陽炎-14-

うん、無理。
目の前に立つ相手の顔を見て尚樹は一人うなずいた。
速やかに挙手をして口を開く。
「水沢尚樹、この試合棄権しま」
「こぉら! 始まってもないのに棄権すな、ボケ」
ギャラリーから一括したゲンマに、恨めしげな視線を送る。
「や、どー考えても無理ですって。死にます。断言出来ます」
「断言しなくていいから」
そりゃあ、ゲンマさんは見てるだけだから気楽なもんだよな、と肩を落とす。
目の前に立つ砂忍、我愛羅はロック・リーでもかなわなかった相手だ。
リー同様ほとんど忍術を使えず、しかもリーの体術に遠く及ばない尚樹が勝てるはずもない。
というか、なぜ我愛羅の相手が自分なのか、おかしいにもほどがある。
「棄権するなら、やるだけやってからにしろ」
やるだけやったら、死にます、と心の中で反抗的な、しかし切実な返事をして尚樹は我愛羅へと視線を戻した。
尚樹になど興味がないのか、表情を動かすことなく立ち尽くしている。
まあ、下手にやる気になられるより万倍マシだ。
「……ゴホ、始めてもいいですか?」
審判であるハヤテの言葉に、尚樹は渋々うなずいたのだった。


予定通り、ぎりぎりにナルト達が試験を通過し、そのまま予選の運びとなった。
辞退する者を促したハヤテの言葉に、ゲンマが手を挙げる。それにならって尚樹も右手を動かしたが、すんでのところでゲンマに押さえ込まれてしまった。
「お前は辞退したら駄目だろう」
「え、でももう十分頑張ったと思います」
「そう言う問題じゃない。だいたい、お前無傷だろう」
2次試験中敵に遭遇することもなく平和な道程だったために、無傷どころか汚れ一つついていない尚樹に、ゲンマは呆れたように言った。
ついでに、4日間の休暇をはさんで体力回復もばっちりだ。
その言葉に、尚樹が首を傾げながら視線を上から下に滑らせる。
「それを言ったらゲンマさんも無傷ですよ?」
「阿呆、俺が真面目に参加してどうする。中忍試験だぞ」
こそこそと話す二人に、ハヤテがどうしますか、と急かす。それに問答無用でゲンマが、尚樹は参加、自分と夜一は辞退と告げた。ずるい、と不満を漏らす尚樹に趣旨を忘れるな、と釘を刺してゲンマはさっさと会場から姿を消してしまう。
「ううー、ひどい……」
「まあ、仕方ないだろ……、俺は上に行っとくぞ」
「夜一さん、先に帰らないでね?」
「帰りたくても帰れん」
さすがに死の森を一人で抜けるのは無理だ、と尚樹を安心させるように言って、夜一はギャラリーへ上がった。
ああ、嫌だなあ、とハヤテの説明を聞くとも無しに聞きながら、違和感。
何か忘れてる気がする、と尚樹は首を傾げた。
さり気なく視線を移動して会場を見渡す。ああ、そう言えば大蛇丸が居ないんだ、とすぐに違和感の正体に気づいた。
尚樹の記憶が正しければ、確かこの場に大蛇丸がいたはずだ。
変化の術を使い、どんなに化けていたとしても大蛇丸なら分かる、という根拠のない自信が尚樹にはあった。
強いて根拠をあげるとするならば、やはりあの肌で感じるような異質なオーラだろう。誰にも同意してもらえないので、どうも他の人には分からないようだが。
そうこうしているうちにハヤテの説明が終わり、すぐに第一試合の組み合わせが発表されて少し緊迫した空気に会場が包まれる。
そんな空気の中、尚樹はひとりサスケの相手を見ながら、誰だっけ、とぼんやり考えていた。
皆が移動を始めるのにならって尚樹も2階へと移動し、夜一のもとへと急ぐ。
夜一のとなりに並び行儀悪く手すりに寄りかかって試合を眺めていると、ふと尚樹の上に影がおちた。顔を上げると隣に知った顔。
相手はこちらに興味がないようで、その視線は試合中のサスケへとそそがれている。
「……棄権、しなくて良かったんですか」
静かに疑問を口にした尚樹に、カブトは一瞬体を堅くし、ゆっくりと視線を下げた。レンズに遮られた視線は、確かに尚樹へと当てられている。
「えーと、何の話かな?」
「試合、棄権するつもりだったんでしょう?」
「……せっかくここまで来たのに、棄権なんて普通しないんじゃないかな」
「じゃあ、カブトさんは普通じゃないんですか?」
「ん? 話の流れがよく分からないな。見ての通り、僕は棄権なんてしてないよ?」
今回は、でしょう? と無表情で淡々と言葉を紡ぐ尚樹に、カブトも表情を変えずに黙り込んだ。必死に頭の中の情報を探る。この顔を知らない。少なくとも、今まで中忍試験を受けた中には存在しない。
ルーキーにしても、木の葉の忍に関しては一通り調べているつもりだった。
それなのに、この顔に心当たりがない。その事実に、カブトは愕然とした。
「……どこかで、会ったことがあったかな?」
「ああ、分かった」
カブトの言葉を無視して頷く尚樹に、カブトは眉をひそめた。それに構わず、早々に決した試合を見届けてから、尚樹は視線をカブトへとうつした。
その視線の延長線上に、元の姿に戻ったゲンマがこちらへ向かってくるのがうつる。
「大蛇丸が居ない代わりに、あなたがここにいるんですね」
そう、無表情で言った少年に、カブトは得体の知れないものに対する恐怖心を抱かずにはいられなかった。

