょえ……スマホ忘れた」
「……まあ、そう言うこともあります」
いずれにしても、ここでスマホが通じるとは思えない。この異様な状況に、本当にカケラも疑問を抱いていないのか、とあまり困っていなそうな口元を眺めた。もちろん尚樹本人は無表情の下で静かに絶望していたが。
「これはもうじん君か忍足が見つけてくれるのを待つしかない……諦めて屋台を冷やかしましょう」
「立ち直りがはやくないですか」
「大丈夫です。ドン底まで落ちるとあと登るだけなんで」
「お願いですから会話のキャッチボールをして下さい」
おかしい。パン屋で会うときはこんなに意思疎通の出来ない感じではなかったはずなのだが。
「あ、風鈴。さすが稲荷神社、狐の風鈴がありますよ、七海さん」
ちりんちりん、と涼しげな音を鳴らす風鈴は模様も様々だ。短冊には稲荷神社らしく、鳥居が描かれているものもある。鐘の部分に耳のついている風鈴は、かぶっているお面とよく似ていた。
すずなりになった多種多様な風鈴の中からどれを購入するか迷っている尚樹のそばで、お面の下から周りに視線を巡らす。見える範囲に呪霊らしきものは見えないが、果たして本体はどこにいるのか。ここが生得領域なら、どこかに本体がいるはず。
緩やかに流れる空気は、どこか現実よりも澄んでいるように感じた。
するりと再び掴まれた手のひらに意識をもどす。風鈴は無事に買えたらしく、その手に紙袋を持っていた。
「うわー、やっぱりとうもろこし食べたくなるなぁ。七海さんはもう何か食べました?」
「まだですが……今は遠慮しておきます」
「そうですか? なにか食べたいものあったら遠慮なく寄ってくださいね」
こんな所で食べ物を口にするなど、自殺行為だ。果たしてそれが本当に食べ物なのかすら怪しい。
「あ、お稲荷さんある。さすが稲荷神社」
七海が止める隙もないうちに2つ入りの稲荷寿司を買われてしまう。
「危機感……!」
「うまし糧ー」
器用に口で割り箸を割って、これまた止める間も無く一口で食べてしまう。なんて自由な生き物なんだ。
「七海さんもおひとつどうですか?」
「……やめておきます」
ここで自分に何かあっては助けるどころではなくなってしまう。今のところ尚樹に変化は見られないが、油断は出来ない。出来るだけ早めにここから脱出したい。
「ぼく、お稲荷さんいらない? お兄さんふたつはちょっと食べられないから」
七海が頭を悩ませている間に、尚樹は近くにいた子供を捕まえて残った稲荷寿司を押し付けようとしている。よく言えばおすそ分け、悪く言えば処理。
おずおずとお面を少し押し上げて開いた口元にすかさず尚樹が稲荷寿司を押し込む。かぱりと思った以上に開いたそこに、一口でそれは飲み込まれていった。
すちゃっとお面を定位置に戻した子供は顔は見えないながらもどこか嬉しそうだ。手を振って去っていく子供に、尚樹も呑気に手を振りかえしていた。
一見何の変哲もない、どちらかと言えば長閑な光景だが、流石に七海は見逃したりはしない。お面の下からわずかに覗いた口には鋭い牙。その背後にゆらりと揺れる白い尻尾。
「たこ焼きも食べたしー、イカも食べたし、お稲荷さんも食べたからお腹いっぱいですね。あとは綿飴を買ったら思い残すことは……、やっぱりとうもろこし食べたいなあ。持って帰って明日食べようかな……」
焼きとうもろこしの屋台の前でぴたりと立ち止まった尚樹を止めるべきか否か。もはや後戻りできないところまで来てしまっている気はする。
結局買うことにしたらしい尚樹は、わずかな逡巡の後、お持ち帰り用で包んでもらっていた。
あとは綿飴ー、と駆けていこうとする後ろ姿を帯に指をかけて引き留める。この短時間で、七海は彼が油断ならない人物であることを理解し始めていた。
