空蝉-15-

そこの干物ふたつ、と視界に入った小さな手に、ヒルゼンは半ば無意識に視線を向けた。
「じいちゃん元気か」
「最近ボケがひどくなってきてる気がします」
店員とのそのやり取りで、彼が少年と顔見知りである事は容易に知れる。
それ自体は別になんでもない。その少年の顔が一ヶ月前に逃亡した子供のものでなければ。
お金を払ってきびすを返そうとした子供の襟首をとっさにつかんだ。
まさか、里を抜けると言っておきながら堂々と木の葉で暮らしているとは、まさに灯台もと暗しである。


ぶちぶちと鼻歌まじりに雑草を抜く少年は、班員の誰よりもまじめに任務をこなしていた。
ときどき抜いた草をじっと見つめる癖があるようだが、無表情なので何を考えているのかは分からない。
「自来也、綱手、喧嘩をするな。仕事をしろ。大蛇丸、さり気なくサボるな」
せっせと仕事を進めていく尚樹のそばで、元気の有り余った弟子が3人。
この場合、マイペースなのはどちらなのか、ヒルゼンには判断がつかなかった。
一人さっさと雑草を抜き終わって苗の植え替えまで終わった尚樹は、綱手にちょっかいをかけてばかりで進んでいない自来也の場所に手を伸ばす。
「尚樹、そこはやらんで良い」
ヒルゼンの制止に顔を上げた尚樹は、無表情のままに首をかしげた。
「でも、仕事終わらなくなっちゃいますよ?」
「自業自得だ。いいから、こっちで休め」
「え〜、贔屓だ!」
違うだろう! と羨望の声を上げた自来也に、綱手からこぶし付きの突っ込みが入る。
それを見てしばらく逡巡した後、ご丁寧に水までまいて、尚樹はヒルゼンの隣に腰を下ろした。
蝉の鳴き声が耳をつく。日向とは違う、いくらか涼しい風に尚樹は目を伏せた。

町中でヒルゼンに見つかった尚樹は、結局今もあの家に居候しながら、こうして下忍として木の葉にとどまっていた。
以前と違う事と言えば、暗部としての任務がなくなった事か。
またアカデミーに通えとか言われなくて良かった、と胸を撫で下ろしたのも記憶に新しい。
理由はよく分からないが、木の葉の下忍として受け入れられたらしい。
尚樹としては、別に忍びでなくともいっこうに構わなかったのだが。
戻ってきた額宛は相変わらず首に巻いている。
その額宛に刻まれた言葉こそが、彼の身分を証明したのだと、知らないのはそれを身につけている本人だけだ。
わざとそれをヒルゼンに託したとも考えられたが、それならば回りくどい事をせず、直接渡せば良い話だ。
それでももちろん、疑念がないわけではない。わけではないが、ここ数ヶ月のうちにヒルゼンは否応無しにあの迷子札の意味を理解してしまったのだ。
そう、この水沢尚樹という人間は、忍びとして致命的な欠点をもっていた。
その欠点の名を、方向音痴、という。
もともと、事の発端は自来也なのだから、ということでDランクの任務にはときどき尚樹も同行させていた。
たいていどの任務もそつなくこなすくせに、お使いだけは出来ない。
なぜ、と思うような簡単な道のりで迷う、そもそも方向があっていない、何をすればそんなに迷うのか、と尚樹の面倒を見た人間なら誰しも一度は思う事を、例に漏れずヒルゼンも体験したのだ。
「そういえば、三代目」
「三代目じゃないと言っているだろう……」
「俺、口寄せ出来るようになりたいんですけど」
こいつも何気に人の話聞いてないよな、とため息をついてヒルゼンはその顔を見下ろした。
「お前、チャクラコントロールはできるのか」
「得意な方です」
「何を口寄せする気だ」
「猫です」
「猫?」
猫とはまた珍しい、と尚樹から顔をそらす。自来也達も、ようやくやる気になったのか、相変わらず口を動かしつつも雑草を抜き出した。
「契約は?」
「交わしてます」
なるほど、じゃああとはうまく口寄せ出来るかどうかか、とその時のヒルゼンは甘く考えていた。
今の所、尚樹の忍術がどれほどのものなのか、目にする機会がないと言うのもその原因だ。なにせ、方向音痴である事をのぞけば、尚樹は実に真面目で手のかからない出来た生徒なのだから。
Dランクの任務でそうそう忍術を使う機会もない。
何より、任務に同行させているといっても、いつも尚樹の面倒をヒルゼンが見ているわけではなかった。
基本的には手のあいているものが相手をしているようだが、実は一番二代目が面倒を見ている。
様子見を兼ねているのだろうが、なにも二代目がみずから……と思うものももちろん少なくない。
しかし、どうも二代目は尚樹に興味津々のようだ。
ああ、蝉の声がうるさい、と八つ当たり気味にため息をついた。
最近は自来也達もDランク任務は飽きたと言わんばかりの仕事ぶりだし、本当かどうかは分からないが自称未来人の面倒もあるし、いっきに子持ちになった気分だ。
視界の隅で揺れた緑に、うろんな目を向ける。
いつものようにじっと抜いた草を見つめていたと思ったら、ぱくりと口にくわえた。
驚いてとっさに手が伸びた。
「食うな!」
取り上げた草には、しっかりと歯形がついている。
ちょうど、木の影になっているあたりから引っこ抜いてきたらしいそれは、微量の毒が含まれる。
幸いにも、それは根のほうで、歯形のついている茎ではない。
「雑草を食うか、普通」
「いや、もしかして毒草かな、と」
「もしかしなくても毒草だ。分かってるのに食べるな」
頼むから、あまり手を煩わせてくれるな、とヒルゼンはそれを遠くへ放った。
その軌道を残念そうに尚樹の目が追う。
どんな趣味だ、とため息をついた。
「……日頃から、毒に慣れておいて損はないと思いますけど」
くるりと手の中で千本をまわした尚樹の顔は、いつも通りの無表情で、瞳は遠くを見つめていた。
僅かな動作で放たれた千本が木の葉をとらえる。そのまままっすぐ飛んだ千本は、音を立てて木の幹に刺さった。
毒に体を慣らす、と言うのは下忍の考えではない。
もちろん、中忍や上忍の考えでもない。その思考をもつのは、間違いなく暗部の経験があるものだ。
多くの忍びが上忍になる頃には暗部としての経験を持つため、多少は毒に対して耐性がある。
「……おまえ、もしかして暗部か」
「ああ……言ってませんでしたっけ? 俺は最初から暗部ですよ」
「最初から……?」
尚樹の言葉にヒルゼンは顔をしかめた。
最初から、というのは滅多にない。あるとすれば、下忍でもなく中忍でもなく、はじめから暗部として忍びになったもの、つまり根の者。
すっと目を細めたヒルゼンに気づく事もなく、尚樹は時折吹く風に髪を揺らす。
二本目の千本が、くるりと手の中でまわって、瞳はまた遠くに向けられる。
子供達の声が少し遠くに聞こえて、蝉の声がやけに耳についた。
「三代目?」
どうかしましたか、と首を傾げる尚樹に、何でもないと返しながら、一応報告しておくか、と終わりそうにない自分の生徒達に激をとばした。