晴れ時々雷雨。その捌

放課後の校内に微かにピアノの音が響いていた。あまり音楽に造姿の深くない尚樹には断言出来ないが、たぶんジャズ系の何かだ。
音に誘われる様に階段を上る。ピアノの音が鮮明に聞こえる様になって、音楽室、と言うプレートが視界に入った。こんな所にあったのか、音楽室。
オレンジ色に染まる廊下にピアノの音が綺麗に響いている。僅かにあいたドアのすきまから流れ出る音はどことなく懐かしく、指が無意識に戸にかかる。
出来るだけ音を立てない様に引いた戸の向こうに、グランドピアノが見えた。
尚樹の顔を見て、ピアノを弾いていた男性が指を止める。その表情は、おそらく驚いている、のだろう。あまり人の機微に聡くない尚樹はそう解釈した。
「……驚いたな、てっきり避けられていると思っていたんだが」
……もしかして、知り合いか。なんとなく見覚えのある顔に、尚樹は首を傾げた。もちろん、内心では盛大に焦っている。
「……避ける理由が思いつかないけど?」
とりあえず、なんとなく会話を返してみる。何か確執のある相手なのか。全く心当たりがない、当たり前だが。
「転校してきてから一度も授業に顔をださないから、てっきり……」
「ん? ……ああ」
思い返してみれば、尚樹が音楽室に足を踏み入れたのはこれが初めてだ。つまり、この人は当たり前だけど音楽の先生。
「……音楽室って、こんなところにあったんだね」
少し迷って、敬語はやめておいた。なんとなく、相手の腫れ物に触るような態度がひっかかった。下手に敬語を使うと、避けられている、という相手の言葉を肯定している様にとられるかもしれないと危惧したためだ。
尚樹の返事に男性は、はーっとそれはそれは長いため息をついた。あまつさえ両手で顔を覆っている。
なんでそんなに絶望してそうなポーズなんだ。
「……移動教室の時はクラスメイトと一緒に行動しなさい」
そういえばこういう子だった、と榊太郎は無表情で佇む少年を見遣った。
尚樹と榊の関係は簡単に言うと叔父と甥だ。尚樹の母親は榊の妹なのだ。いや、妹だった。
すでに彼女は他界しているし、そもそも離婚していたうえに親権は父親にある。
理由が彼女の不倫なのだから目も当てられない。さらに言えば尚樹の選手生命をたった事故の原因も彼女にある。
尚樹に避けられていたとしても、当然の理由が榊にはあった。まだ幼い彼の身の上に心を痛めていた榊だったが、加害者側である妹の身内ということで、自ら接触できずにいたのだが、蓋を開けてみればこれだ。
以前と変わりない態度で接してくる尚樹に、榊はひどく安堵した。可愛がっていた甥に面と向かって拒絶されると精神的ダメージが大きい。
尚樹が開けた窓から緩やかに空気が流れてくる。遠くで生徒たちの声がした。
尚樹の視線の先には校庭が、テニスコートがある。夕日に染まる横顔はひどく無機質だった。
振り返った尚樹が何か弾いてよ、とねだるので演奏を再開する。小さい頃はよくピアノを教えてやったし、人並みに弾けるようにはなったが、音感はさっぱりだった。
窓枠に寄りかかって携帯を取り出した尚樹は、電話帳をスクロール。幸いにして登録数はそう多くない、人間関係の希薄なそれ。
目の前で流れるように鍵盤に指を滑らせる男の名前を探し当てる。親しい人間の名前は、呼び名で登録されているらしいのは、早いうちから気付いていた。
「……たろーちゃん」
長い長い沈黙の後に、学校では先生と呼びなさい、という返事は正解の証だ。ゆるりと唇が弧を描いた。
はぁい、とゆるく返して、榊の隣に腰を下ろす。ピアノは、子供の頃に妹に付き合わされてしばらく習っていた。白と黒に少しひんやりとした鍵盤が懐かしい。
楽譜を眺めると、久しぶりすぎてとっさに読めなかった。
「……思ったより忘れてるなぁ」
「お前、もとからあんまり楽譜読めないだろう」
「失礼な。そんなことはちょっとしかありません」
