晴れ時々雷雨。その四
習慣というのはそう簡単には変わらない。
相変わらずの早朝に目が覚めて、尚樹はジャージに着替えた。
洗濯機のスイッチを押してスニーカーに足を突っ込む。夜一はまだベッドの上で丸くなったままだ。日の光がカーテンを透過して部屋を照らしていた。
目が覚めた時には頼りなかった体も最近はだいぶ回復して来た。
回復、と言うのは変な言い方かもしれないが尚樹にとっては元の体に近づいて来ているように感じる。
この体の持ち主がどうだったかは知らない。
顔も、なんだかだんだん自分のものに近くなって来た。気のせいかとも思ったが写真を見れば変わったことは明白だった。
不思議なものだ。
「おはよう、じん君」
「ああ」
ちょうど出て来たお隣さん、じん君も目的が同じなので似たような格好をしていた。初日に、ランニングから帰って来たところに出くわした時は、何故かすごく驚いた顔をしていた。
時間が早すぎたせいかもしれない。
それからは、わざわざ時間をあわせてくれているのか、こうして一緒にランニングに出る。
初日はさんざん道に迷ったのでとてもありがたい。
この体の持ち主も方向音痴だったのか、よくなんだかんだと言いながら迎えに来てくれる。
この大都会で、何度遭難しそうになったことか。
「じん君、今度一緒にテニスやろうよ」
「ああ? テニスってお前……」
「あ、先に言っとくけど俺超下手だから」
まじで。体育の時間にお前はラケット握るな、って高校のとき友人に言われたくらいだ。ひどい。
だけど、ノーコンなのは認める。
じん君はたしかテニスうまかったはずだし、運動にもなるから教えてもらおうって寸法だ。
「……いいのか?」
「ん? 何が?」
難しい顔をしてちらりと視線を寄越した幼馴染みに、尚樹は首をかしげた。そんなにおかしな事を言っただろうかと。
「お前がいいなら、いいけどよ」
つまり今のは、俺にテニスを教えてくれるってことでいいんだよね?
「じゃあ、今度一緒にテニスしに行こうね」
「ああ」
幸いにもテニスの道具が家にあった。もうこれはテニスをやれって言うお告げなのだろう、と尚樹は一人納得した。なんせ、テニスの王子様だ。テニスをしなきゃ損、損。
亜久津仁がテニスバッグを担いで氷帝の校門に立ったのはそれから3日後のことだった。
白い学ランと自分の容姿は目立つ。視線を感じたが、亜久津にとっては慣れたものだった。
尚樹は、亜久津にとって最も付き合いが長い相手だ。
だからこそ、お互いのことはよく知っている。
尚樹が事故で怪我をしたのは1年前だ。天才と言われていた若きテニスプレイヤーの悲惨な事故はそれなりにニュースになった。
もっとも、ほとんど海外で活躍していた尚樹のことを知っているのはテニスに興味のある人間だけだったろうが。
その事故で母親を亡くし、自身も左腕に重傷を負った尚樹はテニスプレイヤーとしての選手生命を絶たれてしまった。
本来なら左腕だったのは不幸中の幸いと言えるかもしれないが、尚樹はサウスポーだ。
久しぶりに会う幼なじみの顔は憔悴して、長い入院生活ですっかりやせてしまっていた。
もう二度とテニスラケットを握ることは無いと思っていたから、尚樹の言葉は意外でもあったし、痛々しくもあった。
未だ海外にいる尚樹の父親には母親の優紀がなにかとメールを送っている。日本に帰ってきてからの尚樹の回復に、彼の父親はとても喜んでいた。ただ、もともと尚樹と父親の仲は良好とは言いがたく、優紀がメールを送っている事も、彼の父親が息子の事を実は気にかけている事も尚樹本人は知らない。
校内に入って行くと遠くにテニスコートが見えた。無駄に広そうだ。
携帯の短縮を押して尚樹に電話をかける。時間になっても出てこないところを見ると、どうせ、校内のどこかで迷っているのだ。
「じん君?」
「迎えに来た。今どの辺だ」
「どのへん……かなぁ」
「とりあえず、周りに見えるもの言ってみろ」
「んー、とりあえず3階にいるみたいなんだけど……資料室、進路指導室えーと、あ、生徒会室発見」
「おい、動きながらしゃべってんじゃねぇ。いいか、俺が行くまでそこから動くなよ」
「んー、分かった」
迷っている奴がちょろちょろ動き回るなんて言うのは愚の骨頂だ。頭がいいくせに、何故それが分からないのか分からない。
その辺にいた奴を捕まえて、生徒会室の場所を聞いた。話しかけるだけで妙におびえられたが、自分の容姿がどんなものかは自覚しているので、今さら不快にも思わない。面倒だとは思うが。
人もまばらな校内を少し早足で進む。あまりゆっくりしていると尚樹が飽きて移動してしまう。ぼんやりしているくせに、こういう時は妙に行動が早いから困る。
