晴れ時々雷雨。その漆

次の授業は第1視聴覚室。
尚樹は教室のプレートを見上げて静かに感動していた。
そこに燦然と輝く視聴覚室の文字。とうとう、授業が始まる前に自力で教室にたどり着けたのである。記念すべき日だ。
引き戸に手をかける。中に人の気配が一つ。まだみんな来てないんだな、と戸を引いて足をふみいれた。
暗い。
思わず足を止める。
視聴覚室であるせいか、カーテンの引かれた教室は他の教室とは違って薄暗い。いや、薄暗いと言うより正直、暗い。
真ん中より少し後ろの席に人の気配を感じたが、姿は見えなかった。隠れているのか、寝ているのか。
授業にはまだ少しある。尚樹は気配のある方に近寄った。
「……何してんの?」
「バレてもうたか……サボリやサボリ」
自分もサボリやろ、と立ち上がって椅子に腰掛けた男に、尚樹は首を傾げた。
どうやらこの男は次ここで授業があることを知らないらしい。ちょっと間抜けだ。
教えてやった方が良いだろうか、とも思ったがさぼりは良くないので黙っていることにして、その隣に腰を下ろした。
「暗くない?」
「あほ、明るくしたらばれるやん」
それに、今からここでDVD見ようと思っとったんよ、と男が口の端をあげた。
だいぶ眼が慣れて来て、相手の顔が見える。見たことある顔だな、と尚樹は相手の顔を観察した。
「……誰だっけ」
「噂に違わぬ薄情っぷりやな。同じクラスの忍足侑士」
「ああ……」
どうりで、と尚樹は一人納得してスクリーンに眼をやった。映画なんて久しぶりだ。
反応の薄いやっちゃ、と苦笑を漏らして忍足はノートパソコンを立ち上げた。
「パソコンで見んの?」
「プロジェクターでスクリーンに映すんよ」
「ふーん」
じりじりと近寄って来た尚樹の肩が忍足のそれに触れる。さらに身を寄せた尚樹は頬が触れそうなほど顔を寄せた。
それにぎょっとして思わず身を引く忍足のことなど気にも止めず、尚樹はパソコンの画面を覗き込んだ。
「何の映画?」
「ラブロマンス」
「……」
「なんやその眼は。文句あるんか」
「別に。らしいなと思っただけ」
「……お前、変わったやっちゃなぁ」
「忍足もね」
尚樹の言葉に、忍足はくつくつと声を抑えて笑った。
だらだらと忍足に寄りかかって体重をかけてくる尚樹にもなれて、いつのまにか忍足はスクリーンに集中していた。
少し高い体温と規則正しい呼吸が思いのほか心地よい。スクリーンの光を反射して、暗い中でもその瞳がよく見えた。
「貸し切りだねぇ」
「せやなぁ。これで隣におるのが可愛い女の子やったら最高やわ」
「猫の方が良くない?」
忍足の軽口に、尚樹が的外れな答えを返した。少しだけ顔を動かした忍足の頬に柔らかな髪が触れる。
「……なんで唐突に猫やねん」
「あはは」
ズー、と音を立ててジュースを飲みきった尚樹は行儀悪くストローを噛んでいる。その動作が彼を幼く見せた。
いつもと違った印象を受ける姿に、日頃の跡部との攻防を思い出す。おそらくこっちの方が素なのだろう、跡部が言うような問題児というか、あまりスレた印象は受けない。
忍足としては、跡部がどうしてあそこまで尚樹につっかかるのか分からないのだが。暖簾に腕押しとはまさにこのことで、いつも尚樹に軽く流されている。
これ、普通に引っ張っていったら難なく授業に連れていけるんじゃないだろうか、とわずかに視線だけでその気だるげな顔を見下ろした。
「猫好きなん?」
「うん。毛の生えてる動物は総じてかわいいと思っている」
「なんやそら」
だってもふもふだよ? もふもふかわいくない? と平坦な声で熱く語る姿に、あ、これ見た目にフラットなだけで結構感情の起伏が大きいやつ、と忍足は早々に気づいた。