指を動かす榊にならって尚樹も指を動かす。楽譜を見るよりも、人の手の動きを見た方が、尚樹は早い。おかげさまで連弾には向かない。
「たろーちゃんお仕事何時までなの」
「テニス部が終了の報告に来るまでだな」
「テニス部の顧問なんだ?」
「一応な。別に顧問はテニスができなくても構わないし、まあ私はルールには明るいからな」
「へぇ」
意外。まったく運動とかしなそうなのに。勝手に楽譜をめくって弾いたことのある曲を探す。ぱらぱらとめくっていたら該当する曲もなく最後のページまできてぱたりと閉じてしまった。
「うええ……知ってる曲ない……そもそもジャズあんまり弾けなかったや」
「そりゃ、教えてないからな」
「ショパンとかないんですかね、せんせー」
「楽譜みるだけ無駄じゃないのか……」
「とっても失礼だね? たろーちゃん」
おぼろげな記憶を頼りに指を動かす。譜面は覚えていないが、指の動きだけならなんとなく覚えているのだ。ちょっと音を外している気がしないでもないけど死ぬわけじゃないし、平気、へーき。
「ずいぶん独創的なバッハだな……」
ショパンの楽譜を要求しておいて弾いたのがJesus bleibet meine Freudeとは。どうせ、とりあえずショパンと言っておけばだいたい正解だと思っているのだ。ちょいちょい混じる不協和音に苦笑しながら好きなようにさせる。
もともとろくに音感がないので、放っておいてもおそらく修正されることはないだろう。最後までその調子で続けて、満足げにしている姿に、かつて彼の父親が言っていた言葉を思い出す。曰く、バカな子ほど可愛い。
母親は、尚樹のこういう至らないところはあまり好きではなかったようだが、少々頭の緩い父親はそれはもう溺愛と言って良いほどだった。尚樹の方は見ている方が切なくなるくらい塩対応だったが。
「……父親は元気か?」
「え? どうだろう。元気なんじゃない?」
相変わらずの塩である。力の限りを尽くして塩を投げつけられている気がする。
態度から見るに、別に尚樹も父親のことが嫌いなわけではないのだ。本当に興味がないだけで。
あのうざったい父親が息子に連絡の一つもしていないはずはないのだが、さて。
今度は不協和音はなはだしいカノンを弾き始めた尚樹を眺めなから思考を巡らせる。
本来なら手元に、アメリカにおいておきたかっただろう尚樹を一人日本によこしたのは、事故による怪我が原因だ。精神的に参ってしまった尚樹のメンタルケアのため、彼が一番懐いている幼馴染のところに泣く泣く預けたのである。
父親はもちろん一緒に日本に来たがったが、そもそもが離婚に端を発した一連の流れはもともと二人の間にあった溝をおそろしく深くした、ように傍目には見える。本人が直接それについて言及したことはないので憶測に過ぎないが。
それが大人たちの間での共通認識ではあったのだがここに来て榊は少し自信がなくなってきた。この、スーパードライな子供に、確執とかそういう難しい感情があるのか、という点について。
尚樹が氷帝に編入したのは、本人は知らないだろうが榊が教師として在籍していたからだ。本来なら、別れた妻の兄など関わりたくないだろうに、もしよかったら気にかけてやってくれないだろうか、と丁寧なメールを受け取っていた。
もちろん、断れるはずもないし断るつもりもない。尚樹が榊を受け入れるかどうかは別として。
まあ、それも杞憂だったわけだが。
追いかけっこをしていた指が旋律を失って迷子になったのか、尚樹が中途半端なところで指を止めた。
「尚樹、携帯を見せてもらっても良いか?」
「んー? 別に構わないけど」
はい、とためらいなく渡されたそれに拍子抜けしつつ、ラインのアプリを開く。まだあまり使い込んでいないのか、もともとの人間関係が希薄なのかはわからないが、スクロールするほどの連絡先もなく、一瞬で父親が登録されていないのが分かってしまった。同情を禁じえない。
