徒野-19-

シカマルの駒を進める手が止まった。
アスマは盤面から視線をシカマルへ移す。シカマルは眉間にしわを寄せて、難しい顔をしていた。
「‥‥なんだ、そんなに棒銀が気に入らないのか?」
今回アスマがとった手は、今まで使わなかったものだ。玉を守るためには犠牲もやむなし、というアスマの考え方が気に入らなかったのだろうか、と首を傾げる。
紫煙が時折視界を横切って空気に融けていく。
「いや、そっちじゃなくて……なんで、俺は桂馬なんすか?」
気にしていたのは、木の葉の忍びを駒に例えるなら、シカマルは桂馬だ、という言葉の方だったらしい。
口から煙を吐き出す。
「力は弱いが、駒を飛び越して進むことが出来る……このユニークな動きは型にはまらないお前の柔軟な思考に似てる」
手元の桂馬の表面を人差し指で撫でて、シカマルが黙り込む。そんなにおかしなことを言っただろうか、とアスマはシカマルの言葉をまった。
「……昔、ここで尚樹と俺が将棋を指した事、覚えてますか?」
「ん? ……ああ、もう随分前だがな、そう言う事もあったか」
「あいつ、将棋下手だからいつも俺が勝つんですよ。あの日も、すげーあっけなく俺があいつの玉をとって……そこでもう終わってんのに、あいつわざわざ桂馬を獲ったんですよね」
今思えば、あの並びは玉を狙っていたんじゃなく、初めから桂馬を獲るつもりだったのだ。それを今頃になってシカマルは理解していた。
「ふうん……坊主は、なんでそんな事したんかね」
「俺も、不思議に思って聞いたんすよ。そしたらあいつ、」
”桂馬は、シカマルだから、シカマルに勝つには桂馬をとれば良い”
またいつもの、尚樹の斜め上の発言だと思っていた。今の今まで。
妙な胸騒ぎがした。駒を撫でる指先には、滑らかな凹凸が伝わる。どうして尚樹はあんなことを言ったのだろう。
もう、三年も前の話だ。
「シカマル?」
思考に沈んでいたシカマルをアスマの声が引き上げる。思わず話してしまったが、もしかしてこれは黙っていた方が良かったのだろうかと、今さらながらに思った。
自分が思うより、尚樹の立場は微妙だという事に気づいたのは、それこそ三年前の同じ日の事だ。アスマの言葉の端にぴりぴりと刺すような鋭さがあった。
「なんだ、気になるだろ。坊主はなんて言ったんだ?」
アスマが言葉の先を促す。シカマルだって分かっている。もうごまかすには話しすぎてしまったのだ。下手に隠し立てすれば余計な不審感を煽る。
それに、シカマルが深読みしているだけかもしれない。というか、相手は尚樹だ。十中八九シカマルの考え過ぎだろう。
偶然の一致。それを自分が深くとらえ過ぎだだけだ、とシカマルは自分に言い聞かせた。どうかしている。
「俺は桂馬だから、倒すには桂馬を獲ればいいって、そう言ったんすよ。何言ってんのかあの時は分かんなかったけど、もしかして同じ事が言いたかったのかなと思って」
そのうち分かるよ、と言った尚樹の言葉はシカマルの胸の内にしまった。それを口にしてしまうと、まるでアスマがシカマルを桂馬に例えた、その台詞を三年前の尚樹が知っているように感じてしまうから。
笑ったつもりだったのに、実際は複雑な表情を浮かべている事には、シカマル自身気づいていなかった。
「……そうか。坊主は、見る目があるな」
煙を吐息の様に吐き出して、小さく笑みを浮かべたアスマに、シカマルは安堵した。何に安堵したのかは、正直自分でも分からない。
勝負は、もちろんシカマルが勝った。

時間は少し前にさかのぼる。先に木の葉に帰っていた尚樹はテンゾウ達が戻るまで綱手の所には顔を出さずにちゃっかりカカシの家で過ごした。
戻ってきたテンゾウの前に、まるで今まで影から彼らを見守っていたかのような態度で姿を表したのは、尚樹だけの秘密である。
もちろん、カカシに裏を取ればすぐにばれてしまうような薄っぺらい秘密だったが。