「せやな、もふもふかわいいな」
でかいなりしてても中学生やなぁ、ともふもふに該当するかは分からない頭を乱雑に撫でる。
いつもするっとお小言を言う跡部から逃げている姿と、こうして懐いている姿。まあこれも猫みたいなもんやなぁ、と苦笑した。うん、映画見る時に猫が膝の上で丸くなっていたら、たしかに癒されるかもしれない。
スクリーンの光に照らされた横顔は白く、人形のようだと思っていたのに、今は全然そんなことはない。

授業終了のチャイムが遠くで聞こえて、この時間の終わりを告げる。名残惜しく思いながらも、忍足はまだ途中の映画を停止した。
寄りかかっていた尚樹が起き上がって、その重みが消え、なんだか触れていた場所が寒く感じる。
すぐにまた体を寄せて来た尚樹に、忍足は少し身じろぎした。
「なあ、忍足それ伊達眼鏡?」
「ああ、なんやえらい顔近づけてくると思ったらそんなとこ見とったんか」
「眼鏡はずした方がカッコいいんじゃないの」
「ファッションや、ファッション」
「ふうん?」
自分から聞いておいて大して興味がなさそうに首をかしげた尚樹は、立ち上がってぐーっと伸びをした。猫のような仕草だ。
「ところで、みんななかなか来ないねぇ」
「何言うとん。ここは滅多に授業使わんで」
「あれ、次の授業って、俺たちのクラスここじゃなかったっけ」
「アホやな、それは新校舎の方の視聴覚室や」
「……そうなんだ」
がっくりとうなだれた尚樹の姿に、彼が真面目に教室を間違えたことがうかがえる。転入してもう3ヶ月以上経つのだから、良い加減に場所を覚えても良さそうなものだが。
そういえば、サボりの理由はいつも「迷子」だったか。毎度毎度同じ言い訳に跡部がキレていたのは記憶に新しい。いったいどこまで本当なんだか、判断に迷うところだ。
暗い教室の中をためらいなく進んで尚樹がドアに手をかける。入り込んでくる外の明かりに教室全体がうっすらと照らされた。
振り返って入り口で待つ尚樹のもとに追いつくと、表情の乏しい顔にわずかに笑みが浮かんだ気がした。
「また映画見よーね、忍足」
「……気ぃ向いたらな」





ある程度生活に必要な物は一通りそろっている尚樹の部屋だが、一つだけ無い物がある。
ずっと気にはなっていたのだが、クイックルでなんとかしのいでいた。
しかし、やはり黒いアレが出てはまずいので、尚樹はようやく買いにいこうと発起した。
掃除機を。
「というわけで、買い物付き合って、じん君」
『ああ? 別に構わねーが……お前の部屋、掃除機あったろ』
電話越しの幼馴染の声に、尚樹は首を傾げた。その台詞を反芻して、自分の部屋を思い出してみる。
「……どこに?」
家主が知らないというのに、他の人間が知っているとはこれいかに。
なんど思い返してみてもそれらしい物はない。ちなみに、家捜しは既に実行済みだ。
『居間にあったろ、ルンバが』
「……るんば?」
なにそれ、と尚樹は壁に寄りかかった。ちなみに、学校の廊下である。
『お掃除ロボットだよ。自動で掃除してくれる』
知らねーのか、と呆れた声を上げる亜久津に、伝わるはずも無いのだが、尚樹はその場で頷いた。
「どんなやつ?」
『円盤状のやつだよ』
「……ああー」
部屋の隅に置いてあるやつか、とようやく思いいたる。ずっと、何だろうとは思っていたが、まさか掃除機だとは思わなかった。
「そんな便利な物がうちに……」
『お前が買ったんじゃねーのか』
「ううん……引っ越してきたとき既にそろってた」
なんでだろーね、という問いには、残念ながら返事はなかった。
「じゃーいいや。帰ったら動かしてみる」
『おう』
携帯を切って、早速お家に帰ろうと、壁から体をはなす。
