徒野-23-

アカデミーは、日本で言う所の学校と、公民館の役割を兼ねている。普段使われていない教室の一部は、一般に開放されていて、ちょっとした講座が休日には開かれていた。
意外にも、アカデミーに通う子供達や、教師ではない忍び達はこの事実を知らない。
それもそのはずで、講座は基本的に授業の無い休日に開かれるし、その内容のほとんどは主婦向けである。具体的に言うなら、裁縫や料理と言ったものだ。
毎日カカシとは違った意味で新聞に目を通す尚樹は、早い時期からこの事実に気づいており、任務の入っていないときには参加していた。尚樹の日々の地道な努力で、はたけ家の食卓は成り立っているのである。
そして今日も近所の奥樣方に紛れて料理教室に参加した尚樹は、講座後の主婦達のおしゃべりにも抵抗無くまざり、しっかりおやつも食べた所でアカデミーを後にした。

買い物をして帰ろうと、商店街の方に足を向けた所で、良く知った声に引き止められる。
振り返ると、尚樹の予想通り、そこにはシカマルが立っていた。
「どこいくんだ?」
「夕飯の買い物して帰ろうかなって思ってた所」
「……少し時間とれねぇ?」
「別に急ぎじゃないし、構わないけど」
なら、こっち、ときびすを返したシカマルに、尚樹は大人しくついていった。追いかけるシカマルの背中は尚樹よりいくらか大きい。
「シカマルも、今日は非番?」
「まあな。そういうお前は、なにやってんだ」
「ちょっと日曜講座に……初めてパン焼き教室の抽選に当たったんだよ」
尚樹の言葉に、シカマルが疑問符を浮かべる。
「……パン焼き教室?」
「うん。他の講座に比べて人気が高くってさ、なかなか当たらないんだよね」
「……何の話だ?」
「だから、休日講座。アカデミーでやってる無料のやつ。シカマルのお母さんも、時々参加してるでしょ?」
「や、知らねぇけど……アカデミーでそんな事してるのか」
「知らなかった?」
「ああ」
講座には一応定員というものがあるので、人気の高いものは必然的に抽選になる。もちろんそんな事など知らないシカマルは、よく分からないながらも、大した事ではないだろうとスルーした。
家への道を進みながら、ちらりと後ろをついてくる尚樹に視線を送る。右に左に視線を飛ばしてふらふら歩く尚樹。そんなんだからすぐ道に迷うのだと、シカマルは言ってやりたい。
「……そういえば、ありがとな」
「何が?」
「花。アスマの墓に供えてくれたの、お前だろ」
「ああ……お葬式、出られなかったからね」
花の事は、イノから聞いていた。珍しく苗ではなく切り花を買っていったというイノの言葉に、シカマルはすぐに気づいた。頻繁にアスマの墓に足を運ぶシカマルだから、花が新しくなっていればすぐ気づく。
思い返せば、尚樹に不審なところなんて、たくさんあった。それでも、それを追求しようと思えないのは、尚樹が何も聞かないからだ。
尚樹は、自分からは何も言わないし、何も聞かない。
あのサスケが、アカデミー時代に珍しくも普通に言葉を交わしていた相手。その理由が、いまならシカマルにも分かる。
縁側に出しっぱなしになっている将棋盤の前に尚樹を座らせる。ためらいも無く、尚樹は駒を並べはじめた。
シカマルもそれに習う。もう考えなくても勝手に手が動くくらい繰り返した作業。
ぱちぱちと長考するでもなく尚樹が手を動かす。シカマルも無言で駒を動かした。わざわざ呼びつけたのに何も言わないシカマルに、尚樹も何も言わなかった。
手が進むと、分かりづらい尚樹の手も、多少は意図が見える。
よどみなく駒を動かしていたシカマルの手が止まる。ここに来てようやく、尚樹は盤面から視線をはずしてシカマルを正面から見据えた。
「……桂馬、とっても将棋は勝てねーんだぜ?」
「玉だけ残っても将棋は勝てないよ」
尚樹の言葉に、シカマルも盤面から視線を移す。正面にある尚樹の顔はいつも通りの無表情で、その瞳には感情らしい感情は浮かんでいない。
「……かなわねぇなぁ」
ぽつりとつぶやいたシカマルの言葉に、尚樹は首を傾げた。
「俺が勝てた事一度もないと思うけど?」
そういう意味じゃねぇんだけど、とシカマルは苦笑を浮かべて駒を進めた。
「アスマがさ、俺は将棋の駒に例えるなら桂馬だって、言ってた。お前は、なんだろうな」
「そりゃあ、もう」
これしか無いでしょ、と尚樹が動かした駒は、歩。将棋の盤面において最も数の多い駒。風に揺られる木の葉の影が、尚樹の頬に落ちている。緩く伏せられたまぶた。この表情をどこで見ただろうと、シカマルはぼんやり考えた。
「……そりゃあ、たちの悪い歩兵だな」
「失礼な」
軽口をたたいたが、尚樹が何を言いたいのか、それが分からないシカマルではない。
いつも気がつけば里に尚樹の姿は無く、任務先で出会う時はたいてい一人だ。暗部の任務で一緒にスリーマンセルを組んで以降、ずっと別行動だった。尚樹がひとより難しい任務をまかされている事は薄々感づいてはいたが、先日の様子でそれは確信に変わった。
アスマが死んで既に1週間は立っているのに、それを知らなかった尚樹。その腕に抱えているのが人の首だと、分からないほどシカマルは鈍くない。
尚樹の様子からして、そう簡単な任務ではなかったはずだ。それなのに、尚樹は一人だった。
尚樹の動かした歩兵をとろうと駒を動かす。
「シカマル、俺にして欲しい事はある?」
空中で手を止めたシカマルに、尚樹がいつもの調子で口を開いた。それは、いつもと変わらぬ声色なのに、何故かシカマルの不安をあおった。
尚樹の意図が読めない発言など珍しくもないのに、どうしてだろう。
ぱちり、と駒を進めて歩を手中に収めた。いつか、尚樹もこうして誰かに摘まれるのだろうか。