しきりに怪我をしていないか確認されたので、ちょっとだけ良心が痛んだりもした。具体的に言うと、小指の爪の先ぐらいだ。
「姿が見えないから心配したよ」
「暗部ですもん。姿なんで見せませんよ」
しかも今回はナルト達には内緒でついていったのだから当然である。
「それはそうなんだけど、君まったく気配読めないから、顔を見るまで生きてるのか死んでるのか分からないんだよ」
「まあ、いいじゃないですか。この通り無傷だし、ちゃんと大蛇丸の足止めもそこそこしたし」
「それは助かったけどね。いったいどうやって足止めしたんだい?」
「もちろん、俺の巧みな話術で」
はいはい、と適当な相づちを打って、テンゾウは尚樹の首根っこをつかんだ。火影室はそっちではない。
「その顔は信じてませんね?」
「君の口は巧みな話術とは無縁だからね」
「ひどい! 何気に失礼!」
「せめてもうちょっと抑揚をつけてしゃべってくれるとこっちも反応しやすいかな」
「しかも冷静につっこまれた!」
軽口をたたく尚樹の背中を押して火影室に入る。テンゾウとしては早く報告を終わらせて帰りたい。用意がいい事に、報告書は既に尚樹が作成していた。先ほど戻ったばかりだというのに、いったいいつ書いたのか。あやしい。
大蛇丸、元気だっよ、と綱手に報告した尚樹はこっぴどくしかられた。
内容はこうだ。なぜ、捕まえるなり息の根を止めるなりしなかった、と。
幼馴染みに対して息の根を止めろとは、綱手もなかなか過激である。
もちろん、相手が相手なので致し方ないが。
対して、それに応えた尚樹の言葉は、だって任務内容が大蛇丸の暗殺じゃなかったから、だ。
もちろん綱手の怒りに油を注いだのは言わずもがな。一緒に報告に来ていたテンゾウは空気の様に突っ立っている事しか出来なかった。あれほど気配を消そうと頑張ったのは人生で数えるほどしかない。
怒られている尚樹はけろりとしたものだが、綱手の殺気はものすごいものであった。
がなる綱手を右から左に受け流し、挙げ句の果てに雨が降ってきたので洗濯もの取り込みに帰りますね、と姿を消した尚樹に思わず尊敬の念を抱きそうになったテンゾウである。
いつかした、怖くないのか、という問いを今一度繰り返したいが、本人は既に家に帰ってしまっている。
報告の途中だったので、般若の様相を呈する綱手に戦々恐々と残りを報告し、解放された頃には既に疲労困憊。
しかしここで終わりではないのが中間管理職の辛い所だ。
この後はカカシに呼び出されているのである。ついでに尚樹にも文句を言ってやろう、とカカシの家に向かった。
先ほど尚樹が言った事はあながち嘘でもなかったようで、時折小さなしずくが頬を濡らす。
本格的に降り出されると面倒なので、カカシの家まで急いだ。

呼び鈴を鳴らして出てきたのは、先ほどテンゾウを置き去りにした尚樹だ。
「あれ? どうしたんですか、テンゾウさん」
「どうしたじゃないよねぇ?」
自分でも、いま青筋が立っているだろうとテンゾウは尚樹の無表情を見下ろした。
「尚樹、テンゾウは俺が呼んだの」
「あ、そうなんですか。どうぞ、テンゾウさん」
テンゾウにと尚樹がスリッパを用意し、そのまま台所に引っ込む。怒るタイミングを逸したテンゾウは、カカシに呼ばれるままにリビングに向かった。
「ま、適当に座ってて」
それだけ言い残してカカシも台所に行ってしまう。
リビングにおかれたテーブルには椅子が二つ。片方にはクッションが二つ。
ああ、小さいから、と何となく察してテンゾウはそっちに腰掛けた。もう一つはおそらくカカシのものなのだろう。
部屋を見渡すと、窓のそばの床には畳みかけの洗濯物。本当に洗濯物を取り込みに帰ったのか、と渇いた笑みが漏れた。マイペースにもほどがある。
テーブルに頬杖をつく。部屋の隅にはあまり見た事のない植物。観葉植物の類いだろう。
女性が出入りしているわけでもないだろうに、どこもかしこも片付いていた。
