徒野-24-

乾いた空気が肺から漏れた。食器を洗いながら窓の外を見遣る。曇天の空は日を遮って停滞している。まだ早朝だと言うのに薄暗い。
これは洗濯物干しても大丈夫だろうか、と思案しながらも手は無意識に動いて食器についた泡を洗い流してゆく。
ふと隣に立った気配が手を差し出してきたので、綺麗になった食器を手渡した。
慣れた手つきでそれを布巾でぬぐうカカシはどこか眠そうだ。もともとそういう顔だとも言えなくはない。
「……熱計った?」
「いえ、なんでですか?」
「変な咳してるから。病院行くか?」
けほけほと乾いた咳を繰り返す尚樹をカカシが見下ろす。
「別に、なんともないですよ? 体調も悪くないし、病院行くほどじゃないです」
「咳が出てる時点で体調悪いでしょ。お前の平気はあてにならないんだよね」
とりあえず熱を測っておいで、と言うがはやいか尚樹の手からアクリルたわしを奪う。本当に何ともない尚樹は首を傾げながらも大人しくカカシの言葉に従った。
尚樹お手製のアクリルたわしで洗い物を終えたカカシは、熱を測りながら洗濯物を干そうと動きまわる尚樹を捕まえ、ソファに座らせてから代わりに洗濯物を干し、床にモップをかけようとする尚樹の手からモップを奪い掃除して、ようやくはかり終えた体温計を受け取った。
36.8℃。
微熱と言えなくもないが、尚樹は意外と子供体温なのでこのくらいが普通である。
「とりあえず病院に行くか」
「なぜ!?」
たった今平熱だと判明したばかりだと言うのにこれはどういう事か。尚樹は平常通りのテンションで診察券と保険証を準備しだしたカカシを、呆然と見遣る。
「いやいや、おかしいですよね、カカシ先生。俺元気です」
病院に行こうと手を引くカカシに我にかえって尚樹は訴えた。もしかしてまだ寝ぼけているのかとその顔を見上げる。やはりあまり判別がつかない。
「これから悪くなるかもしれないから、早めに行った方がいいよ。早期発見早期治療って言うだろ」
「いやいや、それもっと大きい病気ですよね。風邪とかじゃないですよね」
「風邪は引き初めが肝心だぞー」
「ニャー!」
ぐっと腹に腕をまわされたかと思えば、瞬身の術で家を後にしていた。何を言っているか以下略。
ちなみに病院のおねーさんたちに凄く微笑ましい目で見られて凄く恥ずかしい思いをしたのはここだけの話である。

「と、言うのが今朝任務に出る前の出来事な訳なんだけど」
「何をやっとるんだ、お前達は」
呆れた声を上げたのは机を挟んで向かいに座る自来也だ。お前達、という言い方は心外である。尚樹はただ流されただけに過ぎない。
「まあ、お前達のアホなやり取りは脇に置いておくとしてだ、ワシは最近気になった事はないかと聞いたんだぞ」
アホなやり取りとは失敬な。尚樹は自分は決して悪くないと、みそ汁をすすりながら上目遣いに自来也を睨んだ。
「だいたい、誰がお前の家庭の悩みを聞いた。そうじゃなくて任務中に気づいた事とか気になった事を聞いとるんじゃ」
自来也を睨む尚樹の下で黒猫が定食の焼き魚を静かに食い散らかしているのだが、尚樹は自来也を睨むのに忙しくそれに気づいていない。その何とも間の抜けた光景を半眼で眺めながら自来也はこれみよがしにため息をついた。
「……気になる事ねぇ。質問の意図が分からないな、結局自来也は何が聞きたいの?」
回りくどい事は嫌いだ。尚樹の通知表にはいつも国語の欄にろくな数字がついていなかった。人の機微に疎いのはもちろん、良くも悪くも尚樹の思考は単純である。最近気になる事は無いか、と問われれば、気になる事を話す。
「何をと言われてものぉ……はっきり決まっているわけではない。ただお前は鈍いようでいて敏感だからの。何か手がかりがつかめるかもしれんだろう」
「手がかりね……いったい何の手がかりを探してるやら」
ようやく食べ散らかされた魚に気づいた尚樹は、静かに夜一と目を合わせた後、何事も無かったかの様にそれを食べた。それでいいのか、と突っ込みを入れたかったが、話が脇にそれてしまうので自来也はぐっとこらえる。
「……カカシ先生が」
「またカカシか!」
家庭内の問題から離れない尚樹に、思わず声を上げる。そんな自来也をちらりと一瞥して、尚樹は言葉を続けた。
「ちょっとピリピリしてる気はするかな。いつもなら、さすがにあの程度で病院に連れて行かれたりはしない、と思う」
空気がざわついた。
尚樹の視線はほとんど骨と皮だけになった魚にそそがれている。食べる所が残っていないそれにようやくあきらめがついたのか、兎の箸置きに箸をもどした。
緩慢な動作で頬杖をつく。
面を上げて、正面から自来也を見つめるその顔には、僅かに笑みが浮かんでいる様に見えた。
「同じ日に幼馴染みが最近気になった事は無いか? なんて聞いてくる」
気になるねぇ。店の喧噪が遠のいて耳鳴りが通り過ぎる。服の下で肌が泡立ったのを自来也は感じた。
コップの中で溶けた氷がからんと音を立てる。時が止まったかのような緊張感を生み出した本人は、自来也の内心など丸っと無視して近くを通った店員を呼び止め、お汁粉と熱い御茶を追加注文した。

