陽炎-19-

ベッドに押し付けられるような感覚に、尚樹は目を覚ました。どくどくと、脈打つ音が耳に響く。
首筋にうっすらと汗をかいていた。
体が動かない。金縛りだ、とせわしない心臓とは裏腹に冷静な頭で理解した。
目だけを動かして病室を見渡すと、月明かりに照らされて人の影が目に入る。暗闇の中でも光をはらむその銀髪に、少しだけほっとした。
窓の外へ向けられていた視線が、尚樹の方へと向けられて驚いているのが気配で分かる。
時計の音がやけに耳についた。
「……目が覚めた?」
あまり表情は見えなかったけれど、なんとなくいつものようにつかみ所のない笑みを浮かべているのだろう。
最近、カカシ先生の様子がおかしい。妙に優しいのにどこかよそよそしい。
その表情を良く見ようと顔を動かすと、さきほどは全く動かなかったのにすんなりと動いた。
「あ、とけた」
「……何が?」
「金縛りです。動けないだけで、首を絞められたりしたことはないんですけど、たまになるんですよ」
カカシ先生は首絞められたことありますか? とベッドに仰向けになったまま問う尚樹に、カカシは首を横に振った。ベッドに近寄って頭を撫でてやると、汗で少し湿っているのが分かる。
指先で触れた頬は少し冷たかった。
「……怖い夢でも、見た?」
「さあ、どうでしょう……夢の内容って覚えていられないんです」
上半身を起こそうとする尚樹の背を支えてやる。枕元で丸くなっていた夜一が小さくしっぽを揺らしたが、起きた様子はない。
月明かりに照らされた尚樹の横顔が、すこし青白く見えた。
「カカシ先生は、ずっとここにいたんですか?」
「いや、ちょっと様子見に来ただけ。仕事の帰りだよ」
いつものように笑みを浮かべながら、きっとバレているのだろう、とカカシは確信にも近い想いで嘘をついた。こんなに白々しい嘘をつくのは、もしかしたら初めてかもしれない。
嘘も真実も、この瞳の前では無意味な気がした。いったいどこまで分かっているのだろう、といつも疑問に思う。
過去も未来も、彼の見据えるその先には見えているのかもしれない。
「カカシ先生、俺に何か言いたいことはないですか」
だから、突然そう尋ねられてもカカシは驚かなかった。
もともとあまり思っていることが表情に出る方ではない。加えて顔の大半を覆っていることもあって、周りから見れば自分はきっと分かりづらいだろうとカカシ自身が一番良く知っている。それでも、そう付き合いの長いわけでもない尚樹は、ときどきこうして自分の心を読んでしまう。
嬉しいような気もするし、厄介だとも思う。
「言いたくないことなら、あるよ」
ベッドの縁に腰を下ろす。うしろを振り向かなければ尚樹の顔は見えない。見えなくても、その視線が自分の背中へと当てられていることは分かるけれど。
窓の外に見える月は少し欠けているように見えた。
「いざよい、くらいですかね」
「……まいったなあ」
意図的にしても偶然にしても、ここまで言い当てられてしまうと、もうカカシに出来ることは両手を上げて全面降伏するくらいだ。
口布を下ろすと、なんだかすごく無防備な気がして頼りない。
「……カカシ先生?」
「んー……ちょっと、どこから話そうか、迷ってる」
違う。話すことはもう決まっている。そんなに長い話じゃない。本当は、口にしたくないだけだ。もしかしたら、わざわざ口にしなくても気づいているのかもしれない。それでも、言わなければならない気がした。
言ったら、どんな顔をするだろうか。泣くだろうか。いつものように無表情でさらりと流してしまうだろうか。
時計の音が耳をつく。
痛いほどの沈黙に、口を開くのが億劫だ。

とす、と背中にかかった重みが尚樹の頭だとすぐに分かった。
寝てしまったのだろうか、と夜にあまり強くないことを思い出す。下手に動くことも出来ず、話をするか躊躇するカカシに、先に口を開いたのは尚樹だった。
「家までお散歩に行きませんか? 今日は月が綺麗です」
「……それ、つまり家に帰ろうって言ってるでしょ」
「お散歩なんですよ?」
「困った子だね」
苦笑を浮かべて振り返ったカカシに、尚樹が珍しく笑みを浮かべていた。甘えるようにかかる重みに、カカシはその頭を少し乱暴に撫でた。


月明かりが人気のない道に影を落とす。小さな手を引きながらカカシは尚樹のたわいもない話に耳を傾けた。
明日はきっと、多方面から苦情がくること間違い無しだ。