ただ、物が整頓されている、という意味ではなく、手が行き届いていると言った方が正しい。
そうして思わず室内をじろじろと観察していると、おぼん片手にカカシが戻ってきた。
「コーヒーで良かった?」
「はい、ありがとうございます」
あたたかな湯気を立てるカップがテンゾウの前とカカシが座るであろう位置におかれる。
遅れて戻ってきた尚樹がお菓子を載せた皿をテーブルの真ん中においた。今までにも何度かカカシの部屋にお邪魔した事はあるが、思えば尚樹がここで暮らし始めてからは初めてだ。
こんなに手厚くもてなされたのは、ここに足を踏み入れてから初めてである。
妙な所に驚いている間に、尚樹は洗濯物を畳むために床に座り込んでいた。黒い猫が尚樹に身体をすりつける。その度に手を止めて猫の背を撫でていた。
「……先輩、苦労しそうですね」
「何、急に」
「いえ、なんでも……」
「すっごい気になるんだけど」
気にしないで下さい、と言って、コーヒーに口を付ける。本当に大した事ではなく、こんなに家事を完璧こなす人間と一緒に暮らしていたら、婚期が遅れそうだな、と思っただけだ。
「それより、ナルトの修行の件ですよね」
「ああ」
カカシの話を要約すると、これからのナルトの修行は影分身を使って時間を短縮する事、それに伴って九尾のチャクラをコントロールする必要がある事。テンゾウが呼ばれたのは、九尾のチャクラをコントロールするためだ。
カカシの言う様に影分身を使えば修行の時間をかなり短縮出来る。特にナルトは、かなりの数の影分身を出せるので、二倍三倍どころの話ではない。
もちろん、普通の人間には出来ない修行方法だが。思わず尚樹に視線を流してしまったテンゾウを責める事は誰にも出来ない。
話が終わる頃には、視界の隅で洗濯物を畳んでいた尚樹の姿は無くなっていて、台所からいい匂いが漂ってきていた、どうやら夕飯の支度をしているらしい。
「修行の件は、了解しました。早速明日からですか?」
「ああ、出来るだけ早い方がいいからね」
時計を見ると6時を回っている。別にカカシの家にいる時間が長いわけではなく、綱手に掴まっている時間が長かったのだ。
ああ、そう言えばまだ尚樹に文句を言っていない、とようやくその事を思い出した。
「お話、終わりました?」
ひょっこりと顔を出した尚樹に、カカシが返事をする。
ご飯もう食べます? と聞いた尚樹に、カカシがテンゾウを振り返った。
「お前も食べていけば?」
「……いいんですか?」
「構わんよ」
カカシが立ち上がって入り口の所に立っている尚樹に近づき、その頭を撫でる。尚樹は抵抗する様子も見せず、それを受けていた。
「手伝うよ」
「お酒飲みます? 今日奮発してビール買ってきました」
「じゃあそうしようかな。もう用事ないし」
テンゾウも飲む?、という言葉には頷いておいた。なんだかこの二人の会話、笑いがこみ上げてくるのだが、そこはこらえる。
「ボクも手伝いましょうか?」
「あー、いいよ、座ってな」
さすがにカカシに配膳をさせるのは気が引けるのだが、手で制されてしまった。テーブルの上に酒のつまみが並ぶ。
「……なんか、先輩がこういう事してるの、新鮮です」
「ああ、尚樹に持たせるとひっくり返しそうだからな」
「失敬な、まだひっくり返した事はありません」
汁物ののったおぼんを慎重に運んできながら尚樹が抗議の声を上げる。それをカカシが横から流れる様に奪った。
たしかに、つい手を出したくなる危なっかしさだ。
「尚樹、これは俺がやっとくから、椅子もっといで」
「はーい」
ぱたぱたと尚樹のはいているスリッパが軽い音を立てる。向かいに座ったカカシを思わずじっと見つめた。
「……前から思ってましたけど、主婦っぷりが凄いですね」
「ああ、趣味みたいなもんだろう、あれは」
入院してる間にカーテンまで洗われた、と呆れた様に笑って頬杖をついたカカシは、昔より随分柔らかい印象を受けた。