「誰と話しとったん」
教室から顔を出した忍足に、尚樹は瞬きをした。どうも、一緒にサボって以来、すこし打ち解けてくれたようだ。
なんとなく、余計に跡部の不興を買いそうな気がしないでもない。
「幼馴染、男」
「なんでわざわざ男をつけんねん」
「いや、忍足そういうの好きそうだから、先に言っとこうかと思って」
「ひどい偏見や。否定せんけどな」
否定しないのか、と携帯をポケットにしまって鞄を取りに教室の扉をくぐる。
打たないとは分かっているのだが、180を超えるこの体ではなんとなくかがんでしまう。
「忍足、今日は部活は?」
「テスト前やからないんよ」
「へぇ……てっきりテニス部はあるのかと思ってた」
「なんでやねん」
いや、そこはほら、テニスの王子様だから。
漫画の先入観のせいか、なんとなくテニス部は特別かと思っていたのだが、そういう事もなく普通だ。
もちろん、強いのは強いようだが。
「忍足、るんばって知ってる?」
「知っとるで。あれ欲しいんよ。高くて手ぇでらんけどな」
「……高いんだ?」
「7万くらいするやろ、たしか」
「マジか」
そんなに高いのか、と部屋の隅に置かれたそれを思い出す。……扱いがちょっと悪かったかもしれない。
「それがどうしてん」
「いや、家にあるんだけど」
「なんや、買ったんか!?」
「いや、もともとあった……んだけど、何か分かんなくて放置してた」
忍足の顔にはなんと勿体ない事を、とありありと書かれている。だよね。
「で、これから帰って早速動かそうとしてた所」
「へー、ええなぁ。な、見に行ってもかまわん?」
「べつに構わないけど……忍足、勉強しなくていいの?」
「そう堅い事いわんでや~」
まあ俺は別にかまわないんだけど、と軽い鞄を片手に教室を出る。
テスト前だからか、勉強をするために残っている人間は意外に多い。やはり、進学校なだけあって、勉強は厳しいらしい。
中学生活2度目の尚樹は、授業を聴いていればだいたいは思い出せるし、語学に関しては、まあ、ズルをすればなんとか。
でも別に、いい成績とらなきゃいけないわけじゃないから、程々で、と思っていたりする。
非常に気楽な学校生活だ。


説明書が見当たらないが、真ん中にCLEANと書かれたボタンが光っているので、まず間違いなくこれだろう、と2人で話し合ったあと、それをおそるおそる押した。
動き出した円盤に、二人とも一歩下がる。
「動いとるで……」
「動いてるね……」
「床にあるもん、どけた方が……って、まあたいしてなんもないか」
「これって、俺たち邪魔じゃないの」
「そらまあそうやけど」
床に置いていたお昼寝用クッションをひろって、ひとつ忍足に押し付ける。
結構大きめのそれを抱えて、尚樹は机の上でおやま座りをした。
「忍足も、はやく」
「お、おう」
つられて忍足も机の上で小さくなる。
あまり大きな机ではないので、図体のでかい男が二人、というのは少しきつかったのだが、ついついルンバの動きを見守ってしまう。
がつん、と机の足にぶつかったそれは、足の周りをくるりと一周して別の方向へ走っていってしまった。
「……頭良いね」
「頭良いなぁ」
「……で、図体のでかい男が二人で揃って何やってんだ」
「じん君!」
呆れたようにリビングの入り口からこちらを眺める亜久津に尚樹は嬉しそうに声をあげ、忍足は目を見開いた。その足元には黒い猫が行儀よく座って、心なしかジト目で睨んでくる。
「え、亜久津やん。なんでここにおるん」
「あれ、忍足じん君と仲良しなの」
「ちょいまち、その言い方には語弊がある」
食い気味に訂正を入れた忍足に、尚樹はほんの少しだけ首をかしげ、思い出したようにそういえばルンバあったよ、めっちゃ掃除してる、と思考を放棄した。