3階まで登ると、すぐにその明るい茶髪を見つけた。
誰かと話している。その相手に亜久津は見覚えがあった。
近づくよりも早く、尚樹が亜久津を振り返る。むかしから妙に勘のいい奴だ。
「あーん? 亜久津か。なんでここにいやがる」
「……おい、行くぞ」
跡部を無視して尚樹に話しかける。絡まれると面倒な相手だ。昔から、自分は尚樹と以外うまくコミュニケーションが取れない。逆もまたしかりだ。跡部がむっとしたように眉間にしわを寄せたが、気にせず尚樹の腕をとった。
「あ、じん君待って。俺教室にまだ荷物とりに行ってない」
「ああ? ああ、そうか……さっさととり行くぞ」
帰る途中に迷ったのではなく、教室に行く途中に迷ったのか、と亜久津は一人納得してしぶしぶ跡部に向き直った。
「おい、こいつの教室どこだ?」
「ああん? それが人に物を尋ねる態度かよ?」
絵面で言うなら、ばちっと火花か散っている所だろう。お互いたいがいに目つきが悪い。
「じん君あっちだよ」
「そっちじゃねぇ!」
そんな空気をまったく読まずにまったりあらぬ方向を指差した尚樹に、跡部のツッコミが炸裂した。第二の自分を見た気がした。
目線だけで問うと、あきらめた様に跡部が隣の校舎、3階、と短く答えた。
また明日、と言う尚樹の声を背中で聞いて、どうせいつもの無表情で手を振っているのだろう、と見てもいないのに手に取るように分かる。
もう手を振るような年ではないのに、まだそのことに気づいていないのだ。
階段の上から踊り場まで尚樹が飛び降りる。図体はそれなりにでかいくせに、不思議と音が立たない。
「おい、ポケットに手ぇ突っ込んだまま飛び降りんな。あぶねーだろ」
きょとんとした顔で尚樹が振り返って。今気づいたという様にポケットから手を引き抜いた。
「別に、このくらいの高さなら平気だと思うけど」
「打ち所が悪かったらどうすんだ、バカ」
あんまり分かってなさそうな顔でわかった、と答える尚樹に軽く肩を落とした。この程度でイラっと来るような時期はとうの昔に過ぎた。馬鹿相手に怒っても仕方が無いのである。
理解はしなくても言いつけは守る素直な馬鹿なので、注意だけしておけば問題ない。その事に気づいてから亜久津は尚樹に対して無駄な説教はしなくなった。
とん、とん、と軽く階段を飛ばして先に1階までおりた尚樹は猫の様に伸びを一つして、亜久津を振り返る。顔には出ていないが、どこか楽しそうだ。
テンションが上がると亜久津の前を行って、すぐに迷子になるのがこの幼馴染みの悪い所だ。全然微笑ましくなんてない。
駄犬の手綱を握りに亜久津も階段を飛び落りた。
部活に励むテニス部を横目に、その後さっさと学校をあとにした二人は近所のテニスコートに来ていた。山吹中の方が近い位置にあるせいか、亜久津はここで氷帝の生徒を見た事は無い。
まあ、普通は皆部活をしている時間帯というのもあるだろう。
カーディガンを脱いで、袖を2、3度まくっただけの尚樹がラケットを右手にコートに入る。亜久津も学ランを脱いだだけの格好でコートに入った。
格好から察するに、今日は軽く身体を動かす程度なのだろう。
左手でテニスボールを上に放った尚樹が気の抜けたかけ声とともにラケットを振り下ろす。風を切る音と、ボールが地面にバウンドする音だけが響いた。
「……」
「……アドバイスプリーズ」
「……慣れじゃねぇか」
盛大に空振りした尚樹にツッコミを入れるべきか慰めるべきか。
「とりあえず、今日は下打ちでやっとけ。急にやっても無理だろ」
「ですよね。じん君優しいーほいさー」
ぺしっと会話のついでにボールを打って寄越した尚樹に一瞬反応が遅れるも、へなちょこボールなので難なく返す。もちろん、尚樹は空振りしてボールは帰ってこなかった。
「……お前、なんでそんなにラケット早く振るんだ。無駄に動体視力いいんだからボールにあわせろよ」
「そうか、これが偏差射撃ってやつか」
「いやちげーから。昨日のゲーム引っ張んな。普通に打ち返せアホ」
昨夜二人でやったFPSゲームの影響か、妙な事を言い出す尚樹にボールを打ち込む。それに遅れる事無く反応して、今度はちゃんとラケットにあてた。ボールは遥か彼方だが。
腕が使えないだけで、やっぱりこいつはテニスプレーヤーなんだな、とノーコン加減よりも反応の早さに目がいく。まともな位置にボールは帰ってこないが、その後尚樹はすべてのボールをラケットに当ててみせた。
もたいねぇなぁと独りごちる。以前のような鋭い返球はない。それでも、慣れない右手でラケットを握る尚樹は昔とあまり変わらない様に見えた。
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