逃げ水-21-

店の手伝いをしようと店へ出てみると、見知った顔が振り返った。
両手に花を抱え、店のエプロンをつけたその姿はとても客には見えない。
その少年の名前を、山中イノはどうしても思い出せずにいた。

「尚樹君、その花こっちに持ってきて」
「はい」
自分の母親の声に、ああ、そういえばそんな名前だったと教室では目立たない少年の後姿を見遣った。
というか、なんでいるんだと遠慮なく視線を送る。それに気付いたのか、くるりと尚樹が振り返った。
「こんにちは、山中さん」
「あー…えっと、こんにちは。イノでいいわよ」
「うん、分かった」
短いやり取りでえられた情報は皆無だ。しかしすぐに尚樹は仕事へと戻ってしまう。
自分より小さな体に、頼りなさを覚えずにはいられない。
とりあえず、自分も仕事をするかとエプロンを首にかけた。
「尚樹、どうしてここにいるの?」
並んで仕事をしながら、いつもより活発に動いている少年に話しかける。
花を優しく扱う手先を見ながら、意外と指が長いんだな、とどうでもいいことを考えた。
「あれ、聞いてない? 今日から放課後お手伝いさせてもらうことにしたんだ」
ああ、そう言えば以前一度だけバイトを募集してないか聞かれたことがある。ずいぶん前なので今の今まで忘れていたが。
「……物好きね」
「そうかな? ……イノなら分かると思うけど?」
意味ありげに視線を合わせた尚樹に、意味が分からず眉根を寄せる。
尚樹と言葉を交わしたのは、何を隠そうこれで二度目。
こういう声だったのか、といまさら認識するほど接点は皆無。
もくもくと手を動かし、母に仕事を教えてもらっている姿は、アカデミーにいるときよりもなじんで見えた。
存在感がある、とでも言うのか。
心無しか、表情も動きも生き生きとしていて、純粋に花に触れるのが好きだという気持ちが伝わってくる。
「ああ、そうか……」
先ほどの問いの答を何となく理解して、イノは小さく笑みを浮かべた。