忍足は忍足で、その言葉にまさか学校での電話相手幼馴染括弧男括弧閉じはこいつか、と思い至る。可愛くない幼馴染もいたものだ。
ルンバを気にせずリビングに入ってきた亜久津は、尚樹の抱えていたクッションをむんずと掴んで取り上げる。
「オラ、机に乗んな。おやつにすんぞ」
亜久津の口からおやつ、などという単語が飛び出たことに忍足は大層驚いたのだが、尚樹はいつもどおりのテンションでわーいと平坦な声で喜んだ後、お茶を入れに台所に行ってしまった。つまりこれ、いつも通りか。ゆったりとした足取りで尚樹を追いかけて行った猫のゆらゆらと揺れる尻尾を見ながらわずかに現実逃避。
忍足の中で亜久津のイメージが音を立てて崩れていくのが分かる。ただのやばいやつだと思っていたけど、結構中学生らしいところもあるらしい。
「あー、知っとるかもしれんけど、忍足侑士な」
「ああ? ああ……亜久津仁、隣に住んでる」
「幼馴染ってもしかしなくても亜久津のこと?」
「だろうな」
もってろ、とタッパを渡されて反射的に受け取る。ご丁寧にも布巾で机を拭いた亜久津は、尚樹が用意したらしいお茶をお盆に乗せて戻って来た。
「……なんでそんな限界に挑戦するん」
マグカップになみなみと注がれたお茶に、忍足は思わず半眼になる。
「さあな、癖みたいなもんだろ。昔からだからな」
「昔からなんかい……」
亜久津の性格から、今まで全く咎めなかったということはないだろうから、これはもはや治らない癖なのだろう、と忍足は一人で納得した。
預かっていたタッパを開けると手作りらしいクッキーが入っている。
「おおー、クッキーだ。優紀ちゃんお菓子作るの上手だねぇ」
「そうやってお前がおだてるから性懲りも無く作るんだろ」
「今度は俺も一緒に作りたいなー」
「聞けよ」
あ、これ言ってもそもそも聞いてないやつ。
動き回るルンバを捕獲してお家に帰す。さすがに食事中に掃除機が動き回るのもなんだろう。3人で机を囲んで座ると、尚樹の膝の上にのっそりと黒猫が乗ってきた。みんな図体のでかい野郎ばかりなのでなんとも言えない光景だが、わずかに緩和された気がする。
「猫、水沢が飼っとるん?」
「そう、夜一さんっていうんだよ」
艶やかな毛並みを撫でながら尚樹がゆるく瞼をふせる。
「お前、出かける時ベランダの窓開けて行くのやめろっつってるだろ。また猫がベランダ渡ってうちに来てたぞ」
「えー。夜一さんが外に出たい時困るじゃん? ねこすっきもベランダだし、食べたくなったら困るじゃん?」
「じゃんじゃんうるさいじゃん? 防犯上良くねーっていってんだろ」
危うくお茶を噴きそうになった。今なんて言った? と視線だけでこっそり亜久津を伺うも、その顔はいつもどおりのちょっとヤバい人だ。ツーといったらカーなのか? じゃんじゃん言ったらじゃんで返すのか? 分からん。
深く考えてはいけない気がしたので、心を落ち着けるためにお茶に手を伸ばす。
「忍足もうちで勉強していく? じん君数学得意だよ」
ぽりぽりとクッキーをかじりながら、尚樹がマイペースにノートを広げだした。話の前後のつながりが分からん。こいつも人並みに勉強するんやなぁ、なんて失礼かつとりとめのないことを考えつつ、亜久津に視線を移すと、驚いたことに彼も教科書を取り出していた。
え、なにこの空気。真面目か。
軽い気持ちでルンバを見学しにきたはずだったのに、意外すぎるメンバーで勉強する羽目になろうとは誰が思っただろうか。
二人に習ってカバンの中をあさりつつ、クッキーに手を伸ばす。甘さ控えめで口の中でほろほろと崩れていくそれは、思っていたよりも美味しかった。