空蝉-3-

波風ミナト。
記憶を探っても、尚樹にはその名前に覚えがなかった。
そんな登場人物、いたっけ、とたどれる限り原作のストーリーをなぞる。
やはり、尚樹の知る範囲では、その名前はなかった。
そんなに端から端まで嘗めるように読んでいたわけではないので、仕方のないことなのかもしれない。
すべてを思い出すには、時間がたちすぎていた。
「でも、聞き覚えはあるんだよね……」
比較的、最近の記憶な気がする。
尚樹には、その音に確かに聞き覚えがあった。
そう、確かにここ数年の間に聞いたはずなのだ。
でもそれは、よくよく考えればおかしな話だった。
朝を告げる鳥の声が、網戸越しに耳に届く。
徐々に雲が晴れて、青い空が姿をあらわし始めていた。
三代目にもらった観葉植物の葉を拭いてやりながら、次は何を育てようかと、これから入るだろう給料の使い道を考えた。
となりの部屋で、人の動く気配。
どうやら、起きたようだ。


朝っぱらからカップラーメンを手にしているミナトに、お前はナルトか、と尚樹が言いたくなったのも無理はない。
とりあえず、不健康極まりない。
「……おはよう」
「あ、えーと、おはよう。とりあえず、上がってく?」
「いや、食事中ならまた出直すよ」
あっさりときびすを返す尚樹を、ミナトはあわてて引き止めた。
つかんだ手首が、思いのほか小さくて訳もなくぎくりとする。
べつに特別細いわけでもないし、よくよく考えれば、自分とそう変わらないのに、頼りなく感じた。
ある日突然いなくなってしまうような、そういう空気が尚樹にはあった。

先日口寄せの練習中に、何をどう誤ったのか、未来から口寄せしてしまったらしい少年は、自分より幾分年下に見える。
小さな体は、下忍になってまだ1年たたない自分より小さいのに、その首元には確かに木の葉の額あてが巻かれていた。
初めて目の前に現れた時は、さらに暗部を示す動物の面をかぶっていたことから、おそらくかなり優秀なのだろうことは想像に難くない。
そう頭では分かっていても、何となく不安になる。
平然とした態度が、ミナトにはとてももろいものに見えた。
「……その、少し話がしたいんだけど」
不慮の事故とは言え、尚樹を口寄せしてしまったのはミナトのミスだ。
なぜ、このような事態になったのか原因がわらない以上、尚樹を元の時代に戻すのは不可能に近い、と敏いミナトは薄々理解していた。
三代目に判断を仰いだ時も、誰も尚樹をもとの時代に返す方法については一言も触れなかった。
プロフェッサーと呼ばれた三代目も、自分の師である自来也も、一言もだ。

状況はかなり絶望的。

本来ならそのことを真っ先に口にするであろう尚樹は、一言も口を挟まず火影の判断に大人しく従った。
それはとても彼ぐらいの子供にできるような行動ではなかったし、きっと大人だって無理だろう。
動揺のかけらも見られない尚樹に、ミナトのほうが痛みを覚えてしまったくらいだ。
もう、家族や親しい人間に二度と会えない悲しみはいかほどのものか。
とりあえず尚樹を部屋にあげて、ミナトは若干伸びてしまったラーメンを大急ぎで平らげた。
お茶を用意して、尚樹と向かい合うようにテーブルにつく。
入れたばかりのお茶が、ゆるゆると湯気をたてた。