「そういえば、俺あんまり怪我したことないんですよ」
だから、入院があんなに退屈なものだなんて知らなかった、とつぶやく尚樹に少しだけ意外な気がしないでもない。
でも確かに、カカシが知る限り尚樹は怪我らしい怪我をしたことはない。したとしてもかすり傷程度。しかもたいてい草抜きをしていて手を切ったとか、地面にガチンコバトルを挑んだとか、そう言う下らない理由だ。暗部になって日が浅いとはいえ、いままで何ともなかったことの方が驚きだろう。
「退屈っていうのは、お前には似合わないね」
「そうですか?」
「んー……なんとなく、」
ぼんやりしてるの好きそうだから、と続けようとして我にかえった。さすがにそれは失言だろう。
突然言葉を切ったカカシに、首を傾げながらもいつものように深くは気にしていないらしい尚樹にカカシはそっと胸を撫で下ろした。
間髪入れずぴたりと尚樹が足を止める。見透かされたのかと一瞬心臓がはねた。
尚樹を振り返るとその視線は遠くへ向けられている。どうやら、カカシの心を読んだわけではないようだ。
すぐに、カカシも尚樹が足を止めた理由に気づいた。
「二人か」
「やっぱり、夜に出歩くと変態遭遇率が上がるんですかね」
「は? え?」
どこかあきらめたようにため息をついて烏の面を取り出した尚樹に、カカシは疑問符を浮かべた。
「尚樹?」
「カカシ先生、危なくなったら、先に帰って下さいね」
「何言って……」
気配が一つ遠ざかった。おそらく向こうもこちらの存在に気づいているだろう。近づきすぎたというほどでもないが、無視出来る距離でもない。
木の葉の忍びじゃないな、とカカシは目をすがめた。それは、尚樹の反応からもほぼ間違いないだろう。そしておそらく、こちらに敵意があって、なおかつ尚樹の知る人物であるということだ。
面をかぶって完全に顔を隠した尚樹は、夜一をどこに避難させようかとひとり思案していた。
「よく、暗部の面なんて持ち歩いてたね」
「ああ、よく分からないですけど、三代目に肌身離さず持ち歩くように言われてるんです」
初めて役に立ちました、と言いながら夜一を押し付けてくる尚樹の意図がつかめず、顔はあからさまに嫌そうだが珍しく抵抗しない黒猫を受け取る。
口を開こうとしたカカシを、視線をそらすことで尚樹が遮った。
月明かりに照らされた道に影が一つ増える。
その顔は、数日前に見た顔だ。筋肉が緊張するのが分かった。汗が頬を伝う感覚に、緊張しているのだとカカシは嫌でも思い知らされた。
カカシは両手に抱いている夜一をどうしようかと一瞬悩んだ。よくよく考えれば間抜けな体勢だ。
「誰かと思えば……」
小さく声を上げて楽しそうに笑う相手に気圧される。あの殺気にかなわない。すっとそれを遮るようにカカシの前にたった尚樹に、金縛りが解けたかのように呼吸が楽になる。
逃げろ、とカカシが口を開くより早く、尚樹が口を開いた。それは彼にしては珍しく、声音に嫌悪感をにじませたものだった。
「……キモイ」
眉間を押さえながら、心底真剣そうにつぶやかれた言葉に、空気が凍る。きっとそう感じていないのは尚樹一人だ。彼、大蛇丸を相手にこんなことを言う相手はきっと今までいなかったことだろう。
育て方を間違ったかもしれない、とカカシはさすがに頭を抱えそうになった。
「あなた……以前も会ったことがあるわね。その声、忘れてないわよ」
「全力で忘れて下さい」
「面白い子ね。でも、口は災いの元、って知ってるかしら?」
「変態は犯罪の元ってゼタさんが言ってました」
しん、と沈黙がおちた。端から見たら間抜けなやり取りだろうが、カカシからすれば今にも命を落としかねない全力のやり取りにしか聞こえない。
「口の減らない子ね。状況は正確に把握した方がいいわよ。その左手、使えないんでしょう?」
首からつっている尚樹の左腕を指差して大蛇丸が顔を歪めて笑った。それに尚樹が一歩後退する。それを認めて大蛇丸が勝ち誇ったように笑みを深めた。
「尚樹、ここは俺がなんとかするから逃げろ」
そう言ってぐっと足に力を入れたカカシに、尚樹は視線を向けることすらしなかった。
左腕をあげて器用につっていた布をはずす。音を立ててそれが地面に落ちるのを目の端で見ていた。
面を着けていてその表情は見えないが、きっといつものように無表情なのだろう。
「俺は最悪右腕一本あれば人を殺せちゃうんですよ」