「予言者?」
「ああ」
お汁粉を食べながら、尚樹は自来也の言葉に首を傾げた。予言者とはまた、けったいな話だ。
いや、まあこの世界ならあり得なくもないのか? とまだ熱い餅と格闘しながら尚樹は話の続きに耳を傾けた。
曰く、木の葉崩しを予言した、結果として三代目は助かり今も生きている、我愛羅が砂影になることを予言した、など。
他にも、綱手が五代目に就任することや、イタチが死ぬこと、サスケが鷹を結成すること。
そして、彼女は異世界人だと言った。
自来也の最後の言葉に、尚樹は一瞬だけ動きを止めた。残りを飲み干してお茶に手を伸ばす。
「……お前、その眼は信じてないな?」
「そんなこと無いけど、本人に会ってみないと判断は出来ないかな」
「まあ、それもそうか」
口にすると真実みが減る、と自来也は渋い顔で腕組みをした。
その顔を尻目に、尚樹はお茶にふーふーと息をかける。
異世界人なんて話、信じた人間がいるのか、と上辺だけで同意を示しながら、尚樹はその予言者について考えていた。
異世界人、というのを仮に信じるとすれば自分と同じようにナルトの原作を知っている日本人である可能性が高い。もちろん、海外出版されている本なので絶対とは言い切れないが、英語なんて通じないだろうと言うのが尚樹の考えだ。
出来れば接触したくないな、と頬杖をついてその異世界人とやらに僅かばかり思考を巡らす。三代目が生きているのは、つまりその予言者のせいか。
ひっそりとここの住人として生きてきた尚樹からすれば、同類だと思われるのは迷惑だ。
「まあ、いずれにしても興味ないかな」
伝票を片手に立ち上がった尚樹に、自来也があわてて立ち上がってそれを奪い取る。
わずかに顔を上げて自来也に視線を流した尚樹は、自分が払う、という自来也にふっと口元を緩めた。
「昔は、おごってってうるさかったのに」
「……あの頃は金がなかったからの」
やりずらそうに視線をそらして自来也はそそくさと支払いにいってしまった。
先に外に出て人の流れを眼で追う。
車なんてない、道路もアスファルトで舗装されていないこの風景に嫌と言うほど慣れてしまった。
流れる日常は記憶をさらっていく。
ああ、そいういえば、ここの人間じゃなかったんだった、と地面に落ちる自分の影に手を振った。
予言者。
嫌な予感がするな、と湿気をはらむ風にため息をつく。
洗濯物を取り込みに帰るか、とその予感を頭の隅に追いやった。

