陽炎-3-

霧が立ちはじめたその森で、さすがに違和感を覚え始めたテンゾウはうつらうつらと歩きながら舟を漕ぎ始めた尚樹の手を引いた。
この状況で半分寝てるなんて、鈍いのか図太いのか、肝が据わっているのか。
実質一人で敵の相手をしたばかりのテンゾウのほうが疲れているはずなのに、意識ははっきりとしていた。
まだ相手の気配は読めないが、お荷物を抱えて逃げ切れるだろうかと、あまり使えそうにない子供を見下ろす。
気配に敏い尚樹がまったく無反応なことを鑑みると、相手はその辺の雑魚ではないだろう。
「……尚樹、目を覚ませ。敵がいる」
テンゾウの警告にぴたりと足を止めた尚樹は、眠気を振り払うように握られていないほうの手で、瞼をこすった。
緊張感なく大きな欠伸を漏らす。
「うー……ひとり、ですね」
はずしていた面をつけながらろれつの回らない口でこともなげに言った尚樹に、気づいていたのか、とわずかに目を見張る。
意識を張り詰めてもう一度気配を探るが、テンゾウには何も感じられなかった。
気がつけば視界はほとんど霧に阻まれている。
「動けるか?」
「なんとか……殺します? 倒します?」
「だからなんでその2択なんだ……違いがわからないぞ」
昨夜聞いたばかりのどうしようもない2択を再び提示されて、テンゾウは張り詰めていた意識が一気に緩んだ。
尚樹は相変わらずお面の下であくびを繰り返している。
「お前、暗部向いてない」
「同感です……それより、任務中は俺のことリュークって呼ばなくていいんですか?」
俺は別にかまいませんけど、と心底どうでもよさそうに言った尚樹に、そういえばそうだった、と彼のコードネームを今更思い出した。
予想以上に自分は疲れているのかもしれない。
その瞬間、ぞくりと背中に怖気が走った。先ほどまで感じられなかった気配が濃密に感じられる。
勢いよく振り返ったテンゾウの目に、男とも女ともつかぬ人物が写った。
うすら笑いを浮かべるその顔に、妙な気味の悪さを感じずにはいられない。それは尚樹も同じだったようで、そのいつもはあまり開かれることのない口から、とんでもない言葉が滑り出てきた。
「うわ……超ド級の変態オーラ」


尚樹的には、あのヒソカよりも邪悪なオーラを感じたのと、眠いがゆえの思考力の低下も手伝ってのことだったのだが、テンゾウからすればしょっぱなから喧嘩を売っているとしか思えない暴言にぐうの音も出ない。
初対面でいきなり超ド級の変態とまで言われた相手も、わずかにこめかみをひきつらせた。
「なかなか、いい度胸じゃない」
「それはどうも」
淡々とした態度で言葉を交わしながら、尚樹の手がテンゾウの服を引っ張った。それに、一瞬だけ視線を向けて答える。
怖気づいたのかと思ったがそうではないらしい。小さな声で、隙を見て逃げてください、と尚樹が告げた。
それはこっちのセリフだ、と声を大にして言いたいが、ぐっとこらえる。
この天然の面倒を見れるカカシ先輩はやっぱり凄い、と妙なところで感心してしまった。
尚樹を背中にかばうように一歩前に出る。
再び尚樹がつんつんと服を引っ張ったが、今度は振り向かなかった。
「ふふ、あなたじゃ私にはかなわないわよ? その巻物を渡してくれたら見逃してくれてもいいわ」
しゃあしゃあと嘘をつきやがって、とテンゾウは内心で毒づいた。どうやら目的は巻物らしいが、渡したところで言葉通り見逃してくれるような相手ではないだろう。
肌をさす殺気が、相手の強さを如実に物語っていた。
ひどく張り詰めた空気の中で、再び尚樹があくびを漏らしたのがわかった。
こいつ、この緊迫感というか、殺気がわからないのか? とテンゾウは体を硬くした。普通の下忍なら、この殺気の中で立っていることもできないだろう。
正直、自分でも若干足がすくむというのに、この余裕はどこから来るんだ? 
クナイを構えたテンゾウに、今度は先ほどよりもしっかりとした声で、尚樹が問いを繰り返した。
「殺しますか? 倒しますか?」
不思議と通るその声は相手にも届いたようで、小さな笑い声が聞こえる。きっとこちらには負けないという絶対的な自信があるのだろう。
その問いはとても滑稽に聞こえたに違いない。
「念のために聞くが、その二つの違いはなんだ?」
「生かすか、殺すか、ですよ」
「まったく……お前には逃げるっていう選択肢はないのか」
正直、この場を退くことしか考えていなかったテンゾウとしては、尚樹の言葉は耳に痛かった。
逃げることしか考えていない自分と、常に敵を倒すことしか考えていない少年。
どちらの判断が正しいかと言われればおそらく自分だろうが、臆病者と言われているようで妙に居心地が悪い。
そんな引け目を感じ始めた時だった。
とても純粋な疑問を投げかけるように、逃げてもいいんですか? と尚樹が驚いたように声を上げた。
鳥の鳴き声一つしない森の中で、その声がやけに響く。
ものすごく後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、テンゾウはそれを再びぐっとこらえた。
そしてとりあえず心の中で、なんで逃げたらいけないと思ったんだ、と突っ込みを入れておく。
敵は、興味深そうに二人のやり取りを眺めていた。
ああ、きっとすごく馬鹿だと思われてるんだ……!
相変わらずの緊迫した空気の中で、なんで自分はこんなに情けない気持ちにならなくちゃいけないんだろう、と頭を抱えたくなる。
逃げたいのはやまやまだが、背中を見せたとたんにばっさりやられそうで、テンゾウはこの状況に耐えるほかなかった。
「逃げてもいいんですか?」
「……あたりまえだ」
逃げれるならな、と心の中で付け加えてクナイを構えなおす。
「リューク、お前は巻物を持って里に戻れ」
「それは別にかまいませんけど……」
テンゾウさんは逃げないんですか? と素朴な疑問を投げかけた尚樹に、逃げれるもんなら逃げてる、と声を大にして言いたい。
「相手は大蛇丸ですよ? 下手に相手すると普通に死んじゃうと思うんですけど」
場の空気が1,2度下がった気がした。
息苦しい。
こめかみを冷たい汗が伝う。敵の浮かべた意味深な笑みが、尚樹の言葉が正しいことを肯定していた。
「……私のことを知っていてその態度とは、なかなか勇敢ね」
それとも無謀なのかしら? と笑う大蛇丸にいつの間にか自分の前に出ていた尚樹が千本を投げた。
後ろに下がろうとする尚樹に合わせて足をひいたテンゾウの背中に壁のような感触。
なにもないはずの場所で不意に感じたそれに、一瞬攻撃を受けたのかと体を硬くしたテンゾウにかまわず、尚樹がその体を強く押した。
バランスを崩して尻もちをついたテンゾウの視界に青い空。
手に当たる地面の感触はざらざらと細かなもので、そこが森の中ではないことを告げた。
混乱のままに頭を動かせば、民家や、まだ早朝のために開いていない見慣れた店がならぶ。
大丈夫ですか、と差し出された手を反射的にとった。
「ここは……」
「木の葉ですよ。早くこの巻物届けに行って帰りましょう。俺はもうそろそろ起きてるの限界です」
混乱しているテンゾウにお構いなく歩き出した背に、あわてて声をかけた。
「そっちじゃない!」