次にメールを開いてみると、ここ最近の分はくだんの父親からのメールばかりだった。一部既読になっているが、大半が未読のまま。同情を(略)。
「……尚樹、あんまりメールは使ってないのか?」
控えめに、遠回しに父親のメールは読まないのかと聞いてみるも、尚樹はあっけらかんと最近ラインというアプリの存在を知ったことを熱く語った。なんでも、幼馴染のじん君がインストールして、かつメンバーの登録もしてくれるらしい。無料のスタンプもたくさん登録されていて、文字を打ち慣れない尚樹は重宝しているのだとか。
なるほど、ラインに父親の登録がないのは最近使い始めたかららしい、というわずかながらにプラスの情報、そしてそれを上回る的外れな回答。
「お前はかわいいなぁ……」
バカな子ほど(略)。
「ていうか、なんか迷惑メール多くてさぁ。アドレス変えようかなぁ」
「いや、ちょっ、まっ」
思わず自分らしからぬ声が出たが、頭の中は大混乱なのでこの際それは脇に置いておく。
アドレスなんて変えたらそれこそ連絡がつかなくなったと言って慌てふためく父親の姿が容易に想像出来る。それに何より迷惑メール、とは。
おそるおそる、未読のメールを指してこれのことかと問うてみると、是、との回答。これは父親からのメール=迷惑メールという認識なのか、単純に父親のメールと気づいていないのか、だが差出人の名前はフルネームで登録されている。
一体どういうことだと尚樹を見やるも、視線だけで察してくれるほど読みの良い子ではない。
「……これは迷惑メールなのか?」
「え、だって全部英語だよ? 怪しくない? 俺日本人、あいむじゃぱにーず」
いや、正確にはクウォーターな訳だが。おかしい、確か尚樹は英語も日本語も話せるはずなのに。これは、まったく読みもしなかったな。差出人の名前も横文字で登録してあるので、まったく見もしなかったのだろう、おそらく。
「……尚樹、言いにくいんだがな」
このメールはお前の父親からだ、と告げようとしたまさにその時、背後でがらっと戸が引かれた。タイミングが悪いことこの上ない。眉間にしわを寄せたまま振り返ると、テニス部の部長である跡部景吾と、部員である忍足侑士。
時計を確認すると、どうやら部活が終わったらしいことに気づく。
「すみません、部室の鍵を返しに来たんですが……」
めずらしく跡部が言い淀む。それもそうだろう、今の状況を鑑みれば。中学生とひとつの椅子に座って何をしているのかという話だ。一歩間違えれば事案である。
「ああ……ご苦労だった」
「忍足、部活終わったの?」
「終わったでー」
「教室戻る?」
「なんや、また迷っとったんかいな」
しょうがないやっちゃなぁ、と駆け寄った尚樹の手を慣れた様子で握る忍足に、意味のわからない感動を覚えつつ、表面上は冷静さを保つ。
「せんせー、さよーならー」
「気をつけて帰りなさい」
先いっとるなー、と手を振って行ってしまった忍足に物申したいのはやまやまだが、まだ部室の鍵を返すというミッションを残している跡部は音楽室に足を踏み入れた。
よほど複雑な表情を浮かべていたのか、跡部から鍵を受け取った榊は、いつもとは違う言葉を口にした。
「私の甥っ子なんだ」
いつになく穏やかな表情をにじませた榊に、跡部はおし黙る。あまり楽しい話ではないことは容易に想像できたからだ。
「いろいろあって、今は日本にいるが……、そうか、ちゃんと友達もできたみたいだな」
「……まったく問題ないとは言えませんけどね」
「マイペースだからな、良くも悪くも」
マイペースの一言で片付けるか、あの問題児を。身内には意外と甘い人間だったのかと、顔をすがめそうになったが、榊がわずかに笑っていることに気づいて、その表情の意味を計りかねた。
「ご苦労だったな、行ってよし」
「……はい」
いつも通りのやり取りが、終わりの合図だった。もとより深く踏み込むつもりもない。踵を返すと静かな旋律。主よ、人の望みの喜びよ、その選曲に何か意味があるのか。