空蝉-16-

「人を殺した事はあるか」
突然かけられた言葉に、尚樹は手をとめた。
資料を棚に直す、という雑用を朝から黙々とこなしていた尚樹には、急には理解出来ない言葉だった。
というもの、筆で書かれた達筆な文字に、現代っ子でハンター文字を間にはさんで今に至る彼は苦戦していたせいである。
漢字、難しい。文字、読めない。
「二代目?」
もう一度、質問プリーズ。
「猿の奴がな、お前は根のものではないかと言っていたんだが、本当か?」
「ね……ああ、根ですか。いえ、俺はただの下忍ですよ」
「暗部だと聞いたが?」
「ああ、まあ、かつてはそうでしたね」
「お前を暗部に推薦したのは?」
「三代目です」
何の話だろう、と思いつつ、別に隠すような事もないので二代目の質問に答えていく。
任務の内容は、と聞かれて少し考えた。
はじめは巻物の奪還とか、要人の警護などもしたりしたが途中からは暗殺しかしていないような気がする。
あんまり細かくは覚えていない。
そう答えたら、二代目は少しだけ顔をすがめた。
「初めて殺した人間の顔は覚えているか」
「……いいえ」
たとえば、初めて友人と交わした言葉、初めて作った食事。そう言うものを覚えていないのと同じだと、尚樹は思う。
もはや日常の一場面と化したそれに払う注意もなく、感情もない。
「二代目?」
質問は終わりだろうかと、尚樹は首を傾げた。
いったい何のやり取りだったのかは分からない。まあでも、いろいろと探りを入れられるのは当然と思っていたので、質問の意図を尚樹は考えない事にしていた。
そんな腹の探り合いは、時間と精神を消費するだけで、特に得るものもない。
何かあったら、ここを離れれば良いだけの話だ。
「暗部に戻りたいか」
「それは別に、どうでも。ああ、まあ、給料面では助かりますけどね」
下忍の給料は、内容が内容なだけに、非常にささやかだ。
別段無駄遣いをする方ではないが、生活費は多い方が良いに決まっている。
「暗部だと、任務は一人で良いし、まあその辺は気楽ですよね」
下手に班員がいる場合、それはもう気まずい事になる。
テンゾウと組んでいた時はそんなに気を使わなかったが、フォーマンセルなど人数が増えると、どうしても足を引っ張ってしまうので、それが心苦しい。
なにより、深夜に任務をこなさなくてはいけなくなる。
尚樹は任務内容によらず、一人でやる時は早朝から昼という、暗部にあるまじき時間帯に動き回っていたのだ。
そう考えると、やっぱり下忍の任務の方がいいかなぁ、楽しいし、と尚樹はようやく解読出来た資料を棚へ戻した。


尚樹が暗部かもしれないという事は、実は前から気づいていた。
例えば気配の消し方や歩き方。
額宛の事もあって、一時預かりという事になった尚樹を、扉間は出来るだけ側に置いた。
ほとんど表情のない尚樹が何を考えているのかは、扉間にも分からなかったが、あまり裏はないように思えた。
仕事を与えればもくもくと働き、居候をしている家でも、これといって不自然な点もない。
店の主が、もともと忍びである事は、あの様子だと気づいていないのかもしれない。
ヒルゼンには悪いが、実はずいぶん前に扉間は尚樹の居場所を知っていた。
そして、しばらく様子を店主に探らせていたわけだが、顔こそ無表情だが、普通の子供だといわれたのだ。
「あなたも、一緒に過ごせば分かるでしょう」と自分よりも年配の彼は穏やかに笑った。
「任務にでもでるか」
どうも、部屋にいるばかりでは分からない。唐突に立ち上がった扉間に、尚樹がつられて顔を上げた。
腕に抱えていた資料を奪って机にばさりと放置する。
火影になってから、任務に出る事はほとんどなくなった。仕事の種類が変わったと言えばそれまでだが、腕が鈍りそうで怖い。
というのは建前で、そろそろ座っているのに飽きただけだ。
ろくに説明もせず手を引いて歩き出した扉間に、尚樹はされるがまま大人しくついてきた。
途中変化をして姿を変えた扉間は、尚樹の手を引いたまま受付へ向かう。
そして、何食わぬ顔でDランク任務をもぎ取り、今現在畑仕事にいそしんでいる所だ。
腰を痛めた老人の代わりに、畑の面倒を見ると言う何の変哲もない任務だが、尚樹は特に文句もいわずせっせと苗を植えたり雑草を抜いたりしている。
表情こそ変わらないが、少しだけいきいきとして見えた。
ときどき老人と話し込んでは、目をキラキラさせている。
「なにか面白い話でも聞いたのか?」
「肥料とか、植物の育て方とか、いろいろです。あとで野菜をわけてくれるそうですよ」
「……そうか」
尚樹に負けぬ無表情で、それは、そんなに楽しい事なのか? と首を傾げた。
尚樹と一緒に畑の世話をしながら、猿にばかり任せてないで、たまには自分で任務に連れて行くか、と他の人間が聞いたら悲鳴を上げそうな事を扉間が考えていた事を、残念ながら知るものはいない。
「畑仕事が好きなのか?」
「畑仕事も好きですよ?」
「も?」と扉間は尚樹の言葉を反芻した。それに答えるように、尚樹が将来は花屋を開きたいんですよねー、と無邪気に言った。
「……花屋?」
「はい、花屋です。こういうのやってると、農家も良いなーとは思うんですけどね」
将来とは、一体何の話だろう、と扉間は瞠目した。
忍びになる子供は、忍びになりたくてアカデミーに入ったものや、親のあとをつぐために幼い頃から教育を受けたものだ。
つまり、将来は忍びになるために生きている。
なのに、目の前に立つ子供は、忍でありながら、忍びとはほど遠い花屋になりたいというのだ。
自分は根本的な勘違いをしていたのではないかと、ここにきて思いいたった。
「……もしかして、お前忍びになりたくなかったのか」
「別にそんな事はないですけど……特別なりたいと思った事もないですね。ああ、でも……お店を開くためにはお金が必要なので、結果的には良かったと思いますけど」
なるほどこれは、裏も表もなさそうだ、と好々爺とした店主の顔を思い出した扉間である。
「帰りに花屋でもよるか」
「んー、でも今お金ないし、居候の身なんで」
見たら買いたくなるから、やめときます、と作業道具をまとめて尚樹がからう。ひょい、と軽々もってみせたが、それなりに重さはあるはずだ。
こいつ、見かけによらず力持ちだな、とそれを上から眺めた。
やはり、幼くても暗部という事か。さりげなく観察しながら、茜色に染まる空を見上げた。
Dランク任務なぞ、一体何年ぶりだろうか。
Aランクのような張りつめるような緊張感はないが、ほどよい疲労感からため息をつく。かつては、もっとランクが上の任務をやりたいと思ったものだが、これはこれでなかなか楽しいものだな、と昔を思い出した。
かつて教官としてDランク任務をこなしたときは、こんな事を考えなかったのに、不思議なものだ。
「……年か?」
行き着いた考えに苦笑を漏らし、柔らかい土を踏んだ。