だから、夜一さんを連れて先に帰ってください、と言う尚樹の声はいつもと変わらないのに、有無を言わせぬ響きがあった。だからといって、大人しく引き下がるカカシでもなかったが。
「ずいぶんとなめられたものね。これでもそこのカカシよりは強いつもりよ」
「カカシ先生とあなたのどちらが強いかなんて知りませんけど、100歩ゆずっても俺が一番弱いと思ますよ」
「……言ってることがおかしいわよ」
「そうですか?」
つまり人を殺すのに強いか弱いかなんて関係ないってことですよ、と抑揚なく言った尚樹に、大蛇丸が口元をゆがめた。
それを認めて、ああ、なんか大蛇丸がちょっとやる気になっちゃったかも、と今の会話のやり取りを少しだけ後悔した。原因が分からないので改善のしようもないが。
ひしひしと全身に感じる殺気を念をまとってやり過ごす。ふと気になってカカシを振り返ると、少しだけ顔がこわばっているような気がした。きっと変態の気に当てられたんだろう。
「ほら、そんなに変態オーラ振りまくからカカシ先生がドン引きしてますよ?」
違うと思う、とこの場にいた尚樹以外の思考が一致したことなどもちろん尚樹が知る由はない。
どうしようもない会話に先に終止符を打ったのは大蛇丸の方だった。
いきなり眼前で横に薙がれたクナイの切っ先に、尚樹は軽く地面を蹴った。はやい。もしかしたら、反応出来るぎりぎりの早さかも知れない。
最小限の動きでクナイを避けた尚樹に、しかしその切っ先が触れて面がとぶ。その反動で重心が思ったより後ろに偏り、体勢を立て直すために地面に膝をついた。
顔があらわになって、尚樹は右手で顔を覆った。
「あなた、つけ慣れてないのね、それ」
ぎりぎりで避けたつもりだったが、面を計算に入れていなかった。どうも面の突き出たくちばしのあたりに結構しっかりあたったらしい。指の隙間から吹き飛んだ面を除き見ると、割れてはいないが傷がついていた。
意外と頑丈だな、と的はすれな感想を抱く。いや、しかしそれよりも、
「じ、地味に痛い……!」
もっとも衝撃のはしった眉間を押さえて尚樹は痛みをこらえた。もちろん、そんな悠長なことを大蛇丸が許してくれるはずもなくすぐに次の攻撃が仕掛けられる。
とりあえず念を使って反動無しに後ろへ跳躍した。月明かりで夜中だというのに思ったより明るい。後退したことで面から遠ざかってしまい、ちょっとだけ後悔した。ようやく役に立ったと思ったらすぐこれだ。出来れば、大蛇丸には顔を知られたくなかった。
月明かりに照らされた尚樹の顔を見て、大蛇丸の動きが止まった。わずかに目を見開いて動揺を隠さない大蛇丸に、尚樹は首を傾げる。
カカシの投げたクナイをよけて木の上に移動した大蛇丸の動きを目だけで追った。その動きに何となく違和感を覚えて理由を探す。
そういえば、殺気が消えた。
終わりの合図だ。
「……しばらくは大人しくしていた方がいいですよ。厄介でしょう? いろいろと」
「……止めないのね」
「俺一人の力で変えられることでもないでしょう」
なんとかする気力もない。細かな、あるいは些細な流れは意図せず変わることもある。でも、大きな流れは変わらない。例えばここで大蛇丸を殺してしまえば何かが変わるのかもしれない。でもそれをするつもりは尚樹にはなかった。
地面に落ちていた面を拾って土を払う。この程度の傷なら念で直せるだろう。
帰りましょう、とカカシを振り返ると、二人のやり取りに戸惑っているようだった。無理もない。
背後で大蛇丸の気配が遠ざかるのを感じながら、尚樹はカカシの手を引いた。何がきっかけかは知らないが、思いのほかあっさり引いてくれて助かった。下手をすれば殺していたかもしれない。戦闘向きの念ではないのに、殺すのが最も労力がかからないなんて皮肉な話だ。
なかなか動こうとしないカカシの手をツンツンと引く。先ほどまで大蛇丸かがいたところからようやく視線をはずしたカカシから夜一を受け取った。
「……尚樹?」
いったい今のやり取りは何だと、眉をひそめるカカシに気づかないふりをしてきびすを返す。説明出来ることなんて何もない。
「尚樹」
呼び止める声に足を止める。空に雲はなく星も月も綺麗に見えた。
ああ、まただ、意識が引っ張られる。気のせいかとも思っていたけれど、どうもそうじゃない。何となく、本当に何となくだが、もうここに長くは居られない気がした。