逃げ水-19-

自分という薄情な人間には無縁だと思っていたものがある。
情がないわけではない。たとえば、依頼や任務であっても俺はカカシ先生やゼタさんを殺さない。殺せないのではなく殺さない、というところが自分でも信じられないくらい冷酷だが、結果は同じなので別にどちらでもいい。
それほどまでに薄情な自分だから、十数年自分を育ててくれた両親の顔を思い出し、帰りたいと思ったことは皆無だ。
それなのに、それなのに、ホームシックになるなんて。


ふう、と尚樹は机の上に体を投げ出した。
窓の外の風景はひどくのどかで、それがよけいに嫌だ。
変化の術によって長くなった自分の黒髪を指先に絡める。今のところ、変化の術は尚樹にとって唯一可能な忍術だ。何故これだけ成功したのかは正直分からないが、まあ使えれば良いということで。
分身の術が出来ればいろいろと便利そうなのだが、こればっかりはどうしようもない。
一人ぐだぐだしていると円の端に知った気配。
最近円がカカシ先生探知専用になりつつある。使わないとどんどん円の範囲が狭くなってしまうのでトレーニングを兼ねてはいるのだが、あまり役に立ったことはない。
がらっと戸を引いた姿は、いつものカカシだった。最近はどういう心境の変化か、素顔のまま迎えにくるので気配を探らなくてもカカシだと分かる。ますます円の必要性がない。
一方カカシは、教室内に尚樹の姿が見えず、一番前の席に座っている女性に目をやった。女の子で、20歳弱の姿だが他人に化けているわけではないのかチャクラを見ずとも尚樹と分かる。
ベースがそのままなのか、尚樹を女の子にしたらこんな感じだろうな、という感じだ。
ツインテールに少し幼い印象を受けた。
「……何やってるの」
「えっと……」
質問に答える前に尚樹が立ち上がりわざわざカカシの正面に立つ。少し考えたあとぎこちない動きで左手を頭に右手を腰に当てうっふーんと棒読みで効果音らしきものをつけた。
「……何、やってるの」
「お色気の術……だってばよー」
いやそんな色気のかけらもない恰好で言われても……とシャツにスカートというひねりのない恰好をした尚樹を見下ろした。ついでに色気を出そうとしたポーズらしきものは言うに及ばずだ。
尚樹はと言えば、お色気の術が全く効果のなかったことにしきりに首をひねっている。
「おかしいな……ナルトには効果抜群って言われたんですけど」
「お色気の術にはちょっと露出が足りなかったんじゃない?」
あと色気。
「ああ、なるほど」
そう言えば、ナルトは全裸でした、と言いながらシャツのボタンに手をかけた尚樹に、カカシはぎょっとした。そして止めるか否か迷っているうちに、胸元があらわになる。
そこで尚樹の指がぴたりととまった。
一瞬の沈黙のあと、首筋まで一気に朱に染まる。
「……」
「……自分で術にはまってどうするの……それに」
どうせ変化するならもっとグラマーにしときなさい、とシャツの胸元を指でクイッとひっぱり中を覗き込んだ。ご丁寧にブラまでつけていて、尚樹がお色気の術をマスターするまで先は長いな、と結論した。
「カカカカカシ先生……覗き込むの、止めてください」
「んー? 悪い悪い」
真っ赤になったまま固まっている尚樹を珍しく思いながら、シャツのボタンを留めてやる。長い黒髪が、さらさらとその横で揺れた。
うつむいていてその表情はうかがえないが、背の高いカカシにはその赤く染まったうなじがよく見える。
いつもの癖で頭を撫でてやると、いつもより高いその位置に僅かな違和感。
ついでに珍しく長いツインテールに手を滑らせた。感触はいつもと同じ。
気まずげに上目遣いでこちらを見つめる尚樹に、変なのを呼び寄せそうだな、とカカシはため息をついた。
言っても大して効果がないので、知らない人についていくな、という言葉は飲み込んだ。
「……帰ろうか」
「はい」
女性の姿のままいつものように手をつなごうとする尚樹に、さすがにカカシも変化を解くよう促す。しかしそれに膨れっ面をしたまま尚樹は術を解こうとはしなかった。
