逃げ水-17-

そーっと、慎重に、慎重に。
さらさらと流れていく水面に、尚樹は足を踏み出した。

ばちゃん、と足が沈み、階段を踏み外したときのようにバランスを崩す。
まずい、と思ったときには既に全身に水を浴びていた。
浅い川なので座り込んでいても腰ほどまでしか水位はないが、勢いで上がった水しぶきに顔も髪もびしょびしょだ。
「やっぱ無理か」
水の上を歩いたり、木を登ったり。チャクラを操れれば出来るはずだが、結果は見ての通り。
目で見ていてもその違いは分からないが、チャクラと念は似て非なるものなのだろう。
うっすらそんな感じはしていたのだ。
分身の術は、尚樹の念の制約上発動することはない。道具を介した術ではないし、道具以外を具現化することは不可能だからだ。
それ以外の術も、大半が放出系に操作系、変化系と言ったところで、具現化系である尚樹には分が悪い。
まれに発動するものもあるようだが、本当にまれだ。
しかも難易度の低いものばかり。おそらく、役には立たないだろう。
水面に映る歪んだ自分の顔を眺めながら、尚樹は思考を巡らせた。
忍術が使えないとなると、これからの人生を考えなくてはならなくなる。
アカデミー卒業すらも危ういこの状況で、忍者になれるとは考えにくい。いつまでもカカシの世話になっているわけにもいかない。
「あー……どう考えても……生きているのに向いてない」
主に、この世界で。


