徒野-27-

火影室には清廉な空気が満ちていた。その中央に寝転がったまま数秒天井を見つめ、ゆるりとまぶたを閉じる。
目を閉じれば、先ほどまで一緒だった子供の顔が浮かぶ。もう、子供と言う歳ではなかったが、扉間には尚樹は何時までも子供のようなものだった。
おそらくあれが、今生の別れ。木の葉まで飛ばされてしまえば、扉間にあそこに戻る術は無い。
まったく、どこまでも予想の斜め上を行く奴だ。
重い腰を上げて、引き出しの中から尚樹の遺言書を探した。行く前に書かせたそれは、比較的すぐに見つかった。
まだ確実に死んだと決まったわけではない。わずかに躊躇したものの、扉間はその封を切った。
既に火影の身ではない扉間には、今しかこの封を切るチャンスが無い。
あれがいったいどんな言葉を残したのか、ただ知りたいと思ったのだ。
三つ折りにされた紙を開く。そこに書かれていたのは、尚樹の名前と、忍者登録番号、書かれた日付だけだった。
まさか、と思って残されていた遺言書をすべて開く。
どれも、しみ一つない綺麗なものだ。
「……困った奴だな」
尚樹らしいと言えば、尚樹らしい。
「……言葉一つくらい、残していかんか」
物に執着しない子だと思っていた。口には出さなかったが、人にも、場所にも執着しない子だった。「帰りたい」とは一度も言わなかった。
そんな尚樹をしかるのが、扉間の仕事だった。死んだ後までしかることになろうとは、扉間も思っていなかった。
わずかに苦笑が浮かんで、ほんの少しだけ目頭が熱くなる。
その後、慰霊碑に尚樹の名を刻んだのは、何も残そうとしなかった尚樹への、ちょっとした扉間の意趣返しだった。


昔の事を思い出しながら、ヒルゼンは尚樹の遺言書を集めていた。遺言書は3年程度保存されている。だが大体時期が来たからきっちり処分される、と言うわけでもないので、集めてみれば意外と残っているものだ。暗部でかつ高ランク任務を受ける事の多い尚樹は必然的に遺言書の数も多い。
本来なら一番新しいものしか必要ないのだが、開ける前からおそらく白紙である事は分かっている。どれか一つでも真面目に書いていてくれば儲け物と言うものだ。
本来なら中を確認するのは火影の役目だが、尚樹が死んだばかりで綱手はそこまで手が回らない。
中が白紙ばかりである事を知っているのは、昔二代目とともにそれを確認した事のあるヒルゼンだけだ。遺言書は生涯一度しか開かれる事は無い。人によっては、誰の目に触れる事もなく破棄されるものもいるだろう。
これが開かれるのは本人が殉職したときのみ。
「……まさか、二度もこれを開く事になるとはの」
かつて、火影の任をおりたにもかかわらず、ヒルゼンの帰還を待たずに遺言書を開封した扉間の心境を思う。二代目がよく面倒を見ていたとは言え、ヒルゼンも生徒として尚樹を任務に連れて行った。だから、どうしても自分で開封したかったと言う二代目の言葉が分からないわけではない。
一番新しいものから封を切る。指にあたる感触は、一枚ではなかった。空白ばかりが目立つそれに記されたわずかな黒。
ヒルゼンはあわてて残りの封をすべて切った。
耳の奥に自分の鼓動が聞こえる。唯一内容の記された遺言書は、一番新しいもの一つだけだった。
「……シカマルをここへ」
静かに吐き出した声は確かに届いたようで、見えない所に控えていた者の気配が一つ消えた。
もう一度遺言書に視線を落とす。数秒とかからずに読み終えるほど短い文字の羅列。
それでも、それは確かに意味をなすもので、まぎれも無く遺言だった。
「……これで最後、か」
かつて遺言書を開いた時は、いつかまた会う日が来るだろうと未来を思った。あの日遺言書を白紙で出したのがそういう意味なのだとしたら、これが意味する所は一つしかない。
「どこまで先が見えていたんだろうな、お前には」
未来視とも思えるほどの予測。まさか見事に最後の一枚だけ書いて残すとは、さすがのヒルゼンも思わなかった。
ここに二代目がいたら何といっただろうかと、額縁におさめられたその肖像を見遣る。
ドアをたたく音とともにシカマルの声が聞こえ、過去に戻っていた思考を戻した。
「入りなさい」
失礼します、とドアを開いて入ってきたシカマルの顔はいつもとさほど変わりない様に見える。
ご用件は、と口を開いたシカマルの視線がテーブルの上で止まる。察しのいい彼はもう気づいただろう。書いた事があるものなら、わざわざ中が透過出来ない様に黒の封筒に術式まで施されたそれが、遺言書をおさめるものだと一目で分かる。
「……白紙、だったんすね」
いくつも開かれたそれを見て悟ったのか、苦笑を浮かべたシカマルに、ヒルゼンは最後の一枚を差し出した。
「それ以外は、おぬしの予想通りじゃ。呆れた奴だのう」
「……俺が見ていいんですか」
「半分はおぬし宛じゃ」
ためらいがちに遺言書を手に取って中を確認したシカマルは僅かに顔をしかめた。
「……昔っから勘のいい奴だとは思ってましたけど、さすがにこれはおかしいでしょ。死ぬって分かってて、任務に出るような奴じゃ」
言葉の途中でシカマルは唇をかんだ。おかしい。みぞおちのあたりを気持ちの悪いものが渦巻いている。
わざわざこれ一枚だけ書いて残したのは死ぬと分かっていたから。遺書の一行目に「綱手には遺書は白紙だと伝える事」と書かれているのは、五代目以外が開封すると、おそらく三代目が先に目を通すと分かっていたから。
普通に考えたら。
一番最初にこれを目にするのは五代目のはずなのに、だ。
「……ご丁寧に、わざわざ白紙の遺書も同封してあった。困った奴じゃ」
長い沈黙の後にシカマルは長いため息をついた。
「……先読みってレベルじゃないすよ。それでも、尚樹だから、でなんとなく納得してしまうのは、あいつに慣らされ過ぎてますかね」
「奇遇じゃの。わしもそう思っておぬしを呼んだ所じゃ」
「……勘弁して下さいよ」
暗に、共感してくれる人間が欲しかったと言われてシカマルは脱力した。ため息とともに肺の空気が抜けていく。
みぞおちから上がってきたものはのどを震わせ、わずかな嗚咽となって唇から漏れ出た。