今しがた手にした歩兵を難しい顔で見つめるシカマルを、尚樹は静かに見遣った。先ほどから特攻を繰り返しては摘まれていく尚樹の歩兵。数は既に半分以下になっている。
どれも同じで、他と区別なんてつかないそれは、名前を与えられていない尚樹と何ら変わりない。画面の隅に出てくるか出てこないかの、名前すら無い群衆の一人。それが自分だと、尚樹は認識している。水沢尚樹、なんて人物はナルトの世界にいない。読者にも、もしかしたら作者にも認識されていない存在。
きっと、ここで生きて死ぬだけの存在。
まあ、簡単に言えばただのモブなんだけど、と尚樹は何やら深刻な表情を浮かべるシカマルを再度見遣った。
「……お前、俺の知らない所で死ぬなよ」
こてん、と首を右に傾ける。
……ああ、さっきの質問の答えか。
随分と間を置いて帰ってきた答えに、尚樹はやはり間を置いて返した。
「そんなんでいいの?」
「そんなのってなぁ……意外と難しいだろ」
「いや、いいだしっぺのシカマルがそれを言うのはおかしいよね? まあそりゃ、人間いつ死ぬかなんて分からないけどさ」
「まあ、つまりあれだ。あんま一人で危険な事すんなよってことだよ、面倒くさい奴だな」
「そっくりそのまま返しますー。シカマルもあんまり、責任とか感じない方がいいと思うよお?」
シカマルのそれは、いつか身を滅ぼす。なんだかんだで、シカマルは逃げる事を知らないのだ。
意外と正義感強い上に、情に厚いよね、シカマルは。
自分だったら、わざわざ単独で仇を取りにいったりしないだろうと、尚樹は冷静に考える。
「……良かったね、アスマ先生の最後に立ち会えて」
尚樹の言葉に、シカマルは目を見開いた。そんなことを言われたのは初めてだ。
あの時の光景が鮮やかによみがえる。乾いた砂の匂い。それに混じる強い血のにおい。イノの泣く声が耳をつく。
穏やかとは言いがたい最後。それでも、アスマは笑っていた。
ぱたりと盤面に落ちたしずくを、尚樹は何も言わずに見つめた。うつむいたシカマルの表情は尚樹からはうかがえない。
こういうとき、尚樹はかける言葉を持っていない。ただ、自分は同じ状況で泣けるのだろうかと疑問に思うだけだ。濡れた盤面から視線をそらして庭を眺める。空は、随分と赤く染まって少し冷たい風が頬を撫でた。
思えば、二代目にも、サクモにも、ミナトですら、その最後に尚樹は立ち会えなかった。直接その死を自分の目で確認したのは、大蛇丸だけだ。胸の内にあったのはどこか安堵にも似た穏やかな気持ちで、その首を里に持ち帰れば、綱手も自来也も、大蛇丸も喜ぶだろうと思った。結果は微妙だったが。
やっぱり自分は、泣く事はおろか、悲しむ事も出来ないのだろう。
「俺が死んだら、全部燃やしてね。カカシ先生はああ見えて繊細だからさあ」
結構、引きずるタイプなんだよねぇ。端から見ると合理的で、ドライに見えるのに、彼の本質はとても優しい。正直、忍者に向いていないのではと尚樹は思うのだが、皮肉な事に彼には才能があった。
自分とは逆だな、と自嘲気味に口元が笑む。
そんなカカシだから、何か尚樹を思わせるものが残っていたら、そこそこに引きずると思うのだ。たとえば、慰霊碑に名前があるだけで、彼は自分を責めるだろう。
出来るだけ私物を持たない様にしてしる尚樹だが、もう何年もカカシの部屋で過ごしているのだ。長く同じ所にとどまればとどまるほど、物に記憶が宿る。
かつて、思い出は何も物に宿るわけじゃない、とミナトに言った尚樹だが、自分以外の人間がそう思っているわけではないと言う事は理解しているつもりだ。
綱手が枯れた鉢植えをいつまでも大事にしていた様に、思いもかけないものが、意味を持つ事だってある。
尚樹の飛車の先にはシカマルの桂馬。でも桂馬を獲りにいったら、尚樹の飛車は他のものにいとも簡単に摘まれるだろう。シカマルはちゃんと、自分が死んだ後の事まで考えてる。
「……ばーか、俺より先に死ぬ前提で話すなよ」
「大丈夫、シカマルが死んだら、こっそり内緒で俺が助けてあげるから」
「なんだそれ」
そのまんまの意味だよ、とまぶたを伏せて静かにつぶやいた言葉は空気に融けた。
その言葉の意味をシカマルは知る由もない。