「予言者?」
取り込んでおいた洗濯物を畳もうと手を動かしながら、尚樹はカカシの言葉を復唱した。
つい先ほど、同じような話を聞いたな、と話半分に耳を傾ける。やはり、同じ話だ。
二人して同じ話を同じ日にすると言うことは、つまりその予言者がらみで何ががあったと言う事だ。例えば、なにか重大なことを話したとか。
ついでに、二人ともその話をわざわざ自分にしたところに、嫌な予感がする。
巻き込まれたくないと思う矢先に、巻き込まれそうな気配をひしひしと感じて尚樹はため息をついた。出来るだけ自分からは触れたくない話だ。
興味ない、興味ないと念じながら洗濯物を畳む事に没頭する。
無心に洗濯物を畳む尚樹を、カカシは少し離れた所から観察した。就寝前のどこか手持ち無沙汰な時間。
尚樹は右に左に動き回っているのだが、多くの家庭と同じ様に、こういうとき男と言うのは特にする事がない。テーブルに頬杖をついて、静かに視線を送る。尚樹がカカシの話に反応したのは初めだけで、それ以降はまったく興味がなさそうだ。
聞いているのかいないのか、相づちだけは返してくる尚樹に、カカシはその予言者から聞いた話を続ける。最近でこそ違和感を覚える事は無くなってきたが、初めの頃尚樹の言動は、まるで予言者のそれだった。だからこそ、カカシもまだ幼かった尚樹を異常なまでに警戒したのだ。

「そんな人間いないはずだわ」
それは確信に満ちた響きを持って、場を支配した。雨の気配を感じさせる湿った空気。雨の日に子供を拾ったのは、もうずいぶんと昔の話だ。冷えた身体は、長い事雨に打たれていた証拠。
それより遅れて保護されたと言う少女は、予言と言うにはあまりに的確に未来の事を告げた。
今までその存在は伏せられていたため、カカシも今回初めて彼女の事を知ったのだ。そして、その彼女が言ったのだ。
水沢尚樹なんて人間は、木の葉には存在しない、と。
水の国での情報を持ち帰った自来也の話と予言者の言葉から、尚樹を偵察に向かわせようという話の途中だった。尚樹がその真価を発揮するのは、主に暗殺方面だが、意外な事に潜入も得意だ。随分と中枢まで潜り込んでは、その場に居たかの様に情報を拾ってくる。そして何より、帰還が速い。
だからこそ、今回も尚樹が適任だと思われた。満場一致で尚樹の名前が出た所で落とされたのが、先の言葉だ。
一度疑いだせばきりがない。長い時間を共にしたカカシだから分かる、積み重なる時間に押しつぶされてもぬぐいきれない違和感。
予言者の黒い瞳は、どこか尚樹に似ている気がした。
「それで、水影はうちはまだらだと言うんだが……」
ああ、そういえばそうでしたね、とごく自然に返した尚樹に額宛の下で左目がうずいた。

む、これは生乾きか、とバスタオルをハンガーにかけて桟に引っ掛ける。最近天気が悪くていまいち洗濯物の乾きが良くないのが悩みだ。
畳んだものをなおそうと振り返った尚樹のすぐ目の前に、カカシが立っていた。とても珍しい事だ。何がって、気配も、足音もしなかった事。
そういえば、家に帰ってきたというのにカカシは口布をしている。いつもと違う、僅かな変化。とっさに、警戒されいている、と感じた。
のばされた手が自分に触れる直前、オーラが揺らいだ。こればかりはハンターの世界で染み付いた習慣で、長く離れていても消える事のなかったものだ。
考えるよりも先にオーラがとどまり体を循環する。
本能が自分の肉体を守ろうとしていた。
「……カカシ先生?」
「水影の事、どこで知った」
水影? 何の話だ、と尚樹は顔を眇めた。そもそも何の話をしていた? 予言者の話だ。
自来也からもそれは聞いている。おそらく自分と同じく原作を知っている異世界人。
ただ、もうずいぶんともとの世界を離れた自分とは違い、まだここに来たばかりの、記憶が鮮明な人間。
「……すいません、話が見えないんですが……どこから水影の話が?」
きょとんと首を傾げる尚樹に、カカシはため息をついた。
「オレの話、聞いてた?」
「えっと……予言者がいるって話ですよね。なんで水影の話になったんですっけ」
「はあ……聞いてなかったね?」
「う……すみません。バスタオルが生乾きで」
それまで無表情だったカカシが、唐突に吹き出した。
いま、笑うとこあったっけ? と思わず首を傾げる。肌を刺すような空気が一瞬で和らぐ。ああ、これ、殺気か。遅ればせながらその事に気づき、とどめていたオーラの量を減らした。
「洗濯物はいいから、ちゃんと話を聞きなさいってば」
「はあ。でも放っておくとしわになっちゃいますよ?」
いつも通り無表情で自分を見上げる子供の頭を優しく撫でる。なんだか、一気に罪悪感が押し寄せてきた、とその体を抱き上げる。
あの表情は久しぶりだ。表面上ほとんど変わりはないように見えるが、わずかにぎこちない、探るような視線。
自分が一番に疑ってどうする、とその頭を肩口に押し付けた。
「カカシ先生?」
「んー」
「苦しいです」
「うん」
いつもよりわずかに低い体温。大丈夫、尚樹は木の葉を裏切ったりしない。自分を欺いたりしない、と自分に言い聞かせるようにその髪をすいた。