尚樹の葬儀は静かなものだった。未だ下忍であった尚樹には里を上げての葬儀と言うものは執り行われない。
それでも、棺一杯に添えられていく花をカカシは一つ二つと数えた。目の前で死んだのに、悪い冗談にしか思えない。いつかのように、ある日突然けろっとした顔で戻ってくるのではないかとその顔を眺める。
夜一はカカシの喪服にとけ込む様に大人しく腕に抱かれていた。この状況を分かっているのかいないのか、カカシには分からない。
尚樹ならそれを望むだろうから、という自来也の言葉で土葬ではなく火葬が決まっている。遺体が無くなってしまえば、本当にこれで最後だ。
そう思っていても、蓋をされ運ばれていく棺を見送る事しか出来ない。
「……カカシ先生、大丈夫すか」
肩を叩いたシカマルにゆっくり視線を移す。
「大丈夫だよ」
何を持って大丈夫と言うのだろう。普段なら考えもしない事を考える。思考はひどく緩慢だった。
「……この後、家にお邪魔してもいいすか」
「今日は」
「尚樹の事で話があります」
断ろうとするカカシの返事を遮って、シカマルが言葉を続けた。尚樹の事、と言われてしまえば断れるはずもない。
カカシは一つ頷いて曇天の空を見上げた。尚樹が任務に出た日は、雨が降っていた。2、3日留守にすると言っていた。今回は4人でやると言っていた。任務内容は知らないと言っていた。暗殺ではないと言っていた。
当たり前すぎて取りこぼしてしまった日常を浚う。何気なく混ぜ込まれた嘘にわずかな違和感。
綱手の話では、尚樹は任務の前日に内容を知らされていたはずだ。
策略とか、駆け引きとか、そういうものと無縁の尚樹がついた嘘。それにどんな意味があるのか。
考えても意味の無い事だと分かっているのに、考えずにはいられない。もっとちゃんと話を聞いていれば、表情や空気を観察していれば気づけた事もあったのではないか。
点火の合図に、ずっとかわいてた瞳の奥に熱を感じた。

火葬場から立ち上る煙を放心した様に見つめるカカシに、シカマルはまぶたを伏せた。
カカシ先生は、ああ見えて繊細だからさあ、と耳の奥に尚樹の声がよみがえる。
全部燃やしてくれると助かる、と簡潔に記された文字。シカマルへ、と前置きまでわざわざされていれば、それがつい最近交わした約束の事だと分からないはずも無い。まさかこんなに早くそれを思い出す日が来るとは夢にも思わなかった。
先に死ぬ前提で話すな、と言っていたのに現実になってしまった。
「……なかなか、嫌な役目を押し付けてくれるよな」
小さく吐き出した言葉は、誰に聞かれる事も無い。
遺言書に書かれていたのは、五代目に内容は白紙だったと伝える事と、シカマルへの伝言だけ。せめてカカシにも何か残していてくれれば少しは気が楽だったのに。ああ、でもそれだと約束と矛盾するのか、とそこまで思い至ってため息を飲み込んだ。
言葉一つ残さないなんて、そっちのほうがよっぽど残酷だとシカマルは思うわけだが。
あげくこれから尚樹の持ち物を処分しないといけないのである。カカシから見たら自分は極悪非道といっても差し支えない。とんだ憎まれ役である。
カカシにならって空に消えていく煙を見遣る。
尚樹が、死ぬ間際に何を思っていたのかは分からない。でも、死ぬかもしれないと思ったときに考えていた事はなんとなく分かる。
三代目の話では、今回の任務は五代目の出したもので、カカシが尚樹の面倒を見ていたのはアカデミー以前からの事らしい。
自分が死ぬ事に、責任を感じたり、悲しんで欲しくないと思ったのだろう。何も残さなければ、誰も悲しまないと思ったのだろうか。もしそうだとしたら。
「ほんと、考えが甘いよ」
肝心な所で抜けてんだよな、と苦笑が漏れた。

