陽炎-18-

左腕を引かれた気がした。
唐突に目覚めた視界には何度見ても慣れない天井。右肘をついて軽く体を起こした。
「何の夢見てたんだっけ……」
見た夢を詳細に覚えている人がときどきいるが、尚樹は思い出すことすらまれな方だ。夢を見ていたのかも分からない。
でもきっとそれでいいのだろう。思い出す必要のないことだと思う。だから思い出せない。
窓の外を見るとまだ日が高い。入院してまだ二日、はやくも退屈してきた。いい加減寝るのも限界だ。ついでに、腕の痛みも限界だ。もっと痛み止めをがんがん打って欲しい。
「よし、くっつけよう」
「……おい、話が違うだろう」
はやくも方向を転換した尚樹に、夜一はたまらず突っ込んだ。念で治すと不自然だから、と言っていたのはつい昨日の話だ。
あまりに根性がなさ過ぎだろう。
「思ったんだけどー、脱走しちゃえばいいんじゃない?」
名案を思い付いたとでも言うように得意げに言ってのけた尚樹に、何がいいのかまっっったく分からない、と夜一は考えることを拒絶した。
夜一が現実逃避気味に遠くを眺めている間に、となりではちゃくちゃくと準備が進められている。動きづらいとギブスをはずしているあたり、もう怪我の治療は終わったのだろう。
ぐっと伸びをする姿が視界の隅に映った。
はずされたギブスは申し訳程度にベッドの下に追いやられている。隠しているつもりだろうが、丸見えだ。
怪我をしているように見せるためか、腕に包帯を巻き直す尚樹に夜一は無駄なことを、と独りため息をついた。
あれで本当にごまかせると思っているなら、自分の飼い主は相当な楽天家か、相当なバカだとあきらめにも近い気持ちで思う。たぶん後者だ。
がらりと窓が開け放たれて、風が白いカーテンを揺らす。
夜一を抱き上げて窓枠へと尚樹の足がかけられたところで、病室のドアが引かれた。
しん、と痛いほどの沈黙がおちる。
「尚樹、ハウス」
「……わ、わん」
冷静にベッドを指差して言ったゲンマに、尚樹はとぼとぼとベッドに戻った。少し背の高いベッドに両手をついて緩慢な動作で登る。
途中で左腕が使えない状況だったことを思い出してさり気なく力を抜いた。
あからさまに呆れた様子を見せるゲンマとは対照的に、カカシからはピリピリした空気が漂っている。怒っているのかもしれない。
二人の後ろにたつハヤテからは、何の感情も読み取れなかった。てっきり、自分が寝ている間に死んでいると、そう思っていた。


