陽炎-17-
天井が白い。
尚樹はぼんやりとその見慣れない天井を眺めた。
体を起こそうとすると、ひどく全身がだるい。鈍い痛みが左腕に走った。
「ああ、病院か……」
そういえば、怪我をしたんだった、と目覚めたばかりの回らない頭で思った。
考えてみれば入院なんて生まれてこのかたしたことがない。ハンターの世界ではたいていの傷は念で治せたし、何よりあまり怪我をしなかった。痛いのは嫌いだ。
特に病弱なわけでもなく、妙な持病もない。ときおり季節の変わり目に風邪を引くくらいの健康優良児だ。
病院のベッドの上で目覚めるなんて、もしかしたら最初で最後かもしれない。
こんな怪我は金輪際遠慮したいというものだ。
「ヒソカ……シバく」
あいつの言葉をホイホイ信じた俺が馬鹿だった、と尚樹は海よりも深く反省した。
「起きたか」
病室のドアを開けて入ってきたのは、いまだ少年の姿を保ったままの夜一だった。
そういえば手当をしてもらったあと鎮静剤の副作用で眠っちゃって、元に戻してあげてなかった、とその中世的な顔立ちに視線を移す。
あたたかな手の平が額に触れた。
「熱は下がったな。お前あの後熱出して1日眠ってたぞ」
「ああ、そうなんだ。なんか、ダルいんだけど薬とか打ってるのかな」
「鎮静剤が残ってるんだろ。痛みは?」
「んー、ずきずきするけど、平気。神経鈍くなってる気がする」
「誰か呼んできてやるから、大人しくしてろ」
人を呼びにいく夜一の背中を見送って、尚樹は上半身を起こした。腕が重い。無駄なものがぶら下がっているようだ。
「念で戻したらまずいかな……」
尚樹としては痛いのは嫌いなので、早く元通りにしてしまいたいのだが、いきなり腕がくっついたら不自然きわまりないだろう。
ハンターの世界では別に驚くようなことではないが、どうも腕をくっつけてくれと頼んだ時のゲンマの反応を見ると、ここでは難しいことのようだ。
まあ確かに、どの世界でもそうそう簡単に怪我は治らないか。
「とりあえずいったんお医者さんに見せてから、かな」
その後はなんだかんだと理由を付けて検診をさぼればなんとか、なるかもしれない。とりあえず今はまだ薬が効いていて、ずきずきする程度だが薬が切れればあの痛みがぶり返すのは想像に難くない。
腕が痛いなんてかわいいものじゃない。全身が痛い。いったいどこが痛んでいるのか分からない、そんな感じだった。
思い出しただけで、あのあまりの痛みに気が遠くなりそうだ。
「ヒソカ……やっぱりシバく」
枕を起こしてだらしなく上半身を預ける。全部、真っ白だなあ、とシーツや床、天井を見渡した。
足音、人の気配。こんなに人の多いところで眠っていたのか、と病室へ近づいてくる人の気配を感じながら、尚樹はゆっくりと息を吐いた。
気だるそうにベッドの上で上半身を起こして外を眺める尚樹の姿を認めて、カカシは肩の力が抜けるのを感じた。
ゆったりと振り返った顔はいつもと変わりない。
医者が尚樹に近づいて言葉を交わす。まだ安堵するには早い、とカカシも気を引き締めてベッドの脇に立った。
カカシ達を呼びにきた夜一は、こちらのことなど無視してベッドのふちに腰掛けている。床に届かない足をぶらぶらとさせながら、特に尚樹を気にかける様子もなく視線は窓の外を飛ぶ鳥へと向けられていた。
「痛みは?」
「少し。でも薬が効いてるみたいで大したことないです」
「指は動かせる?」
医者の問いに、尚樹は視線を左腕へと移した。力を込めても指は動かない。麻酔を打った後のように、触れられている感触はある。うまく力が伝わらないだけだ。
「今は動かないですけど、薬が切れれば動くと思います」
「……そう。後でまた痛み止めを打つから、痛くなったら言うんだよ」
「はい、ありがとうございます。いつ退院出来ますか?」
「もうしばらくは無理だよ」
医者の言葉に尚樹は眉根を僅かに寄せた。はやくも計画が暗礁に乗り上げそうだ。
しかしここであきらめてなるものか、と妙な根性を発揮して「できるだけ早く退院したい」と医者に告げた。尚樹の要望に医者は困ったように笑みを浮かべるだけで返事はしなかった。
「珍しいね。そーんなに帰りたいの?」
「カカシ先生……。もう腕もつながってますし、入院してる意味はないと思いますよ?」
「いや、確かに表面上はくっついてるけどね、それは治ったわけじゃないんだよ?」
相変わらずずれたことを、と呆れながらカカシは尚樹を見下ろした。包帯の白さが痛々しい。
