陽炎-16-

クナイを片手に器用にも未、巳、寅、と印をくんでいく尚樹を見ていたカカシは、いったい何が起こっているのか理解できず額宛をずらした。
我愛羅の体からまるで皮が剥けるように砂が落ちていく。
先ほど尚樹の言っていた「砂の鎧」の事だろう。あんなものをまとっていたなんて今の今まで気付かなかった。
写輪眼をもってしても尚樹の術は理解しがたいものだった。理解しがたい、というより正確にはとても見づらい、のだ。
ときおりなにか破片のようなものが見えるのだがすぐに分からなくなってしまう。
しかしおそらくそれが我愛羅に攻撃をくわえているものである事は間違いない。
我愛羅の砂の鎧はもうほとんどはがれていて、かすり傷ではあるが傷が2、3ついていた。
それは本当に一瞬のことで、チャクラを使って立ち上がる反動で一気に我愛羅との距離をつめた尚樹は、行く手を阻む砂をクナイで一閃して退ける。すぐにまた立ち上がる砂を背後に感じながら、尚樹はさらに我愛羅との間合いをつめた。
完全に砂の防御の内側に入った尚樹に、さすがの我愛羅も驚きを隠せない。
ギャラリーが声を上げるよりも早く、尚樹の構えたクナイの切っ先が我愛羅ののどに振り下ろされた。


「尚樹!」
時間がとまったかのようなその一瞬の中で、凛とした声が会場内に響いた。
その鋭い制止の声に、尚樹の動きがとまる。
勢いを殺しきれなかったクナイが我愛羅の白いのどをわずかに傷つけた。
両者ともに動かない。
しんとした痛いほどの静寂が会場を包み、しかしそれをほんの一瞬で尚樹が打ち砕いた。
クナイを持っていた手を返し、その甲で大した予備動作もなく横へ払う。
殴り飛ばされた我愛羅が音を立てて壁にぶつかった。
ぎりぎりではあるが砂のガードが間に合ったようで直接殴られた以外はあまりダメージがなさそうだ。
それでも、テマリやカンクロウからすれば信じられない光景だったが。
殴られたダメージが足にきているのかすぐには立ち上がろうとしない我愛羅に、尚樹は呑気にも自分の腕を拾いにいった。
状態を確認しようと何も考えずに断面部をガッツリ見てしまい、ちょっと目を背けたくなってしまった。
まあ、ちょっと見た感じでは結構綺麗に切断出来てるから、くっつけやすいかな、とずれた判断を下し断面から目を離す。
とりあえず一発入れた事だし、もう棄権しても文句は言われないだろうと審判に向き直った。
「審判さん、俺、棄権します」