部屋に灯りはついていない。いつの間にか日が暮れて、部屋の中は随分暗くなってしまった。
帰ってきてからどのくらいぼんやりしていたのか。
遺骨をひろって部屋に戻った後、話があるとついてきていたシカマルは、カカシに黒い封筒を渡した。
もともと暗部だったカカシは、もちろんそれがなんだか分かる。
その場で開く事は出来なかった。
ただ、シカマルは遺言があるから、と尚樹の私物をほとんど持っていってしまった。
ほとんど、と言うのは、カカシが申告しなかった分であり、おそらくシカマルが意図的に残した分があるからだ。
シカマルは尚樹の私物の少なさに驚いていたが、カカシも内心では驚いていた。
薄暗い部屋を見渡す。電気をともすと、部屋の隅に置かれた観葉植物が水をくれと主張する様にこうべを垂れていた。
それは尚樹のものだったが、シカマルは植物には手を付けなかった。カカシが言わずとも、おそらく持ち主は分かっていただろう。
水を汲みに台所へ向かう。電気をつけると、いくつも下げられた色鮮やかなアクリルたわし。
初めて作った時はただの円状だったのに、すぐに上達していつの間にか花のモチーフになっていた。
思えば、長く二人で過ごしたのに、尚樹の私物は驚くほど少ない。
コップに水を注ぐ。それを持って部屋に戻って、観葉植物の前にしゃがみ込んだ。
尚樹が死んでしばらく、家に戻って来れなかったせいで、随分と乾いてしまっている。
正直、これの存在をカカシは欠片も思い出さなかった。尚樹に世話をお願いされていたのに。
枯れる前に戻れて良かったと安堵して、コップの水を乾いた土にまいた。
枯れてしまった葉を摘み取る。手の中でかさかさと枯れた葉が音を立てた。
「……俺一人じゃ、こいつの面倒見きれないよ」
一度しゃがんでしまったら、立ち上がるのが億劫になるほどくたくたに疲れている事をカカシはようやく理解した。
ポケットの中には、シカマルに渡された封筒。
いつも遺言書は白紙で出していたと言う尚樹の、最後のそれ。
こうなる事を予測していたのだろうか。
雨の朝に出かけた尚樹の表情を思い出せない。もっと良く見ておけば良かった。いつだって、最後はあっけないものだ。
重いものが身体を支配して、思考を良くない方に導いていく。
もう、尚樹の身体は残っていない。残っているのは、額宛と、カカシが持たせていたドッグタグ。それに少しの装飾品と武器の類い。
でもそれすらも、カカシの手元には残らなかった。
黒猫がカカシの足に頭をこすりつけてエサをねだる。
尚樹が死んでから、夜一はまるで普通の猫の様になってしまった。以前はカカシに寄り付きもしなかったのに、こうしてエサをねだり、膝の上で丸くなる。
キャットフードを無心に食べる姿を見ながら、シカマルから渡された遺言書を開いた。
はじめの頃、尚樹は時折妙な字を書いていた。筆がうまく扱えず、チラシの裏に時々練習した跡をみたこともある。
ペンで書かれたそれは、昔カカシが見たものとは少し筆跡が違って見えた。ずいぶん字がきれいになったものだ。
なぜ、自来也の死は予言出来たのに、この結果は予言出来なかったのか。
ふと、そんな疑問がカカシの頭をよぎった。
水沢尚樹なんて人間は木の葉にはいない?
そんなはずは無い。ずっとここにいた。たとえすべて無くなっても、覚えている。
予言者には分からなかった未来が、尚樹自身には分かっていた?
そもそも、あの予言者は本物なのか。本物ならどうして。
目をきつく閉じる。
分かっている。これはただの八つ当たりだ。気づくべきは予言者ではなく、ずっとそばにいたはずの自分だった。
「……これでも結構、表情は読めてる方だと思ってたんだけどね」
最後は、結局向こうの方が一枚上手だったと言うわけだ。