……この姿になってから、ずいぶん感情が顔に出るな。
いつもほとんど表情が変わることのない尚樹の珍しい姿だった。
「お姫様はご機嫌斜めだね?」
「お姫様じゃないです……嫌がらせなので今日はこのまま帰ります」
「嫌がらせ?」
さて、何か怒らせるようなことをしただろうかとここ数日を振り返るが特に思い当たる節もない。まあ、いままで尚樹が怒ったことなどないので基準など分からないのだが。
そもそも、なぜこれが嫌がらせになるのかいまいちカカシには分からなかった。
とりあえずいつもやるようにその体を抱き上げる。身長はいつもより高いにもかかわらず重さは変わらない印象を受けた。目線がいつもより高い位置であう。
教室に差し込む光が、その黒い髪や白い肌をオレンジ色に染める。瞳だけはいつものように真っ黒なままその光を反射していた。
「さて、何に怒ってるのかな」
カカシの問いに、すい、と尚樹は視線をそらした。根気づよく尚樹が口を開くのを待つ。
再び視線を合わせた尚樹はやはりどこか憮然とした表情を浮かべていて、もしかして結構本気で怒っているのかと今更思う。
「黙ってちゃ分かんないよ?」
「……だって、カカシ先生聞いといてくれるって言ったのに」
「……何を?」
「花屋のバイトです」
「……ああ!」
忘れてたでしょう、と避難がましい目を向けてくる尚樹に、カカシは忘れてないよー、と首を横に振った。
もちろん、尚樹にそれを信じた様子は全くない。ちょっぴり目が据わっている。
「いや、ほんとに忘れてないってば。ちゃんと聞いといたから」
ただ、バイトを募集してるところがなかっただけで、と心の中で付け加える。
そもそも条件が厳しいのだ。尚樹はまだまだ幼いし、働ける時間も僅か。
そんななかバイトを雇ってくれるほど余裕のあるところもそうそうない。
出来るだけショックを与えないようそう説明すると、目に見えて尚樹が意気消沈した。
いつも無表情なだけに、こうも落ち込まれるとさすがのカカシも焦る。
「ま、まあ、そう落ち込むな。放課後は無理だけど一日休みのときとかなら、ってところがあったから。ただし、お給料はお小遣い程度らしいが……」
「お給料は別にいいんですけど……一日休みの日、って長期休暇とかですか?」
「ああ、出来ればまとめての方がいいとは言っていたかな。だから、もう少し我慢できるか?」
渋々うなずいた尚樹にひとまずカカシは安堵した。そして、今頃になってようやく何故尚樹がこうも花屋に固執するのか疑問に思う。
きっと、自分と会う前のことが関係しているのだろう。カカシと暮らし始めてからの尚樹に花屋との接点はない。
昔のことを尚樹の口から聞いたことはない。普段の生活で尚樹がそれを口にすることはなかったし、カカシも問うたことはなかった。
身寄りがないとは聞いていたが、どこからきたのか本人は分からないと言っていたし、出会う前のことを尚樹がどの程度覚えているかは謎だ。
もし何らかの理由で捨てられたのであればあまり聞かれたくないだろうと思うし、特に不便もないので聞いたことはなかった。
だが、もしかしたら昔の記憶はカカシが思うような嫌なものではないのかもしれない。もし尚樹にとって幸せではない記憶なら、こうして過去につながることに固執することはないだろう。
おそらく「花屋」に関する記憶は尚樹にとって大事なものなのだ。
蝉の声が思考を断ち切る。差し込む光の角度がずいぶんと低くなって教室の隅まで照らしている。
「……花屋に寄って帰るか? 好きなのを買ってやる」
「……いいんですか?」
もちろん、とうなずいたカカシに尚樹はようやく変化の術を解いた。先ほどより近い位置で視線が合う。
小さく笑みを浮かべた尚樹に、やっぱりこっちの方が彼らしいと思った。日頃無表情な人間に表情豊かになられるとどうも心臓に悪い。
まあ、あれはあれでなかなか可愛かったが。
とりあえず機嫌を直してくれたらしい尚樹を抱えてカカシは教室を後にした。