がっくりと肩を落とした尚樹のすぐ後ろ、水の上に人の立つ気配。
円をしていなかったのでその気配には気づいていなかったが、自分に重なった影に、相手が大人であることは予想がついていた。
ついでに、水の音がしなかったから忍者だろう。
水の中に座り込んだまま上を見上げた尚樹は、どこか見覚えのある顔と目が合った。
変わった目……これが噂の血継限界ってやつか、と赤く模様の見える瞳を見遣った。
残念ながら、それが何の眼かは分からなかったが。
「水浴びにはまだ早いんじゃないか?」
「いえ、別に水浴びをしていたわけでは……」
特に驚くでもなく自分の言葉に返事をした子供を、うちはイタチは見下ろした。
見たところどこにでもいる普通の子供だ。
黒い髪に黒い瞳。自分の弟も今はこのくらいだろうか、とイタチは目の前の少年にサスケの面影を重ねた。
水の中で盛大にこける光景を見ていたイタチは、子供を抱えて立ち上がらせてやる。見たところ怪我はないようだが、全身からぽたぽたと水が滴っていた。
「こんな森の中で子供が一人では危ないぞ。家は近いのか?」
「うーん、どうでしょう? 浅い川を求めて移動して来たのでここがどこなのかは分からないんですが……」
きょろきょろと周りを確認しながら曖昧に答えた相手に、大丈夫かこいつ、とイタチはちょっぴり不安をあおられた。
もしかしたら、もしかしなくてもこれは迷子なのでは、と嫌な予感が胸をよぎる。
「……家には帰れるのか?」
「あ、それは大丈夫です……たぶん」
最後のあたりは聞かなかったことにしよう、とイタチは固く心に決めた。
迷子の面倒を見てやるほどお人好しではない。断じて。誰がなんと言おうとも。
イタチが一人葛藤している間に、子供の視線はイタチの顔から徐々に下がって、ついにはその足下に注がれた。
それに気づいたイタチは、子供が何をそんなに見つめているのかすぐに思い当たり、ふっと口の端をあげる。
忍びであれば珍しい技でもないが、普通の人間から見れば不思議で仕方ないのだろう。
「どうやって水の上に立っているのか気になるか?」
少し身を屈めて視線を合わせたイタチに、子供はどこか困ったように小さく笑みを浮かべた。
水に反射した光がその黒い瞳をゆらゆらと照らす。
「原理は分かっているんですけど……出来る出来ないは別の話なんですよね、それ」
「なんだ、お前もしかしてどこかの下忍か?」
そのわりには額宛をつけてないが……と腕や首元に視線を滑らせたイタチに、子供はまさか、と否定するように首を振った。
「まだ下忍にもほど遠いアカデミー生ですよ」
「……ちなみに、どこの里のアカデミー生だ?」
「? ……木の葉ですよ?」
子供の返答に、イタチは軽く頭を抱えた。嫌な予感的中だ。
聞かれた方は、何故そんなことを聞くんだろう? と首を傾げているところがよりいっそうイタチの背筋を寒くさせる。
こんなに平然と、しかもイタチの質問の意図にも気づいていない様子から、きっと本人は自分が今現在どこにいるのか本当に把握していないことが容易に知れた。
なにを、どうしたら、川を求めてこんなところまで来ることが出来るのか。
先ほどのいい方だと、まるで散歩がてらのように聞こえるが、現実的に考えて、子供が歩いて来れる距離ではない。
そして、何が恐ろしいって、おそらく本人はまだ里の中にいるつもりなところだ。
木の葉の里まで、大人の足で急いでもおそらく3日。どこをどう彷徨えば、こんな子供が一人でここまでたどり着けるのか。正直、水面歩行の業より難易度が高い。
はあ、とイタチは大きなため息をついた。川なら、わざわざこんなに遠くまで来ずとも木の葉の里にあるだろうに。
ざあざあと水の流れる音がイタチのため息をかき消す。
気を取り直して、イタチは再び子供と目を合わせた。
「お前、ここが木の葉の里の外だって、気づいてるか?」
よせばいいのに、気がつけばそんな言葉が口をついていた。
そして、案の定というか、きょとん、としたあとどこかあきらめるように遠くを眺めた少年に、イタチは自分が正しかったことを確認したのだった。
水面を撫でる風は何事もなかったかのように二人の間の沈黙をさらっていく。
それに、はあ、と大きくため息をついて、もう少し将来について考えてから帰ります、と言ってザバザバと水の中を歩き回る少年の後ろ姿を、イタチは静かに見遣った。
濡れそぼった体は、よけいに少年の体を小さく見せる。
水面歩行はあきらめたのか、両手にぬれた靴をぶら下げていた。
「若いのにずいぶん悲観的なんだな」
ぽつりとつぶやいた言葉に、無表情のまま子供が振り向いた。何のことを言っているのか分からない、というように小さく首を傾げる。
その疑問に答えるように、イタチは先ほど少年がつぶやいていた言葉を繰り返した。
「生きているのに向いてない、なんて子供の言う言葉じゃない」
「ああ、聞いてたんですか」
ちょっとした独り言ですよ、とイタチの言葉を軽く流した子供は、再び何事もなかったかのように水の流れに逆らって歩く。
その素っ気なくも取れる態度に、イタチは苦笑した。
同年代よりも大人びていると思われる態度は、忍者ならば珍しくもない。だが実際にアカデミー生、及び下忍の一部はそれに当てはまらないものの方が多い。
良くも悪くも、まだ忍者としての自覚に乏しい時期というのは存在する。また、自覚があったとしてもそれに精神がついていけない場合も珍しくない。
子供たちは幼くして忍者としての一歩を踏み出さなければならないのだから、無理もない話だ。
だから、そういう空気を一切におわせない目の前の子供は、見かけほど子供ではない。
自分がこのくらいの年のころはどうだっただろうと、もうあまり鮮明には思い出せない幼い記憶を振り返った。
「おにーさんは、木の葉に帰らなくていいんですか?」
木の葉の忍びでしょう、と自身の何もつけていない額を人差し指でさしながら、木の葉のマークだ、と言った。
横一線に傷の入ったイタチの額宛は、抜け忍の印。そのことに気づいていないのか、そもそも抜け忍のことなど知らないのか、至極当然のようにそう言った少年に、イタチは口の端をあげた。
なんとなく、自分の言葉に相手がどういう反応を返すのか、興味がわいた。
「里のマークに傷を付けるのは反逆を意味する。抜け忍の印だ」
アカデミーで習わなかったか、と意地悪く言ったイタチに、表情を変えることなく子供は沈黙で返した。視線はまっすぐにイタチを捕らえている。
そして、イタチと同じように口の端をあげるだけで笑った。
「だから、帰らなくていいんですか、って聞いたんですよ?」


イタチさんも好きです。ブラコンな彼は人目のないところでは面倒見がいいって信じてる。