尚樹の宣言にカカシはそっと安堵の息を吐いた。
周りはいきなりの敗北宣言に戸惑いの声を上げているが、さきほどからハラハラしっぱなしだったカカシとしてはその方が都合がいい。
たしかにもう一踏ん張りすれば勝てるかもしれない。
だが、何か嫌な予感がするのだ。他とは違う空気を我愛羅に感じる。きっとまだ本気ではないのだろう。
「なーんで棄権しちゃうんだってばよ! もうちょっとで勝てそうだってばよ!」
「そうよ、今だって押してるのに……」
「ナルト、サクラ、あれは一時的に押してるだけだよ。……我愛羅のほうがダメージ少ないでしょ」
尚樹がいつも通り動いているので失念しているのかもしれないが、実質殴られた程度の我愛羅に対して尚樹は左腕を失っている。
とても有利な状況とは言えなかった。
カカシの言葉に二人は不満げな顔をしたが、さすがにその辺は理解しているのか、ゲンマは尚樹の棄権に反対はしなかった。
「……いいのですか?」
念を押すように確認をとるハヤテに尚樹がためらいもなくうなずく。
「どちらにしても、この腕じゃあ本選は無理ですからね」
おそらくかなりの痛みだろうに、自分で切り落としたせいか尚樹に苦痛の色は見られない。
ようやく立ちあがった我愛羅が殺気のこもった瞳を向けていたが、それを気にとめることもなく尚樹はギャラリーへと戻った。
握っている腕の切り口からぽたぽたと血が落ちて床にシミを作る。
戻ってきた尚樹は、自分の腕をゲンマに差し出してひどく軽い口調で無理難題を口にした。
「ゲンマさん、ひっ付けてもらってもいいですか?」
「……尚樹、医療忍者でもない俺に本気でそれができると思ってるのか」
「え、でも縫うだけですし、忍術は関係なくないですか?」
「こんなん普通に縫ってひっつくわけないだろう」
「え、新鮮なうちなら平気だと思いますよ? それに早くくっつけないと俺の腕が出血多量で死にそうです」
状況に似合わずのんきなやり取りを繰り広げる二人に、既に次の試合の組み合わせが表示されているにもかかわらず、嫌でも周りの注目が集まる。
皆あからさまに見ているわけではないが、気にするなと言うほうが無理だ。
「また派手にやったなぁ。痛くないのか?」
あきれたようなアスマの声に、「めちゃくちゃ痛いです。心が折れそうです」と尚樹は正直に返したが、もちろんそれを本気にとる者はいない。
いつもと変わらぬ無表情を保つ尚樹の本心を知るものは、付き合いの長い夜一と、短いながらも生活をともにするカカシ、指導教官であるゲンマくらいのものだ。
「とりあえず医療班に見せないと……」
いまだぽたぽたと血の流れている腕に気づき、ようやく紅が口をはさんだ。いくら本人が平気そうにしていても重傷には変わりない。
すぐにでも尚樹を病院に連れて行きたかったカカシは、いつものように尚樹を抱えあげた。
「カカシ先生、汚れちゃいますよ」
「変なこと気にしてる場合じゃないだろ。病院に行くぞ」
「ちょっとカカシさん、尚樹なら私が連れて行きますから」
だいたい尚樹は私の部下ですよ、と非難の声を上げたゲンマに、カカシは保護者は自分だと不機嫌に返して瞬身の術でその場を後にした。
「まったく、そうやってすぐ甘やかす……」
誰にも聞こえないほどの声で、ゲンマはひとり不満を漏らした。
「保護者……ってなんのこと?」
純粋な疑問の声を上げたサクラに、どう説明したものか、とゲンマは天井を仰いだ。
いつも冷静な彼らしくない失言だ、と血の跡に目を落とす。
そのゲンマの腕を褐色の肌の少年が引っ張った。視線だけで尋ねると、尊大な態度で少年が口を開く。
「おい、ぼっとしてないで俺も尚樹のところに連れて行かんか」
「……はいはい」
珍しく口を開いたらこれか、とまっすぐに見上げてくる勝ち気な瞳にゲンマはくわえていた千本を揺らして、こぼれるため息をごまかした。

片腕でしがみつく尚樹からは濃い血のにおいがする。腕を切断したわりには出血は恐ろしく少なかった。
むしろ尚樹の握る腕から流れる血の方が多い。
「まったく……なーんで自分から腕を切り落とすかな」
病院への道を急ぎながら、カカシは血のにおいに顔をしかめた。どうも尚樹は自分の体を軽んじる傾向がある。
きっとそんなつもりはないのだろうが、警戒心が薄く、おおよそ危機感というものがない、その結果今回のように多少危険な行動もためらいなく起こす。
そう、以前から薄々気づいてはいたのだ。
ただ、まさかこうも豪快に腕を捨てるとは思っていなかったので、直接本人にそのことを注意したりはしなかった。
いずれ、任務をこなしていく中でそれが良くないことだと気づいてもらいたかった。
だが、それでは遅い。尚樹は少し鈍いところがあるから、口で言わなくては伝わらないのかもしれない、そう思ってカカシは口を開いた。
「……ってなんでいきなり泣き出すの!?」
ぼろぼろと無表情で涙を流す尚樹の顔を見て、カカシは思わず足を止めた。尚樹が瞬きをするたびに目にたまった涙がぽろぽろとこぼれていく。
その初めて見る姿に、カカシは思考が完全に停止した。
「うー……い、痛いです」
「そりゃ、痛いに決まってるでしょ。切っちゃったんだから」
「だって痛くないって、腕とれても痛くないよって言ったのに……」
うそつき、と悪態をつく尚樹に、いやいや痛くないわけないだろう、とカカシは心の中で突っ込んだ。
というか、そんな嘘八百を吹き込んだのは誰だ、しかもそんなあからさまな嘘を信じるな、とどうでも良いことばかりが頭の中を回る。
ぼろぼろと涙を流す尚樹の頬を撫でるように手の平でぬぐってやった。
温度のないように見えたしずくは、それでも確かに暖かく、カカシの手の平に冷たくなってなおその感触を残した。
「尚樹、怪我をしたら痛いんだよ」
「でもこのくらいならすぐ引っ付くかなって」
そういうことを言ってるんじゃないんだけど、と苦笑を漏らしてカカシは再び病院へと急いだ。