「ダメですよ、先に行ったら。一寸先は闇だと思ってください」
「ええ……まさか最近のお祭りはそんなにデンジャラスなんですか? はっ! だから俺は今迷子に……!?」
「いえ、それは君の不注意です」
間違いない。
蘭担の途切れた先、その暗闇に迷いなく進んで行こうとする尚樹を今度は引き留めなかった。繋いだ手はそのままに、後ろをついて行く。ここへ入るときも、尚樹は躊躇わなかった。七海には見えていなかった光景が見えていたからだ。ならば、七海には暗闇にしか見えないそこに、何かが見えているのだろう。
生得領域かと思ったが、どうにも呪霊が関係無さそうなこの空間に、七海ではなすすべかない。覚悟を決めて暗闇に踏み込んだ先、まず認識出来たのは人の喧騒、それから生温い停滞した空気。どこか雑然とした屋台の並ぶ参道は、先程までのそれとは明らかに違っていた。
チリン、となった鈴にかぶったままにしていたお面の存在を思い出す。もうこれも必要ないだろう。振り返ると暗闇の中にうっすらと浮かぶ朱。神社の作りに詳しくないので確信は持てないが、おそらく裏参道なのだろう。
「500円……三色の綿飴は800円……綿飴ってこんなに高かったっけ……」
少し呆然とした様子で出店の前に佇む尚樹。おそらく原価10円に満たないだろうそれに、普段の七海なら絶対に手を出さない。
だから、まあこれはお礼のようなものだ。もちろん、あの意味不明な空間に自分を引っ張り込んだのも尚樹ではあるのだが。
「800円のほうをひとつ」
「まいどー」
好きな絵柄のをどうぞ、と言われて尚樹を振り返った。中学生なのでさすがにこだわりはないだろうと思ったが、女の子向けのものは嫌だろう。なんとなく視界に入った女性ものの巾着と赤い帯には気付かないふりをした。
「どれがいいですか」
「え、俺が選んでいいんですか?」
「君のですからね」
七海の言葉に一瞬きょとんとして、じゃあそこの猫っぽいやつで、と思いの外大きいそれを尚樹は指さした。
「買ってもらって良かったんですか?」
「これくらいは別に構いませんよ。それより亜久津君たちを探さないといけませんね」
「ありがとうございます……綿飴思ったより高額でちょっと怯んでました」
あとじん君は多分こっち、となんの根拠もなく歩き出した尚樹の帯に指を引っ掛ける。だんだんこの赤い帯が犬の首輪に見えてきた七海である。
「また逸れますよ。ひとりで先に行かないように」
「はあい」
緩く返事をして、するりと腕が絡む。ぎょっとしたが、綿飴を買ったことでとうとう両手が塞がったらしい尚樹をみて諦めた。五条でもここまで距離感は近くないだろう。
「焼きそばも食べたかったなー」
「買ってあげましょうか」
「いやいや、もう入んないですよ」
先ほど、なんと言っていただろうか。イカ焼きとたこ焼き、七海の見ている範囲ではいなり寿司を一つ。たこ焼きとイカ焼きに関してはおそらく3人で分けただろうから、そう大した量でもないと思うのだが。そういえば、とうもろこしも持ち帰りにしていた。
ひょろりとした体躯を見下ろす。ぱっと見は高校生くらいだが、体の薄さや袖から覗く手首の感じは、やはり子供のものだった。
「……水沢君は、もう少し食べた方がいいですね」
「ええ、七海さんまで……さっき2人にも小食とか言われたんですよね。運動部所属の食欲爆発した男子中学生と一緒にしないで頂きたい」
「まあまあ、ほら、焼き鳥もありますよ。子供のうちに食べないと大きくなれませんよ」
「いや、もう十分に大きいので……むしろ若干持て余し気味なので」
持て余し気味、とは珍しいことを言うものだ。この年頃なら、小さいことにコンプレックスはあれど、大きいことには喜びそうなものだが。自分とそう変わらないところをみると、180は超えていそうな身長。本当に、最近の中学生はなかなか大きいものである。