泣くほど痛かったくせに、どうしてそんなに退院したがるのかと尋ねると、ここじゃ眠れない、と簡潔な答えが返ってきた。
その返事に、カカシは一瞬押し黙る。その頭をいつものようにぽんぽんと撫でてやった。
カカシにも、経験がある。
まだ暗部だった頃に、やはり同じように病院では寝付けなかった。病院だけではない。人のいるところでは眠れなかった。
警戒心皆無だと思っていたが、これで意外に気を張ってるんだな、とそこに昔の自分を見た気がした。
「せめてもう少し良くなってからな」
「……これ以上の治療は無理でしょう? なら、ここにいる意味はないと思います」
珍しく食い下がる尚樹に、カカシはいささか驚いた。基本的に、尚樹はわがままを言わない。自分の意志を主張することもない。
だから、もし尚樹がわがままを言った時は出来るだけその意思を尊重してやりたいと思っていた。これがわがままの部類に入るかは微妙なところだが。
ただ、昨日の今日で退院が無理なことはカカシでも分かるし、何より尚樹の腕をこのままにはしておけない。下手をすれば忍びとしての生活も危うい。
だから、このわがままは聞けない。
そう口を開こうとしたカカシに、医者が話がある、とそれを遮った。わざわざ病室の外へ誘導する医者に、嫌な予感しかしない。
すぐ戻る、とその髪をひと撫でしてカカシはきびすを返した。
その後ろ姿をため息と一緒に見送って、尚樹は再び天井へと視線を戻した。
板の継ぎ目に視線を走らせながら、静かに痛みを主張する腕の存在から気をそらす。
「早く帰りたい……」
「帰るとなんかいいことがあるのか?」
完全に独り言のつもりだった言葉に、夜一が反応した。それに尚樹は曖昧に頷く。
「いいことっていうか……、腕が痛いから、治したいんだよね」
「それは家に帰らなくても出来るだろう」
「いや、出来るけどさ。ここじゃあ、それは不自然みたいだから。ほら、念はないしね」
「……ああ、それで」
一人で何か納得したようにつぶやいて、再び窓の外を眺める夜一の視線の先を追う。よく晴れた空に白い雲がゆっくりと流れていた。
「夜一さん?」
「さっき、ここじゃ寝れないって言ってたのは、どうせ腕が痛いからだろう」
「うん。ていうか他に理由なんてなくない?」
お前にはな、と心の中だけで突っ込んで、夜一は本能的に窓の外を動き回る鳥を目で追った。
前々から思っていたが、自分の飼い主は自己完結型だ。結論しか口にしないから、どうしてその結論に至ったのか全く分からない。付き合いの長い夜一でさえ、こうやって話を良く聞かないと分からないのだ。
他の人間に尚樹の言動を正しく理解しろというのは酷な話だろう。
カカシとゲンマだと、ゲンマの方が尚樹を正しく理解している、というのが夜一の見方だ。花屋の店主もそうだったが、カカシはどうも過保護な傾向にあるせいか。
つらつらとそんなことに思考を巡らせていると急に視線が低くなった。よく慣れた景色だ。
数日ぶりの自分の体に、夜一は軽く伸びをして毛繕いを始めた。慣れない二足歩行のせいか少し腰が傷む。
「夜一さん、ありがと」
「……何がだ?」
心底心当たりがないと、夜一は毛繕いを中断して顔を上げた。夜一がしたことと言えば医者を呼んできたことくらいだ。感謝されるほどでもない。
「止めてくれたでしょ?」
「……ああ、試合のことか」
「うん」
うっかり殺しちゃうところだった、と軽く言う尚樹に、物騒な奴めと夜一は苦笑を浮かべた。
まあ、保護者が保護者だから仕方ないか、と情け容赦ない花屋の店主の顔を思い出す。
ついでに、尚樹のどうしようもなく物騒な知り合い達が走馬灯のように頭の隅をよぎった。
「お前、相手が強いほど全力で殺しにかかるからな。条件反射か?」
「んー、なんかあんまり考えてる時間がないから、とりあえずゼタさんに言われた通りに動いてる」
「ああ……」
あるほど、と内心激しく納得した。夜一の知る限り尚樹の保護者は確実に相手を殺す方法しか教えていない。困った保護者だ。
自然とあくびが漏れる。そう言えば、昨日はあまり寝ていない。
それもこれも、世話の焼ける飼い主のせいだ。
「ほら、いい加減横になれ。どうせしばらくは退院出来ないんだから、薬が切れる前に寝とけ」
「うう……早く腕くっつけたい」
素直にもそもそと布団に潜り込む尚樹のとなりに、夜一も横になった。微かに鼻を突く消毒薬のにおいに顔をしかめる。
伸びてきた腕に、布団の中へと引きずり込まれた。
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