晴れ時々雷雨。その壱
血の臭いで目が覚めた。
わずかにかすれた視界には、もはや渇いて黒くなった血と、青い錠剤。
ひどく愚鈍な頭をかかえて、尚樹は何とか上半身を起こした。
フローリングの床。
ほとんどもののない殺風景な部屋で、綺麗に磨き上げられた木目が薄暗い中でも分かる。
これはまた「跳んだ」な、と状況を把握すべく部屋の電気をつけた。
ふと、背伸びをせずにしかも胸ほどの高さにあるスイッチに違和感。
悪いとは思ったが洗面所を探し、鏡の中に映る自分の姿を凝視した。
「……誰だ、これ」
鬱陶しくのばされた前髪に、血の気の引いた青白い顔。
目の下にはうっすらとクマもある。
そして、長いこと子供の体に慣れていた尚樹にとって一番衝撃だったのは、180を超えると思われる長身だ。
軽く混乱気味に鏡を覗き込んでいると、体重をかけた左手首に鋭い痛みを感じた。
ずきずきと痛み出したそこに目をやれば、ぱっくりと横に切れている。
「なんだってー」
こんな傷に気付かないなんて、自分はどれだけ鈍いのか。
とりあえず手当てを、と思い傷口にこびりついた血を恐る恐る洗い流す。
「……躊躇い傷、っていうんだっけ、こういうの」
ぱっくりと切れている傷のほかに、弱々しい切り傷の跡。
とすると、あの青い錠剤は睡眠薬かその辺りか、とすぐに思い至った。
おそらくもうこの少年は死んでいるのだろう。
その空いた体に、尚樹の意識が宿っている。
こういうケースは初めてだな、と少しだけ焦りを覚えた。
他人の体は厄介だ。
まず、持ち主の交友関係や家族関係が分からないし、本人の人柄も分からない。
口調や考え方、見ず知らずの他人のそれを真似ることは不可能だ。
なにより、個人的に顔が変わってしまうことが困る。
ゼタさんのところに戻ったときに、これでは自分だと分かってもらえない。
正直、他人の人間関係なんて知ったこっちゃない尚樹には、それが一番の問題だった。
「……あ、ていうか夜一さん」
ここにきてから姿を見ていない。
とりあえず、他人の体なので一抹の不安はあるが、円をして家の中の気配を探る。
念を使えたことにほっとしたのもつかの間、いつもより円の範囲が広げられないことに顔をしかめた。
体を手のひらで触ってみて、状態を確かめる。
「……もともと、あんまり筋肉があるほうでも体力があるほうでもなかったけど」
これよりはましだ、とため息をついた。
現実世界での自分の体がこれよりもはるかに貧弱であったことなど、記憶の彼方だ。
夜一さんがいたら、周りがすごすぎて気づかなかっただけで、尚樹も一般人以上だと突っ込んでくれただろう。
「とりあえず、この腕を何とかしないと…」
回復系の道具、回復系の道具、と頭をめぐらせる。
最近の困ったことと言えば、元の世界を離れて相当な時間がたっているので、あまり使わない道具を思い出せないと言うことだ。
じじくさい。
「あ、てかここどこだ。何の世界……」
見た感じ、わりと現代系のような気はするが。
近くにあったタオルを包帯代わりに手首に巻いて血がたれないように応急処置。
リビングに戻ってテレビをつけた。
チャンネルを適当にまわすと、何の変哲もないバラエティ番組やドラマ、ニュース。
おかしなところはない。
次に、部屋の隅に置いてあったカバンに手をかけた。
今となってはこれも自分のものだから、開けることに遠慮などいらない。
ばらばらと床に中身をぶちまける。
そういうところは、と言うかそういうところも尚樹は豪快なのだ。
とりあえず、身分証がありそうなのは財布だろうと、薄いそれを手に取る。
カード類を確かめていくと、保険証が出てきた。
「名前一緒なんだ……って、まさかの中学生」
背が高いからてっきり高校生かと思っていたら、まさかの14歳。中2。別に嫉妬なんてものはしていない、断じて。
学生証は見当たらない。
「うーん……義務教育だから通ってないことはないと思うんだけどな。あ、そもそも中学とか言う概念がないとか」
まさかね、と自分で否定しつつ、携帯電話に手を伸ばす。つるりとしていてボタンが一つしかないと言うシンプル設計。現代社会を離れて久しい尚樹にはこれがスマートフォンだと言うことを知る余地もない。
着信履歴には登録されていない番号がいくつか。
発信履歴も同じく。
メールを開くと、大半同じ人物からきていた。
「じん君……」
全体的にそっけないものばかりだが、仲は良さそうだ。この感じだと彼女とかはいなそう……とっちょっとだけ失礼なことを考えた。
それ以外は、英語のメールがちらほら目に入る。
「じん君時々迷惑メール……友達少なかったのかな」
まぁ、尚樹にとってはそのほうが都合がよいのだけれど。
バッグの中身は後はこまごまとしたもので、情報が得られそうなものはない。
唯一まだ望みが持てるものは、A4の灰色の封筒。
手に取ると、封が開いていたようで、中身がばさばさと散らばる。
その中の、パンフレットらしきものに目が留まり、尚樹はようやくここがどこか把握したのだった。
鮮やかなパンフレットの表紙に書かれていた文字は、「氷帝学園中等部」