先ほどかわしたやり取りを思い出しながら、どうしてそのとき異変に気づかなかったんだ、と尚樹は頭を抱えたくなった。
本来居るはずのないカブトが試験に参加していた。それはつまり、何かがずれてきてしまっているということ。
これは、ハンターの世界で一度だけ経験がある。ゴン達とハンター試験を受けたときに、トンパが居るはずのところでいなかったのと、逆の状況だ。
あの時はその穴を尚樹が埋めた。つまり、今回は大蛇丸の穴をカブトが埋めているわけで。ついでに言うと、試合に本来居ないはずの人間が二人いるわけで。
少しずつずれて、まずい具合に試合相手が変わってこの結果だ。何が何でも試験を辞退すれば良かった、と無情にも告げられた試合開始の合図を視界の端でとらえながら、尚樹は激しく後悔した。

試合開始早々、尚樹は後ろへと飛びのき間合いを取った。
端から見れば遠すぎだろうが、このくらい離れていても正直近いくらいだろう。
尚樹にとっては不利な間合いとなるが、我愛羅の間合いの方が広いのだから仕方がない。
ほどほどにやって、出来るだけ早く棄権するしか、この死亡フラグを回避する方法はないだろう。
尚樹はぐっと奥歯を噛み締めて、思考を巡らせた。
かなり厳しいが、一発入れればゲンマさんも許してくれるだろう、とかなり低い志でもって目標を定める。
そして、いかに早く安全にその目標を達成するか、ということについて具体的な作戦を考えた。
とにかく、あのオートで防御してしまう砂をなんとかしなくてはいけない。
原作では圧倒的な早さでリーはその防御を回避していた。
あそこまでのスピードは尚樹には無理だが、砂の防御が完璧ではないということは念頭に入れておく必要がある。
スピードは、砂の防御を上回るというのはうまくやれば有益な情報となりうるだろう。
あとは、あの砂の防御がどの程度の強度をもっているか、だ。
右足へつけたホルスターへと手を伸ばす。
我愛羅は相変わらず、余裕だと思っているのか腕組みをしたまま動かない。
尚樹が思考を巡らせている間も攻撃を仕掛けてくる様子はなかった。
相手が油断しているうちしかおそらく勝機はない。一気にしかけて一発入れて、棄権。
最後までの流れをシミュレーションした尚樹は、ホルスターから千本を抜いた。普通に投げても簡単にはじかれてしまうだろうが、尚樹には念がある。
両手に構えた千本を一斉に放った。