とっさに引き留めてしまったが、いったい何を話せばいいのかミナトには分からなかった。
元凶である自分が何を言っても、尚樹を傷つけてしまうような気がした。
しばしの沈黙が二人の間に流れ、先に口を開いたのは尚樹のほう。
「……一人暮らしなの?」
「うん……身寄りがなくて」
そうなんだ、と天気の話でもするかのように相槌を打った尚樹が、湯気を立てる湯呑に視線を落とす。
そのふちを指先でスッとなでて、すぐに手を下した。
部屋に差し込む光が、いつの間にか位置を変えて遠ざかっていた。
「気になってたんだけど……ミナト君て年いくつ?」
「あ、ミナトでいいよ。年は今年で12」
「じゃあ、俺のことも尚樹でいいよ。12か……アカデミー卒業したばっかり?」
「うん……尚樹は、いくつ?」
「同じくらいじゃない?」
自分のことなのに、あいまいに答えた尚樹の声に、外見はともかく精神年齢は尚樹のほうが上そうだ、と思った。
「年、分からないの?」
「まあ、そんなところ。でも、俺もアカデミー卒業したばっかりだから、まあだいたい一緒ぐらいでいいんじゃないかな」
聞き捨てならないセリフがあった、とお茶をさましている尚樹をミナトは凝視した。
アカデミーを卒業したばかり、ということは飛び級ではないということだ。
てっきり、その慣れた様子と、暗部に籍を置いていることから、最低でも下忍になって3年はたっているだろうと勝手に思っていた。
卒業してすぐ暗部にとりたてられたということは、アカデミーでの成績がそんなに良かったのだろうか。
実は結構すごい人を呼び寄せてしまったのでは、とこの段階になって気づき、ミナトの背中を冷たい汗が流れた。

「そういえば、俺に何か用だった?」
なんとか動揺から復帰したミナトは、ここに至ってようやく尚樹が自分の部屋を尋ねてきたわけを問うた。
わざわざ早朝に尋ねてきたのだ。何か用があったに違いない。
同じ里とは言え、分からないことも多いだろうと、尚樹に与えられた住居はミナトの隣の部屋だ。
都合がいいのは分かるが、自分より自来也の近くのほうが良かったのでは? とミナトが首をかしげたのは言うまでもない。
もしかして本当に、尚樹の世話を自分に任せる気なのか。
もちろん、ミナトに否やはないが、尚樹の方はどうなのだろうと、その表情を盗み見た。
尚樹はと言えば、いまだお茶と格闘している。
「……もしかして、猫舌?」
「うん。あ、でもお茶は熱さが命だから、気にしなくていいよ」
至極真面目な顔でそう言い切った尚樹に、訳が分からずミナトは「そう」と気の抜けた声を返した。
ミナトも、尚樹に習ってまだ熱いお茶に口を付ける。
喉から胃にかけて、あたたかなものが伝うのを感じた。
ミナトはなんだか、尚樹のペースに巻き込まれているのをひしひしと感じた。
そういえば、まだ質問の答をもらっていない。
もう一度、同じ質問をするか迷っていたミナトの顔を見て、尚樹はようやくお茶をさますのをやめて、顔を上げた。
何の話だったか、と少し記憶をさかのぼって、ここに来た理由を話していないことに思い当たる。
尚樹さえも、本来の目的を軽く忘れていた。

「ああ、そうそう……用というか、ミナトと一緒に行動したほうがいいのかなー、と思って」
「あ、それは、俺もちょっと先生に聞いてみないと分からないんだけど……火影様に聞いた方が良いのかな……」
後半はほとんどミナトの独り言だ。
ミナト自身、尚樹の身の振り方について、明確に知っているわけではない。
昨日の今日だ。まだ何も決まっていない可能性もある。
「まあ、どうせ下忍として動くなら、どっかの班に入れられると思うし、悪いけどそれまでミナトにくっついてていいかな?」
じゃないと、道に迷うから、と尚樹は口には出さずにつぶやいた。
そんなことはつゆ知らず、ミナトはしっかりと頷く。
湯のみから指先に伝わる熱に、痛みすら覚えながらも、力を込める。
机の上にこうべを垂れて、そこに落ちる自分の影を見つめながら、ミナトは口を開いた。
「少し、遅くなっちゃったけど、今回のこと、本当にごめんなさい」
ミナトには、とても責任なんてとれない。
謝罪すら自己満足に思えて、それでも、口にせずにはいられなかった。
湯呑をテーブルに戻す音が沈黙を破って、ミナトの後頭部に小さな手のひらの感触。
優しく自分の頭をなでた手はすぐに離れて行って、驚いて顔をあげてみれば尚樹の顔にはかすかに笑みが浮かんでいた。