徒野-2-

頭を揺さぶられる感覚に、目の前の闇が晴れた。
足元を冷たい水がさらっていく。
ぐったりとした疲労感にカカシは膝をおった。とても水の上に立っていられる余裕はない。
肩に、鋭い痛み。それを確認しようと何とか頭を動かした。
かつては絶対に近寄らなかった黒猫がカカシの肩の上に乗り、まるで目を覚ませと言わんばかりに爪を立てている。わずかにかすむ視界にその黒を認めて、カカシは止まりそうになる思考に喝をいれた。
どうやらイタチの幻術を解いてくれたのは彼らしい。なぜ、ここにいるのかという疑問が頭をよぎったが、視界に入った足先に驚きよりも先に安堵を覚えた。
夜一がいるという事は、今自分の目の前にある小さな足は尚樹のものだろう。
水の中にあるその足首がなんだか寒々しく見えた。


すっと音もなく水中に足をつけた少年に、いったいどこから現れたのかとイタチは目を細めた。直前まであたりに気配はなく、術に集中していたとは言え、全く気づかないというのは妙な話だった。
幼く見えるが、その顔には烏の面。
思ったよりも暗部が来るのが早い。イタチは袖の中で短く印を組んだ。
月読を中断されたが、もうカカシは動けないだろう。
アスマと紅は目をつむったままだから、おそらくこの状況を把握していない。
つまり、今イタチの前に立ちはだかっているのは、この子供一人という事だ。写輪眼を使うまでもない。
僅かな沈黙。それを破ったのは、術にかけたはずの子供の方だった。
「……こんにちは、イタチさん」
まだ低くなりきらない少年の声。その声に少しだけ聞き覚えがあった。
無意識に眼を細めて、見えるはずもない素顔を暴こうとする。記憶を漁っても、その顔は一向に浮かんでこなかった。
「アスマさん、紅さん、もう目を開けても大丈夫ですよ」
少年の言葉にアスマと紅がおそるおそる目をあける。もう術をかけられる心配はないと言外に告げる少年に、イタチは誰何の声をかけた。
「一度しか会ったことがありませんからね……いつぞやはどうも」
すっと面を外したその顔に、確かに見覚えがあった。黒い髪、光をうつさない乾いた瞳。
記憶の中の彼は、寸分たがわず水の中に立っている。
「……相変わらず、水面歩行の業はできないようだな」
「もうこれで妥協する事にしました」
水面にうまく立つ事が出来ないのだろう。少年は水面から僅かに沈んだ状態でかろうじて立っていた。
あっさりと習得を放棄した少年は、再び烏の面をつける。その姿は数ヶ月前に生きているのに向いていない、と嘆いていた姿とはかけ離れていた。
「生きているのに向いてない、なんて言っていた割には随分と出世したんじゃないか」
イタチの言葉に、少年は首を傾げて僅かに返事を遅らせた。
「出世と言えるかは微妙ですけどね……それより、そろそろ里を出たほうがいいと思いますよ」
もうすぐ木の葉の青い野獣さんが来る予定ですから、といまいち意味のわからないことを口にした少年の意図を探るように、イタチはその面で遮られた表情をうかがおうとした。忍びとしては少ないチャクラは、僅かな揺らぎも見せず、それがかつて見た無表情を思い出させた。
「……捕まえに来たんじゃないのか」
「まさか、うっかり通りかかっただけです。それに、殺すだけならまだしも、あなたを生け捕りにするのは骨が折れそうだ」
だから、さっさと逃げてくれると俺も楽チンなのでありがたいです、と本気とも冗談ともつかないことを言った少年は、言葉通り殺気一つない。
「それは、殺すのは簡単だと言っているように聞こえますね」
口の端をあげて鬼鮫が口を挟んだ。少年の顔が僅かに鬼鮫の方に向けられる。
一瞬妙に波打った水面を視界の隅にとどめながら、イタチは少年の返事を待った。
「……きさめさんきさめさん、そういえば苗字は何でしたっけ? 干柿とか渋柿とかなんかそんな感じだったと思うんですけど」
まるで世間話でもするかのような軽さで投げかけられた言葉は、その内容すら信じられないほど軽いものだった。
少年の問いに顔をしかめつつも律儀に鬼鮫が口を開くのを、イタチはじっと見守った。
「……干柿ですよ」
「きさめさんきさめさん、きさめの字は鬼にサメでしたよね」
「そうですよ」
「鬼サメさん鬼サメさん、サメの字は魚の隣に交差の交でしたっけ?」
「……一体なんなんですか」
何か意味のある会話なのかといぶかしんだ鬼鮫は、質問に質問で返した。根拠などないが、この会話に妙な警戒心が頭をもたげた。