ああ、やっぱり。尚樹は大人しくされるがまま昼間の事を思い出していた。
最近気になる事は無いか、と問われれば、やはり尚樹はカカシ先生の様子が変だ、としか答えられない。
そして、それから数日後の事だ。自来也が雨隠れの里へ向かったのは。
たまたまだったが、尚樹は任務に向かう自来也を見送った。これで、彼の役目は終わり。
そしてその2日後、綱手に呼び出され、彼女の前に立った。
綱手から、暗部として要請を受けるのは珍しい。それまではたいてい裏の仕事は三代目からもらっていた。
「今から4人でセルを組んで雨隠れに向かってもらいたい」
「……任務内容は」
「自来也の援護だ」
「綱手、それだと多分、俺たちは足手まといになると思うよ」
「そんなことはない」
「根拠は? 潜入なら人数が多いほど見つかりやすくなる。綱手はもう火影なんだから、私情で動いたら駄目だ」
自来也は、ここで死ぬ役目だ。尚樹には手出しをする気がないし、首を突っ込めば死ぬ可能性も高い。悪いが、綱手の頼みを聞く気にはなれなかった。
「……自来也は、死ぬかもしれない」
綱手の言葉に、尚樹は眼を眇めた。
「だから?」と反射的に聞き返してしまいそうになるのを押さえて、思考を巡らす。
なぜ、いきなりこんな事を言い出したのか。
忘れかけていた、予言者、という単語が頭の中をまわる。
正確な情報は覚えていないものの、雨隠れの里で自来也が死ぬ事は、尚樹でも覚えている。
ならば、その予言者とやらが何か言ったのかもしれない。
余計な事を、と内心で舌打ちをした。
ここでしつこく拒否するのは、さすがに不自然か。僅かな逡巡の後に、尚樹はこらえきれずにため息をついた。結局、不自然だとかそういう事以上に綱手のお願いには弱いのだ。
僅かに綱手が緊張するのが見て取れる。
「メンバーは?」
「お前と何度か組んだ事のある人間の方が良いだろうと思って、テンゾウとシビとチョウザを考えている」
また懐かしいメンバーを。というか、その情報はどっから仕入れた。
三代目か、と自問自答して尚樹はため息をついた。
大人の姿に変化して、口布をつける。相手に顔を見られたくない、というのが一番の理由だが、どうにも咳が収まらないので単純にマスク代わりだ。
「セルの指揮権を俺にくれるなら、考えても良いよ」
「……分かった」
「なら、伝言を。出立は明日早朝5時。第3演習場に集合」
「第3演習場でいいのか?」
「うん。雨隠れまで直接転移する」
「……お前、転移なんて出来たのか」
「まあね。いつでも出来るわけじゃないから、細かい事は聞かないでね」
「……分かった」
「あと、遺書書かせて」
「遺書じゃなくて、遺言状だ」
わざわざ訂正して寄越した綱手に、首を傾げる。語彙の少ない尚樹にはあいにくとその二つの違いは分からない。
用紙を受け取って綱手に背を向け、部屋を移動する。ずっと白紙で出していたそれに、初めてつけたペン先から黒いシミが広がった。