空蝉-5-

カーテンを引くと、まだあたりはうす暗かった。
ちょっと早く起きすぎたか、と思いつつも寝なおすほどの時間でもない。
窓を開けてベランダに出ると、湿った風が頬をなでた。
視界の隅に緑がうつる。視線を流すと、隣のベランダの植物だった。
見るたびに増えているような気がする。
紫の小さな花をつけているその植物の名を、ミナトは知らなかった。

気配を探っても人の気配はない。また任務に出ているのだろうか。
最近自分のミスによりできた隣人は、もっぱら暗部として動いているようで、初めのころこそ顔を合わせたものの、最近はさっぱりだ。
空を見上げると、遠くのほうが白んできている。
もうすぐ、日の出だ。

今日の任務はなんだろう、と正直忍者じゃなくてもいいんじゃないだろうか、という内容を思いかえす。
下忍なりたてなんてこんなものなのだろうが、たまに自分の職業を忘れそうにもなる。

「……ごはん食べよ」
くるりと踵を返して部屋に戻ろうとしたとき、バチッと電気の走るような音がした。
反射的に音のした方に顔を向けると、今まさに考えていた隣人の姿。
いったいどこから現れたのか、音もなくベランダに着地した尚樹を凝視した。
「おはよう」
「……あ、おはよう」
突然のことに言葉を失っていたミナトは、尚樹の言葉に我にかえって挨拶を返した。
全然気配を感じなかった。

そんなミナトの困惑など全く気付いていないらしい尚樹は、眠そうにあくびを漏らした。
「ミナトは朝早いね」
「あ、今日はたまたま。目が覚めちゃって」
「そうなんだ。朝ごはん食べた?」
「ううん、今から」
ふーん、と対して興味もなさそうに相槌を打った尚樹が、すっと手を動かした。かちり、と小さな音が耳に届く。
「作ってあげるから、うちにおいでよ」
カップラーメンばっかり食べてると体に悪いよ、と言いながら窓を開けた尚樹に、ミナトは先ほどの音の正体を知った。
鍵の開く音だ。
そんな術あったっけ? と首をかしげつつ、さっさと中に入ってしまった尚樹を追いかけて、あわててベランダに飛び移った。


食卓に並んだ純和風な食事に、ミナトは目を輝かせた。
子供の一人暮らしだと、どうしても食事が偏ってしまう。
とくに、ミナトは料理が得意というわけでもなかったので、尚樹の言うとおりインスタントに頼ってしまいがちだった。
まだ下忍だから、毎度毎度外食するほどのお金もない。
大したものないけど、と味噌汁や煮物を並べた尚樹に、とんでもない、とミナトは首を振った。
「えっと、尚樹は食べないの?」
机の上にならぶ食事はひとり分だけで、尚樹の前にはお茶しか置かれていない。
その状況に首をかしげると、もうしばらくしたら寝ちゃうから自分はいらない、と尚樹が答えた。
わざわざ自分のために作ってくれたらしいその事実に、改めて自分の食生活を省みる。
自分ではさほど気にしていなかったが、尚樹からすればわざわざ任務上がりに朝食を作ってくれるほど、ひどいものにうつっていたらしい。
「そんなにやばいかな、俺の食生活」
「ほどほどに? あんまりカップラーメンばっかり食べてると脚気になるよ?」
「え!? そうなの?」
「そうなの」
まあ、いまどきそこまで栄養失調になる人もいないと思うけど、とフォローなのかよく分からない言葉を入れられた。
少しいびつな形の野菜もあるけれど、十分においしい煮物を口にしながら、同じ年なのにえらいなあ、とお茶を冷ます尚樹を見やった。

「なんか、顔合わせるの久しぶりだね」
「ん? ああ、そう言えばそうかな。任務の時間帯が違うからね」
俺も下忍の任務のほうが楽しくていいな、とこぼした尚樹に、ミナトは少し驚いた。
正直、下忍のうちはろくな任務が回ってこないといっても過言ではない。
忍者イコール便利屋さんだ。
「……楽しい、かな?」
「うん、楽しいよ。草抜きも楽しいし、犬の散歩とか……ペット探しも好きだなあ」
お花屋さんの手伝いがベストかな、と言った尚樹に、ベランダの花を思い出す。
薬草関係かと思っていたのだが、もしかして趣味なのだろうか。
殺風景な部屋にも、ところどころに緑が見て取れる。観葉植物らしいそれは、どれも元気そうに葉を広げていた。
「植物が好きなの?」
「うん」
将来の夢はお花屋さん、と言った尚樹に冗談か本気か判断がつかず、そうなんだ、とミナトはあいまいな笑みを返した。