ただの時間稼ぎだろうか。しかしそれならもっと違う内容で責めてきそうな物だが。
「……個人的には、イタチさんのほうが楽なんですけどね」
「……何がです」
烏の面が僅かに動いた。きっと、笑ったのだろう。
少年の右手が動いてホルスターから千本が抜かれた。飛んできたそれを鮫肌で薙ぎ払う。
僅かに違和感を覚え、水の光を反射して散った千本の軌道を目で追った。そしてすぐに違和感の正体に気づく。
水面に散った、通常のものより細く短い千本。
ふっと全身をすり抜けたのは、まぎれもない殺気。水が、少年を中心に円を描いた様に見えた。
「すこしだけ、相手をしてあげましょう」
「……ずいぶん上からですね。それはこちらの台詞ですよ」
イタチさん、手出ししないで下さいね、と釘を刺して鬼鮫は水面を蹴った。
いまだ水中に足をつけたままの少年は、イタチとの会話によると水面歩行すらまともに出来ないらしい。それなら、おそらく忍術全般が使い物にならないはずだ。
数分で片付けて差し上げますよ、と口の端をあげた。
鮫肌を少年に向かって振り下ろす。腰を下げて背中から短刀を引き抜いた、その短刀の形状に目を見張る。
片側が櫛状になっている刀身は、その分通常のものよりも細い。
その華奢な刀身で鮫肌を受け止められると思われたとは、ずいぶんと甘く見られた物である。
ぐ、と柄を握る手に力を込め、体重をのせる。
刀身同士がぶつかった瞬間に、僅かに火花が散った。
黒い刀身。間近で確認出来た相手の獲物に、もしかしてこれはチャクラ刀か、と鬼鮫は冷静に判断した。
左手だけで今の一撃をとめるとは、なかなか大した物だ。
思ったより楽しめそうな相手に自然と口の端がつり上がる。それが合図だったように、少年が鮫肌をはじいて、カカシをかかえて後方に跳躍した。
後ろの二人にカカシを預けて、少年が右手で刀を構える。
刀身の長いそれは先ほどの短刀とはまた別の物だ。
一体どこから出した、と鬼鮫は片刃のそれを注意深く観察した。
一瞬風が吹いて、それにあわせるように刀身がばらけていく。視界を埋める花びらに、幻術かとも思ったが容赦なく肌を裂いていくそれを放っておけるはずもなく。
とっさに後ろに飛んだが、花びらも鬼鮫の動きにあわせて追ってくる。
鮫肌で視界を覆う花びらを振り払った時だった。
一瞬視界が鮫肌で遮られたあと、鈍い切っ先の輝きが眼前に迫っていた。眼に見えているのに感じられないほどの存在感に、反応が遅れる。
信じられないほどの鋭さで肩を貫通する感触に、不思議と痛みはない。まるで音も抵抗もなく吸い込まれるかのように深々と刺さるそれを鬼鮫ははっきりと視認した。
ぱっと赤が散ってすぐに広がり水面を染めていく。
飛びつかれた勢いで後ろに倒れ、少年もろとも水につかった。
痛みよりも先に肉を焼かれる感触に、喉が引きつり、うめくような声が漏れる。刀身から体に流れ込む電流に体が勝手に痙攣した。
ぱき、と肉を伝って耳に届いた音に、とっさにチャクラ刀に視線を移すと、黒い刀身に亀裂が入ったと同時に砕ける様がはっきりと見て取れた。
その不自然な砕け方に、刀身がチャクラの容量に耐えられなかったのだと瞬間的に理解した。聞いた事もない現象だったが、当然の様にそれは鬼鮫のなかに事実として認識された。
刀身が折れた事によって、電撃が止み、体の自由が戻る。鮫肌を薙いで相手をはねのけその場を退いた。
子供だと思って甘く見ていたが、さすがに暗部だけあって普通ではない。チャクラ刀が折れるなんてどんなチャクラ量だ、と悪態をついた。
鮫肌に触れないよう一瞬早く鬼鮫の上から退いた少年は、最初の様に水の中に立っていた。不安定な水中に足をついた子供は、自分たちより低い位置に立っているせいか、より小さく見える。
先ほどからは考えられないほど存在感なく立っている様は、水面歩行すら満足に出来ない下忍にふさわしい。
焼かれた傷口がなければ、認識が薄れそうだった。
少年が折れた刀身を確認する様に手を動かして、わずかに残ったそれを鞘に戻す。
視線を鬼鮫たちからはずして空を見た尚樹に、鬼鮫もつられて顔を動かした。空には僅かばかりの雲。鳥の姿も人の影もない。
くるりと身を翻して無防備にも背中を見せた子供は、いまだカカシの肩に乗ったままだった黒猫を腕に抱いた。
実質それが終わりの合図となった。
間を遮る様に風を切って現れた、青い珍獣に、邪魔が入ったと鬼鮫は舌打ちしたのだった。