晴れ時々雷雨。その弐

とりあえず、ここがどこかも分かったことだし、ずきずきと痛みを主張するこの腕を何とかしようと、尚樹は思考を巡らせた。怪我を治す道具。とりあえずこの世界の治安は全く気にしなくていいので、あとのことを考えずに適当に念を使えることがいいところだろう。さっきまでいたナルトの世界では、下手に念を使って戦闘に使えない状況になると笑えない。
「大天使の息吹」
カードを具現化するとすぐにそれは形を変えて女性のものになる。そのふわふわと宙に浮く姿を認めて、尚樹は少しだけ考えた。
とりあえず、この手首の傷は治してもらうとして、他にこの体は悪いところはないのだろうか、と。何分他人の体だ。今のところ他に不調らしいところがないとはいえ、まだ何も把握できていない。だからと言って悪いところを全部治してもらうとまずい部分もある。ナルトの世界で学んだことだが、治るはずのないけががいきなり治ったりすると、不自然極まりない。そういう点ではハンターの世界は楽だった。
「うーん……傷跡とか、そういう目に見えるものはそのままで悪いところを治したりって、できます?」
ナルトの時に一度そう言うことをやったから、できないことはないと思うのだが、ものすごく抽象的なお願いなのでお伺いを立ててみる。今まで何度かお世話になった彼女は、いつも通りの無表情でお安い御用、とだけ言って光を発した後に姿を消した。
巻いていたタオルを外すと、細かな傷は残っているが、これならかすり傷だ。放っておけば自然と治るだろう。
とりあえずお腹もすいたし、夜一さん探しついでに買い物に行こうと、床に放り出していた財布を手に取る。伸ばした手の袖口に血が付いているのに気づいて、このままじゃ出かけられないな、と部屋の中を見回した。


不意に、インターホンの音が部屋の中に響く。なにも考えずに玄関へと足を向けて、一瞬躊躇した。知り合いだったらどうしよう、と。
しかしせかすように2度3度と続けてなった音に、居留守は無理そうだと判断して玄関へ急いだ。外を確かめずにドアを開けると、とても迫力のある顔をした少年が立っていた。学ランを着ているから、もしかして高校生だろうか?
その顔に思わず目を奪われていると、すぐ下、腹の一辺りからニャー、と猫の鳴き声が聞こえた。あわてて視線を下ろす。少年の手に首根っこをつかまれて不機嫌そうな黒猫が、手足をばたばたと動かしていた。
「夜一さん!」
手を伸ばすと、少年の手がさりげなく離されて慣れた重みが腕の中に飛び込んできた。
「ベランダからこっちに移ってきてたぞ」
あぶねーから外に出すなっつたろ、と不機嫌そうに少年が尚樹をたしなめる。そのどこか親しげな雰囲気から、もしかして彼が自分の唯一の友人らしい「じん君」だろうか、と尚樹はひらめいた。
「じん君?」
「ああ? んだよ。つかそのじん君って呼ぶのやめろって言ってるだろーが」
「うん、ごめんね。じん君」
夜一さん連れてきてくれてありがとう、と礼を言った尚樹に彼は舌打ちをしただけで、それ以上は異を唱えなかった。
「それよりお前今日夕飯は……ってどうしたこの血」
眉間にしわを寄せて少年が尚樹の腕をつかむ。険しい顔をしている割に、結構親切な人だな、とその鋭い視線を臆することなく正面から見据えた。
「んー、鼻血。もう止まったからへーき」
「……手首のけが、どうした」
かすり傷程度しか痕跡は残っていないというのに、目ざといことだ。この体の持ち主は、日頃から自殺しそうな雰囲気を醸し出していたのだろうか、とその若干過敏ともいえる反応に思考を巡らせた。
「かすり傷だよ。野良猫に引っかかれちゃった」
もう治りかけだし、心配いらないよ、といった尚樹にあまり納得していないような顔をしながらも、少年はそうかよ、とぶっきらぼうに答えた。その反応になんとなく、友人というより幼馴染のような気がする。
「あがってく? なんもないけど」
言葉通り何もない部屋を思い起こしながら、誘わないほうが良かったかも、と早々に思い直した。だいたい、血とか薬とか、床にばらまいたままだ。見られたら困る。そんな尚樹の苦悩には気付いていないだろうが、少年は首を横に振った。それに内心で胸をなでおろす。
「引越しの片づけ終わったのかよ?」
「んー……たぶん。たいして何もないしね。」
「明日編入試験なんだろ? 大丈夫か」
それはマジで初耳です、と脊椎反射で答えそうになり、ぐっと喉の奥に言葉を押しとどめる。氷帝学園の編入試験なんて受かるのか、ともう長らく学校の勉強から離れていた尚樹は一抹の不安を覚えた。公式とか英語とか、正直覚えている自信がまったくない。
「じん君……明日受けに行かなきゃダメかな?」
「ああ? だめに決まってんだろ、いきなり何言ってやがる」
「氷帝ヤダ。俺もじん君と一緒の学校がいい」
「何わがまま言ってんだ。とにかく、ちゃんと受けに行け。お前なら楽勝だろ。……道、分かるか?」
「……分かんない」
尚樹の答えに、やっぱりな、という感じでため息をついた少年は不機嫌そうに頭をかいた。
「仕方ねー奴だな……連れてってやるから、そんな顔すんじゃねーよ」
彼の少し乱暴に頭をなでるしぐさがひどく優しくかんじて、尚樹の顔に自然と笑みが浮かんだ。こんなに平和な世界は久しぶりだ。
「ありがとう、じん君」
「……ちっ。着替えたら夕飯食いにこい」
あと、ドア開けるときはちゃんと相手確認してから開けろ! と捨て台詞のようにそれだけ言って、少年は隣の部屋に戻っていった。どうもお隣さんらしい。それを見届けて、夜一を抱えたまま尚樹も部屋に戻った。
「夜一さんだよね?」
「……ああ」
改めて確認を取ると、いつも通りの声で夜一が返事をした。夜一のほうはと言えば、見慣れない尚樹の姿に少し警戒しているようだ。暗くなってきた室内に明かりをつける。
「どうもまた移動しちゃったみたいだね」
「みたいだな……それよりお前、その体」
どうした、といつもより背の高い姿を見上げる夜一に尚樹は苦笑を洩らした。夜一が驚くのも無理はないだろう。尚樹でさえこの状況を把握できているわけではないのだから。
「憶測なんだけど、そうもこの体の持ち主は死んじゃってるみたいなんだよね。で、まぁたぶんだけど俺もさっきナルトの世界で死んじゃってるんだと思う」
最後に見たのは白くかすれてゆく世界。目を開けようとしても瞼がひどく重くて、手足がしびれて音という音が遠ざかった。体の中からこぼれていく血は、命そのものだった。あれが初めての経験だからはっきりしたことは言えない。でもきっと、あれが死というものなのだろうと、尚樹は思った。
「意識だけ飛んだってことか」
「うん、たぶんだけど」
「それにしては……」
似ている、と夜一は尚樹の顔を見上げた。確かに顔は違うのだが、なんだろう、この感覚は。目の前にいるのは確かに尚樹だと、妙な確信があった。全く別人の体にしては初対面という感じがしない。夜一が一人で何か考え込んでいる間に、尚樹は部屋の中を物色してとりあえず別のシャツに着替えていた。
「ま、とりあえず衣食住は保障されてるみたいだし、ラッキーかな」
こんな普通の世界じゃ、生活費稼ぐのも一苦労だからね、とすっかり妙な常識に染まった頭で所帯じみた結論をはじき出した飼い主に、夜一は力なく同意した。