素顔はあまりさらさない方が良い、と自来也と三代目に言われていた尚樹は、暗部の面をつけて屋根の上を移動した。
たしかに、未来人の自分がこの時代の人間と接触を持つのはあまり良くないだろう。
すでに接触らしい接触を持ったのは自来也と三代目、ミナトくらいだ。
「ああ、だから自来也様……」
相変わらず、と言ったのだ。
あの時は普通に流してしまったけど、初対面にしてはおかしな発言だ。
自来也にとっては今の自分との接触の方が先なのだ。
あの時の自来也はこの時代に自分と出会っていて、既に知り合いだった。
そして三代目も。
だから自分をあのとき里においてくれたのだ。
自分の初対面と、自来也達の初対面が逆になっているわけだ。
「……ややこしいな」
自来也の過去が尚樹にとっての未来。
お互いに反対のベクトルで生きているなんて、なんだか勝手が悪い。
ついでに、ほとんど知り合いのいないこの時代で生きるのも面倒。
もともと、あまり社交的な方ではないのだ。

目的の橋が見えてきたところで尚樹は屋根から飛び降りた。
出来るだけ音を立てないよう着地する。
絶をしているせいか、割と堂々と道の真ん中に飛び降りたわりには、尚樹に注意を払う人間は少なかった。
このくらいの存在感で自分には十分だ。

カカシ先生もよくナルト達との待ち合わせに使っていた橋の上には、尚樹の指導教官になる予定の人間が待っている。
今まで暗部の仕事ばかりしていたので、実は指導教官が決まっていなかったのだ。
木の葉も人手不足なのだろう。
狭い視界から見える銀髪に、尚樹は思わず足を止めた。
後ろ姿だから、一瞬カカシ先生かと思った。
少し考えて絶を解く。足音を殺さずに上忍と思わしき人物に近づく。
それに気づいた相手が期待通り振り返って、その顔がはっきりと見える。
すぐそばまで近寄ると、彼は微笑を浮かべて低い位置にある尚樹の頭に手を置いた。

「今は、暗部じゃなくて下忍の君の前に俺は立っているつもりだよ」
面をはずせ、と言っているのか。
その言葉の意図に気づきつつも尚樹は首を傾げた。
出来ればあまり顔は見られたくない……いずれ彼が死ぬ人間だとしても。
「……俺も、下忍としてあなたの前に立っているつもりです」
「それなら、今その面は必要ないんじゃないかな」
「あまり、他人に顔を見られたくないんです」
変化するしかないか、と表情のうかがえない相手を見てから尚樹は面に手をかけた。
誰に変化するか、と考えて一瞬シノやシカマルの顔がよぎったけれど、後々まずいかと考え直して夜一の姿を借りることにした。
もちろん、男の方で。
「これで、いいですか」
「あのさぁー、変化するならせめて肌の色くらい一緒にしようよ。印をくまないでどうやったのかは知らないけど、それじゃバレバレでしょ」
「ああ……そういえばそうですね」
まあ、いいじゃないですか、ときつい印象を受ける顔で投げやりに言った子供に、サクモはため息をついた。
せっかくの技術も、これでは台無しだ。
素直で優秀だが、扱いは簡単かつ難しいと言った自来也の言葉が少しだけ理解出来た。
簡単かつ難しい、矛盾する言葉だが、おそらく素直だけどズレているということなのだろう。

「上官の俺にも顔を見せてくれないのかな」
「男の顔なんて見ても楽しくないでしょう」
「いや、楽しい楽しくないの話ではなくてね……」
どう言えばいいかな、とサクモは自分の髪をかきあげた。もう根本的に話がかみ合っていない気がする。
「……名前を聞いても?」
「ああ、悪い。そういえばまだ名乗ってなかったな。はたけサクモだ。今日からお前とツーマンセルを組む」
「……水沢尚樹、です」
よろしくお願いします、と頭を下げた姿は礼儀正しく、実に素直そうだった。