こってりと保護者二人からしぼられた尚樹はベッドの上でしょんぼりとこうべを垂れた。
一人離れたところからハヤテは静かに三人のやり取りを眺めていた。
尚樹に会うのはこれで三度目になる。
一度目は彼がアカデミー生のとき。殺気もなく突きつけられた刃に、背筋がひやりとしたのを覚えている。
そして二度目は先日の中忍試験のとき。終始淡々とした態度で我愛羅を相手にする尚樹の、感情のない瞳に初めて彼と目を合わせた時のことを思い出していた。
人形みたいだな、とそう思っていた。
「来て正解だったでしょう」
「……」
そら見たことかとばかりに言うゲンマにカカシが無言で返す。何となく興味本位でついてきただけだったが、まさか本当に脱走を測るとはハヤテは思っていなかった。
二度しか会ったことはなかったが、そう言う子供じみたことをするような子には見えなかったし、こういっては何だが、自分の意志で動くような人間には見えなかった。
「尚樹、腕は?」
「もう痛くないですよ?」
だからお家に帰りましょう、と言葉を続けた尚樹にカカシが僅かに表情を曇らせたように見えた。あまり感情を表に出す人ではないから確信は持てなかったが。
伸びた手が優しく小さな頭を撫でる。そこに垣間見える優しさが、憐憫にも似た何かだとハヤテは敏感に感じ取った。
「まーだ駄目」
「もう全然平気なんですよ?」
「薬が効いてるだけだよ」
カカシの言葉が嘘だと、ハヤテは知っていた。ゲンマとかカカシの会話を漏れ聞いていた感じでは、痛み止めの類いは使っていないらしい。
腕は治らないな、とハヤテは独り冷静に判断した。
本人はそのことに気づいているのかいないのか、けろりとしている。あまり表情が変わらないから、何を考えているのかは分からない。
ただ何となく、分かっているのだろう、とカカシ達の短いやり取りを端で眺めていて感じた。
尚樹には治療を受ける意志がない。
独り入り口によりかかって三人のやり取りを眺めていたハヤテは、今更ながらに何故ここにいるのだろう、と自問した。
最初はただの好奇心だった。
誰よりも近くで尚樹と我愛羅の試合を見ていたのだ。その後どうなったか、全く気にならないわけではない。あとはまあ、たまたまゲンマとカカシが見舞いへ行くところに居合わせただけだ。
来てみれば、怪我をした張本人はひょうひょうとしていてちょっと拍子抜けしてしまった。まあ、たしかに試合中もけろりとしたものだったが。
こうしていると別人だな、とカカシに差し出されたケーキを頬張っている姿を眺めながら、急速に興味が失せていくのを感じた。
理由はハヤテ自身にも分からない。ただ、テレビの画面を眺めているようなそんな気分にさせられた。
いつものように小さく咳をすると、尚樹がふっと顔をハヤテの方に向けて瞬きを一つ。自分へと視線が向けられているのに目が合わないのはなんだか妙な感じだった。
「こんにちは、ハヤテさん」
「……ゴホ、こんにちは」
ようやく目が合って、彼が小さく微笑んだように見えた。まるで別れを告げるように笑う子だと、その大人びた瞳を見つめ返す。
「ちゃんと話すのは、初めてですね」
「そう言えば、そうですね」
「窮鼠猫を噛む、って言いますけど、猫を噛んだネズミは無事助かると思います?」
言葉を発した尚樹以外の全員が疑問符を浮かべた。カカシとゲンマはある程度慣れているが、まともに言葉を交わすのが初めてであるハヤテは、会話の脈絡のなさにいささか混乱した。
とりあえず、さあ、と曖昧に言葉を濁す。
ハヤテの返答に無表情のまま黙り込んだ尚樹にどうしていいか分からず、ハヤテも口をつぐむ。
自然と病室の中はしんとして、外を行き交う人の音が妙に耳についた。開け放たれた窓から湿った風が流れ込んできて、するりと頬を撫でていく。雨が降るのかもしれない。
これから任務の入っているハヤテは、その予測に少し気が重くなった。
そんなハヤテの心境をよんだかのように、ゆるりと口の端を開けて先ほどと同じように微笑んだ尚樹が変わらぬ調子で口を開く。その揺るぎのない言葉に、ハヤテは畏怖にも近い恐怖を感じずにはいられなかった。

「死相が出てるから、あんまり夜歩きはしない方がいいですよ」


病室を出ると左右から同時に肩に手をおかれた。あまりにも絶妙なタイミングで、示し合わせていたのかとすら思う。
両肩にかかった重みに、ハヤテはどちらを振り返るべきか迷った。結局どちらも振り返れずに視線はむなしく床の上をさまよう。
「あの……お二人とも?」
「暗部を一人くらいつけとくか?」
「夜道には気をつけておけ」
ためらいがちに疑問の声を上げたハヤテに、冗談とも本気ともつかない声音でカカシが問い、脅かすような声でゲンマが警告した。
「……ゴホ、まさか、さっきのを信じているんですか」
冗談でしょう、と言葉を続けようとしたハヤテはふりかえりざま、二人の意外にも真剣な表情に何も言えなくなった。