陽炎-8-

「パックン!」
ぎゅっと犬を抱え上げた尚樹に、カカシはなんだか負けた気分になった。
約一ヶ月ぶりに家に帰ってみれば、自分より先にパックンが熱烈な歓迎を受けているのだ。出来れば先に自分にお帰りなさいを言って欲しかった。
「お帰りなさい、カカシ先生」
「‥‥ただいま」


いつもは尚樹に一番可愛がられている夜一もソファの上でじっと丸くなっていた。
珍しくカカシが近くに腰を下ろしても逃げる気配がない。少しだけ親近感を覚えた瞬間だった。
「波の国はどうでしたか?」
「あー……いろいろ大変だったよ」
本当に。ただのCランク任務がBランクに化けた。自分だけならともかく下忍3人に一般人ひとり。
守るものが多すぎた。ただ、ナルトたちにはいい経験になったかもしれない。
結構写輪眼を使ってしまったので体への負担は重かったなあ、と再不斬との戦闘の後に歩けなくなってしまったことを思い出して苦い気持ちになった。
「ほーんと、水難には遭うしね。あれは何かの占いなの?」
パックンの頭を撫でたり肉球を触ったりしていた尚樹が顔を上げる。
こういうときは年相応だ。
「あれ?」
「任務に出る前に水難の相がどうとか言ってたでしょ」
「ああー……」
ようやく思い出したのか尚樹が曖昧な反応を返した。
その反応に、おや? とカカシは内心で首を傾げる。尚樹にしては珍しくあまり聞かれたくないことだったらしい。
視線を泳がせながら、手だけはパックンの毛並みを楽しむように動いていた。
「……そういえば、おっきいわんわんとちっさいわんわんがどうとかも言ってたな……」
言われたときは何のことか分からなくてすっかり忘れていた。しかしよく考えてみると、あれは再不斬と白のことを言っていたのではないだろうか。
一度そう思いだすともはやそうとしか思えない。
ちらりと視線を向けると、さっと目をそらされた。怪しい。
「尚樹?」
「あー……いや、ほら。あれですよ。あんまり深い意味はなかったっていうか」
だから、あんまり真面目に取られるといたたまれないっていうか、と少し困ったように顔を歪めるだけで笑った。
ばつが悪そうにお茶を濁す尚樹に、先ほど考えていたことが簡単に霧散してしまう。
自分から意味ありげなことを言っておいて忘れているところといい、この態度といい、おそらく本当に気まぐれだったのだろう、とカカシは結論した。
尚樹にとっては、何気ない日常の一コマ、その中の他愛ない会話のひとつにすぎなかったのだ。
水難の相はともかく、おっきいわんわんとちっさいわんわん発言にはどうにも腑に落ちないところがあるが、聞いてもおそらくまともな答えは返ってこないだろう。
「そういえば、もうすぐ中忍試験ですね」
「ん? ああ……もうそんな時期か」
あからさまに話をそらしてきた尚樹に、カカシは素直に流されてやった。
「ナルトたちも受けるんですよね? ナルトはともかく、サスケは大丈夫かなあ……」
ひどく断定的な言い方をする尚樹に既視感を覚える。原因は、すぐに分かった。
「どうしてサスケは心配?」
「うーん、強いから?」
ヒソカ風に言うと青い果実だからだ。ナルトはこの世界の主人公。危ない目に遭うことも他より多いが死ぬ確率は限りなく低い。
そう言う意味でならサスケも大丈夫だろうが。彼の不幸は大蛇丸に気に入られてしまうところだろうか。それとも「うちは」に生まれたことだろうか。
いや、でも。そもそもの根本は
「ナルトのライバルだから、かな」
大蛇丸も「うちは」も、ナルトとサスケが対立するための理由に過ぎない。
本来ならば、こういう考え方は良くないのだろう。紙上の出来事ではない。確かに今、現実として起こっていることなのだ。
紙の上ならただのストーリーでも、現実になればそれが運命にとってかわる。
もとよりこの世界に存在しないはずの尚樹にはそれがない。それはとても危ういことだ。
でも、ほんの少しだけ、この世界で生きていくために有利な情報を持っている。
ならばそれを使わない手はない。
自分の思考に沈んでしまった尚樹をカカシは静かに見つめた。
彼には時々こういうことがある。いつもの他愛ないことを考えているのではない、と思う。
こういうときは決まって、その瞳はどこも見つめておらず暗い光をたたえていた。
波の国へ任務へ出るとき、尚樹は水難の相が出ている、と言った。
今思えばそれはまるで不確定なことを告げる口調ではなく、あらかじめ何が起こるか知っていて警告しているような感じではなかっただろうか。
さきほど尚樹はさも当たり前のようにナルトたちは中忍試験に参加すると言った。そうなることを疑わない声は、先の警告をしたときの声に似ている。
考え過ぎかもしれないが、カカシは中忍試験中はサスケに気をつけておこうと思った。
とりあえず、思考にふけっている尚樹を呼び戻すべく、その頭をいささか乱暴に撫でる。
強制的に思考を断ち切られた尚樹がようやくその目をカカシへと向けた。
「そろそろお風呂に入ってきたら? もうすぐ寝る時間でしょ」
「あ、はい。じゃあパックンと入ってきます」
そう尚樹が言い切る前にポン、と音を立ててパックンが姿を消した。
どうやら風呂は嫌らしい。
「……パックンがいなくなっちゃいました」
「まあ……お風呂嫌いだから」
しょんぼりした尚樹に苦笑を浮かべながらカカシはとなりで丸くなっている黒猫に視線を落とした。
無関心そうに振る舞っているがピン、と耳が立っている。
それがまるで自分たちの会話に聞き耳を立てているように見えておかしかった。
「俺と入る?」
「……野郎二人で入ってもいたたまれないです」
「言うに事欠いてそれかい。まあ否定はしないけどさ」
何とも嫌そうな顔をした尚樹に内心でちょっぴり傷つきながら、娘に一緒にお風呂に入ってもらえなくなった父親みたいだ、と情けないことを思った。


実は成人男性が温泉でもない一般家庭の狭い風呂に一緒に入るという、本当にいたたまれない状況になってしまうことをカカシが知るはずもない。