聞いたことのないメロディを小さく口ずさみながら台所に立つ子供は、明らかにいつもより上機嫌だ。
たとえ、いつもと変わらずその表情が無表情だとしても。
カカシは今回上忍になってはじめて生徒を持つことになった。
その生徒がうちはとうずまきナルトであることは皮肉というか、運命の巡り合わせというか、三代目の思惑が透けて見えるというか。
もちろん今現在里で写輪眼を使えるのはカカシだけなので、致し方ないことではあるというのは理解している。
サバイバル演習に合格したのは彼らが初めてだが、まぁ実際はぎりぎりといったところだ。
もう少し気づくのが遅ければ、彼らも不合格だった。
それにしても、子供の相手はこんなに厄介だったっけ、と疲れきって帰って来たところだ。
どこか甘く見ていたのは、生徒を持つのが初めてだったこともあるし、うちにいる子供が驚くほど手がかからないからだ。
おとなしい方だということは認識していたが、どうやら予想以上に大人びた子だったらしいことに今日改めて気づいた。
「お帰りなさい、カカシ先生」
「ただいま。ずいぶんご機嫌だね」
「はい。しばらくアカデミーは休みなので、一日花屋さんで働けるんですよ」
楽しかったです、と初出勤にご満悦らしい尚樹は、数日前に一人だけアカデミーの卒業試験に落ちた。
本来なら保護者であるカカシは、そのフォローに気をもまねばならないはずだったが、本人は至って普通だ。
アカデミーに迎えにいったときの尚樹の様子から、てっきり卒業試験に受かったものと思っていたカカシが、本人から「落ちました」とあっさり告げられ逆に動揺してしまった程度には。
「今日はカレーなんですよ。野菜がたっぷりです」
「ああ……においで分かるよ。それより、今日はちゃんと迷わずに帰って来れたの?」
どうにも、今日は帰りが遅くなりそうなので尚樹の迎えをどうしようかと思っていたのだが、本人が夜一がいれば道に迷わないから大丈夫だ、と言い張るので初の一人帰宅となったのだ。
もちろん、カカシは尚樹のいい分など信じておらず、万が一道に迷ったら自分が探しにいくまでその場を離れないこと、と言いつけておいたのだが。
彼の方向音痴っぷりには時々呆れを通りこして感動すら覚えるほどなので、自分より先に帰宅していたことに驚いていた。
「夜一さんがいたから、ちゃんと帰って来れましたよ」
大丈夫です、という尚樹にチロリと黒猫に視線を向ける。
尚樹の足下に座り込んでいた黒猫はその視線にぷいっと顔を背けた。
あいかわらず嫌われている。
ときどき、人間の言葉が通じているんじゃないかという行動をとっているから、もしかしたら結構知能の高い猫なのかもしれない。
鍛えれば、忍犬みたいになるのかね、とその生意気そうな顔を見やった。
出来上がったカレーを尚樹が皿によそい、それをカカシがテーブルまで運ぶ。
いつのまにか暗黙の了解で習慣となってしまったこの行為は、過去にカカシが尚樹に対する不信感をかけらほども隠さなかったせいだ。
尚樹は必ずカカシの前で2人分の食事をよそい、そのどちらを食べるかという選択肢はカカシにゆだねられている。
今はもう正直、カカシ自身過剰反応だったと思っているので、無意味な行為と言えば無意味な行為なわけだが。
昔はカレーのようなにおいの強いものすら食卓に並ばなかったほどなので、尚樹も子供なりに気を張っていただろうことは想像に難くない。
本人の言葉通りどこかいびつで不揃いな野菜がゴロゴロと入っているカレーを前に向かい合って腰を下ろした。
いただきます、と両手をあわせ一口。
甘口をチョイスするあたりが、やっぱり子供だよなあ、と些細なことに尚樹の年齢を感じる。
逆に言えば、こういう些細なところでしか彼の幼さを感じられず、つい大人扱いしてしまう。
こういう、周りより大人びた子は普通の子供のようにわがままを言えず、つらい思いをさせてしまうことも少なくない。
せめて、一番一緒にいる時間が長い自分だけでもそのことに気づいてやらなければ行けない気がしていた。

「あ、そういえばカカシ先生聞いてください」
アカデミーの生徒よろしく右手を上げる尚樹に視線を向ける。
「……なに?」
「教科書に載ってる忍術は全部できるようになったんですよ」
ちょっとだけ嬉しそうにそう言った尚樹にカカシは首をかしげた。
それもそのはずで、先ほども言った通り尚樹はアカデミーの卒業試験に落ちたばかりだ。
今のところ、尚樹の忍術が成功しているのをカカシが見たのは変化の術だけ。
今回の卒業試験の内容は分身の術。そう難しいものではない。
「分身の術、やってごらん」
あれこれと考えるよりもまずは証拠だ。
カカシに促されるままに尚樹がゆっくりと印をくんだ。しかし、いっこうに変化はない。
さらに内心で首をかしげたカカシは、どういうことかと尚樹をみた。
とうの尚樹はと言えば、どこが満足げだ。
全く事態が飲み込めず、実際に首を傾げてしまったカカシに、尚樹がもう一度未、巳、寅と印をくんでみせた。
「ちゃんと印をくめるようになったんですよ」

…………。

たしかに、最近はよくアカデミーに行く前や寝る前に教科書を読んで印をくむ練習をしていた。
熱心とは言えないが、尚樹はまじめでどちらかと言えば努力家だ。……激しくマイペースだが。
「……つまり、どの術も印を正しくくめるようになったって言いたいわけ?」
「はい」
まさか、と思って口に出したカカシの言葉に、尚樹はしっかりとうなずいた。
今日一日の怒濤が頭の中を走馬灯のようにすぎていって、思わずその小さな頭をなでた。

「おまえは馬鹿だけど、かわいいよ」