「あ、じん君みっけ。じーんーくーん」
尚樹が声を上げながら、顔を隠していたお面をひょいっととって左右に振る。その動きに合わせて鈴が控えめに音を鳴らした。
人混みの中からひとつ飛び抜けた銀髪。逆立ったそれはどことなく五条を彷彿とさせる。
たいした大声でもないのにくるりと振り返った顔は、明らかに怒っている、と顔見知り程度の七海にも分かる。幼馴染であるはずの迷子になった本人はカケラも気づいていないようだが。
両手に食べ物を持った浮かれた格好を見れば余計に怒りそうだ。
「お前……」
「我慢出来ずにおっきいとうもろこし買っちゃった。明日チンして食べよーね。綿飴七海さんが奢ってくれたよ」
火に油を注ぐとはまさにこの事。七海は余計な口を挟まずに成り行きを目守ることにした。決して面倒になったわけではない。ただ、七海のフォローできる範囲を大きく越えたというだけの話だ。
「亜久津、抑えて抑えて。水沢、スマホみらんかったん?」
「ひょえ……聞いてよ、忍足。何故か巾着の中にスマホが入って無かったんですよ、神隠しでは」
「お、ま、え、が! 忘れただけだわボケェ」
ちょろちょろすんなって言ってんだろうが! という亜久津のセリフに内心で深く同意した七海である。こめかみをぐりぐりとされても表情が変わらないところをみると、ちゃんと手加減されているのだろう。
すみません、七海さん。面倒見てもらって、と外見にはそぐわぬ丁寧さで謝罪した亜久津の視線はしっかりと組まれた七海の腕。ああ、いつものことなんだな、と早々に察した。
「ほら、水沢、荷物よこし。ほんでちゃんと手ぇ繋ごうな」
七海と腕を組んでいる反対側、ようやくあいた左手を忍足が握る。
「目ぇ離した隙にずいぶん買ったなぁ。すぐ見つかってよかったわ」
薄々察してはいたが、時間にして数分のことだったのだろう。ああいうところでは時間の進みが違うことが多々ある。
そういえば、あそこに入る前はうろちょろしていた低級の呪霊が綺麗さっぱりいなくなっていた。
「見つかって良かったです。それでは、私はこの辺で」
「あ、七海さん、これ」
とりあえず呪霊も居なくなったので、今日のところは大丈夫だろう。先ほどのことは気になるが、自分では分からない。五条あたりに聞いてみるしかないだろう。
帰ろうとした七海を引き止めて、尚樹が四角い木箱を押し付けてきた。反射的に受け取ってしまう。いっこあげるね、とだけ言って、あっさりと行ってしまった。
小さく会釈して彼の幼馴染がその後を追う。
たいして重さのない木箱の蓋を開けると、紫陽花柄の風鈴。硝子の鐘の上に小さな狐の飾りが付いていた。短冊にはあの空間を思い出させる朱塗りの鳥居。揺れてもいないそれから、チリン、と音が響いた気がした。


とても真剣に狙いをつけて、水面に近い金魚をすくう。ぺいっとポイの枠で跳ね上げた金魚をお椀でキャッチ。水の重さでポイは儚くなった。2枚目も同じ。さすがに破れやすすぎでは? と向こうが透けそうなほど薄い和紙を見つめる。一度でいいからお椀にいっぱい金魚をすくいたい。その欲望に忠実に、尚樹はポイを強化して気の済むまで金魚をすくった。
気持ちいいくらいすくえたので、尚樹としては大満足である。
隣で同じく金魚すくいをしていた子供は、1匹もとれずに尻尾をへなりと地面に落としている。折角の白い毛並みが汚れてしまいそうだった。
最初にとった2匹だけ袋に入れてもらう。
「はい、良かったらどうぞ」
尚樹の声にぱっと顔を上げた小狐は、躊躇いつつも前足を差し出した。そこにそっと袋をかけてやると、右に左に尻尾が揺れる。触りたい欲がすごい。
お稲荷さんを分けてあげた小狐も、嬉しげに尻尾を揺らしていた。大変可愛かったので、尚樹は大満足である。